箱の中のエルピス

 ここではないどこか遠いいまからずっと昔、いやもしかしたらずっと未来のことかもしれません。別の世界、ああもしかするととっても近いご近所のお話かもしれません。






 神さまは長い間、私たちにとっては気の遠くなるような無限にも感じられる間、人間たちのことを見守ってきました。そうただ見守っていました。その星の生命すべてを愛おしく思っていらっしゃいましたが、特に人間にたいしては興味深いものだなと関心も持っておられました。でも特に何かを特別にしてあげるということもなく、ただ見守っていました。







「ああ……」






「いかがなされたのですか、我が主人?」






「もうわたちも我慢の限界かもしれないの。こいつらに期待したのは間違いだったのかもしれないのにゃ」






「な、何ということを仰られるのですか。あれほど彼らの成長を楽しみにされておられたではありませんか……」






「そうなの、でも……。うーん。お前、あたちの代わりに地上に行ってくるのにゃ」






「はっ!? 私がでございますか?」







 西暦2XXX年、3月8日日本時間正午。世界に【箱】が現れた。人々の目の前に箱が現れたのだ。自動車や飛行機を運転、操縦する人たちの前にも突然出現し多くの不幸な事故も起きた。全人類のうちその国や地域で成人、つまり大人とされる者、そう自己認識している者たちの前に現れた。トイレやお風呂の最中、彼女や彼とのムフフな行為のさ中でも関係無しに。もちろん戦闘中の兵士たちの前にも現れ、戦争や紛争地域では一時休戦となった。






 世界の空に、まるであの1917年に起きたと言われる「ファティマの奇跡」のように、この時は聖母では無かったのであるが、さえない中年男性の姿が同時に出現した。






『え、えっと……。何だか緊張しますね。はじめましてこんにちは、いやおはようございます? こんばんは? ああ、一度に皆さんにご挨拶するのも大変ですね。あのですね、私から皆さんに神さまからのメッセージとプレゼントを」






 その男の姿は神父のようであったとも、怪しげなシャーマンのようであったとも、見る者によって様々に映っていたようだと後に明らかになる。言語も英語や中国語、スワヒリ語、日本語でも大阪弁、東北弁、その者にとって最も心地よい言葉で語りかけていたと言う。






 メッセージの内容は簡単に言うと『神さま』なる存在が人類を憂えているらしい。何かをせよというお告げというわけでもなく、ただ『期待している』と。そしてその『箱』は大切に持っておくように、開けると良くないことが起こるから良いと言うまで開けてはならぬということだった。






『箱』は人によって大きさも色もカタチも違っていた。素材は現代の科学では知られていない謎物質でできているようであった。サイズも手のひらに収まる物から人の身長ほどあるものまであり統一性は無かった。






 唯一の共通点は20桁のダイヤル式の南京錠がついており、皆自分の解除番号が自然と頭に浮かぶことであった。






『私からは以上です。ご質問などにはお答えできかねますので、あしからず。では、くれぐれも勝手にお開けになることなど無いように』




 




 それだけ言うと男の姿は消え、その後二度と人類の前に現れることは無かった。






 世界は突然現れた男と『箱』のことで騒然となる。各国政府は緊急の対策をとろうと動き出すが、当然箱を開けてみる者はいるわけで、それにより多くの死者が出た。






 そう死者が出たのである。因果関係の不明なものが大半であったが、勝手に『箱』を開けた者は例外無く何らかの理由、病気や事故、中には空から落ちてきた隕石で命を失う者もいた。それと同時に『箱』も消失した。






 世界の科学者たちはこの謎の『箱』を分析しようと試みるが難航した。自らの命に直結した『箱』を研究に差し出そうという者は少なかった。勇気を持って破壊を試みた科学者もいたがレーザーや爆薬でも傷一つつかなかった。大国は核による実験も行ったようであるがそれについての情報はいまのところ一切出てきてはいない。






 人類の生活様式はその日を境に一変した。ウィズボックスの日常。人々は自分にとって大切な箱を意識しながら生活するようになった。






『箱』はその持ち主の気分で表面の色が変化し、時には美しく光り輝くこともあったし、時にはどんよりと燻んだ色になることもあった。これは自分の心の状態を映し出しているのではないかと誰かが言ったし、皆そう思っていた。人類は自分の心の状態をリアルタイムに詳細に把握し、それを楽しんだり悲しんだりするようになった。






 世界は戦争も減ったし以前よりちょっぴり平和になった。ちょっとだけど犯罪も減った。以前よりも自分と向かい合うようになったし、少しだけ他人に親切になった。







「うん、まあまあなの。こいつらもやればできるかもにゃ」






「そうですね。でもあの箱、いつ開けられるんですか?」






「あれは開けちゃだめなの。パンドラの箱なのにゃ」






「ああ……」






 




 ギリシア神話にパンドラの箱のお話があります。ゼウスがあらゆる悪や不幸を封じ込めた箱です。パンドラは好奇心からこの箱を開けてしまい世界に様々な災いが降りかかってしまいました。でもその箱の底にはエルピス(希望)だけが最後に残っていたといいます。






 神さまなんて信じていない人も現代では多いのかもしれませんが、きっと空からあなたたちのことを退屈そうに、でも、興味を持って見守っているのにゃ。







 


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次が最終話となります。第1話で「世界から光が消えた」あとのお話になります。

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