第7話






 口づけを受け入れたあと、さっきまでの自分の思考に背中がゾッとする。私は何を考えていた? 咄嗟に俯いてライオスの視線を外す。一つだけ言えるのは、あのままライオスの瞳をみつめていたら、危なかったということだけだ。


「どうしたのクロエ?」


 私の顔を覗き込もうとするライオス。なんとか誤魔化さなきゃ。


「手……痛い…………」


 いまだに強く押さえつけられたままの右手に視線をやり、顔を歪める。


「あぁ、ごめんね。僕の手の跡ついちゃったね」


 ライオスは愛しさと執着心が混ざった表情で私の手首をみつめ、口づけた。


 月明かりがチョーカーの装飾部分を反射して、ライオスの視界に端に煌めく。


「もしかしてそのチョーカー」


 私は俯いたまま、緩慢な動作でチョーカーを取ると、それを見たライオスは目を輝かせて歪に口端を吊り上げた。


「ごめんね。僕のせいで、クロエの真っ白な首に僕の跡が残っちゃったね」


 嬉しそうにつぶやくと、腕を私の背中と腰にまわしてくる。そのまま私の首筋に顔を埋めると、その跡全体に触れる口づけ落とし始めた。


 皮膚がぞわりと粟立つ。すぐに突き飛ばしてやりたくなる両腕を我慢して、ライオスの背中にまわす。今この男の機嫌を損ねるわけにはいかない。


 身長差も相まって、ライオスの胸に顔が押し付けられ、息が詰まりそうだ。妙に甘ったるい匂いが鼻につく。


「そうだ、クロエにプレゼントがあったんだ」


 ライオスの甘い声が、耳朶を打つ。ゴソゴソとポケットから包装されたものを取り出した。


「これは……?」


 そう尋ねた私の声は掠れていた。


「リボンだよ。君に似合うと思ってさっき買ったんだ」


 ライオスが私の髪をとって指に絡める。


「ありがとう。大事に使うわ」


 リボンを貰って嬉しいというように微笑み、丁寧にポケットにしまうと、強制的にさっきまで回していた背中に手を置かれる。いつも穏やかな微笑みを浮かべる赤い瞳が、昏く輝いた気がした。


「クロエ……僕だけを見ていてね」


 私の首筋を撫でながら、ライオスの粘着質な視線が絡む。


「ええ、もちろん」


 背中に回した手をライオスの後頭部に回して微笑む。この男は危険だ。どこか遠くに身を隠さないと、私の身が危ない。


 だからこそ、この考えは隠し通さなければならない。


「ライオス、ちょっとかがんで」


 ライオスは何を考えているのか、と眉を上げ、艶然と微笑むと私と同じ目線まで合わせた。ライオスのこめかみのところを優しく包み、額にリップ音をたてて、口づけを落とした。


「え」


 芸術的なまでに美しい鼻梁から続く唇が、衝撃を表すようにぽかんと薄く開いている。


 ──今だ。


「おやすみライオス。いい夢を」


 後ろ手に扉を開けて部屋から出た。服の袖でゴシゴシと唇を拭う。一目散に、階段を降りて自分の部屋に入ると、扉の前でずるずると座り込んでしまった。


「はぁっ……怖かった……」


 安心したら涙が溢れてくる。拭おうとすると腕を近づけると、ライオスに掴まれて真っ赤になった手首を歪んだ視界にとらえた。


「あの野郎、いつか殺してやるからな……」


 空を睨みつけ、重い腰を上げて、乱暴に涙を拭う。


 シャワーを浴びたい。早く、この感覚を流し去ってしまいたかった。






◇◇◇






 あれから二週間。いつもより多く会いに来るという予想と反して、ライオスは一度も私の前に姿を現さないまま、平和に時間が過ぎていた。原作だとそろそろ一学期が終わって長期休暇のレベルアップイベントが始まる頃だ。


 私はお客さんの相手をしながら、器用にぼうっと考えごとをしていると、店長に話しかけられた。


「クロエ。今日午後いないから、店番頼むよ」

「はい」


 時刻は正午きっかり。店長はエプロンを脱ぐと、足早に店を出て行った。


 今日は月末の給料日。今日用事があるからと、朝、店長から給料を手渡しされていた。それに銀行に預けていたお金も全額引き出し、マジックバックに詰め終えている。


 今日、私はこの街を逃げ出す。そのために機関車の時間や行き先も決め、荷造りも済んだ。二週間も平和な時間が過ぎて、私も迷った。それでも、今このうちに逃げ出すことに決めたのだ。


 店長にはよくしてもらった。餞別としてこの魔道具のピアスを机の上に置いていくつもりだ。きっと売れば大金になるだろうという手紙も添えて。


 午後の客足は途絶える。その時間に余った材料でパンを焼いた。逃走している時の食糧だ。三時間ほど集中して作っていると「クロエ」と呼ぶ声が背後から聞こえた。


 耳元で今一番会いたくない男の声が聞こえて、鋭く息を呑む。


「…………ライオス」

「久しぶりだね。元気にしてた?」

「うん」

「そっか、よかった」


 いつもの穏やかな微笑が悪魔の笑みに見える。声が震えないようにすることだけ、尽力する。


 そのあとはなんともないような顔を作って、ライオスと雑談をしながらパンを焼いていた。ずっと視線がこっちに向いているのが怖い。


 十七時を告げる時計の音に頬が緩む。


「もうすぐ店じまいよ。ほら出てって」


 ライオスの背中を押しながら、ポケットから黒いリボンを出す。よりにもよって黒って……内心苦笑する。ピアスを外して髪が元の色に戻ったのを確認すると、一つに結った髪にリボンを巻き付けて結ぶ。






◇◇◇






「ライオス!」


 背に呼びかけられて振り向くと、クロエがリボンを見せるように背を向けてポニーテールを揺らしていた。


「大人っぽくて気に入ったわ! ありがとう」


 クロエの花がほころぶような笑顔をみつめる。心臓が大きな音を立て、早鐘を打っていく。


「うん。君って本当に綺麗だ」

「ふふ、ありがとう」


 クロエの顔にかかった髪を耳に掛けようと手を伸ばす。彼女は刺すような鋭い目つきで僕の手を認識すると、するりと逃げるようにすり抜けた。


 空を切った手を握りしめる。


 駄目だよクロエ、僕から逃げようとしないで。






◇◇◇






 夜の空気が肺を満たす。


 あの最後の出勤からすぐにシャワーを浴びて、動きやすい服や靴に着替えて外套を着て、部屋から逃げ出していた。


「はぁ」


 思わずため息をつく。面倒なことに、後ろから尾けてきてる。多分一人。

きっと人攫いだとあたりをつける。面倒だからさっさと追い払おう。


 曲がり角を曲がって止まる。近づいてくるのを感じると、機敏に反応して男の側頭部を掴んで膝蹴りを喰らわせる。


「ぐわっ」


 ローブを纏った男が倒れる。顔面は血まみれで少しグロい。


「うわぁ……多分鼻折れてるわ。でもごめんね、先急ぐから」


 駅に急ごうと振り向くと、誰かの胸板に顔が当たった。既視感のある光景に身構えてしまう。


「すみませ……」

「さすがクロエ」


 よく知る声に肩をビクッと振るわせる。なんで……どうしてここにいるの?


 おそるおそる顔を見上げると、静かな怒りを滲ませたライオスが立っていた。


「ライオス……! なぜここに……」

「クロエこそ、こんな夜中にどこいくの?」


 ライオスの両腕が私の腰にまわされる。しくじった、逃げ出せない。


「実はもう仕事辞めたの」


 強く胸板を押してもびくともしない。焦りだけが募っていく。


「だからもう、私に関わらないで」

「それはよかった。これで心置きなく君を攫えるよ」

「は?」

「もううちの従業員じゃないし、他人だろう?」


 後ろ手にライオスの腕を掴みながら、じりじりと後ずさる。必然的にライオスも私に近づいてしまう。


「僕は本当に君に惚れているんだ」


 腰から手を離して、優しい手つきで懐から取り出したリボンを手に取り、私の手首に巻きつけ始める。


「だから、しょうがないよね」

「え」


 そう言ったライオスの目は笑っていなかった。


 翳る赤瞳で、ライオスは私の手首に巻き付けられたリボンを見つめる。それは、紛れもなくライオスの独占欲が表れたものだった。


 ライオスは握っていた私の手に自らの指を絡めると、私の指に口付けるように引き寄せた。


「帰ろう、クロエ。もう充分逃げたでしょ?」


 ライオスの瞳が妖しく光る。その瞬間急にくらっとして、腕を引かれてライオスの胸に倒れ込んでしまう。


 瞬きが重くなり、頭の思考が遅くなっていく。


「何……し…たの……?」

「ちょっと眠らせただけだよ」


 強烈な眠気が襲ってくる。


「大丈夫。クロエは安心して眠ってね」

「く……そ…………」


 眠気に逆らって、私を抱きしめるライオスの腕に噛み付く。


「ははっ、やっぱりクロエって最高だよね」


 ライオスの血で唇が滲む。意識が次第に落ちていく。周囲の音が聞こえなくなり、思考が重く沈んでいった。


 ライオスはそんなクロエを満面の笑みで見つめて、ひっそりとつぶやいた。


「クロエ大好き」



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