第19話 期待される
次の日、まだ鶏も鳴いていない夜明け前。ディアナは街を歩いていた。春の朝の空気は冷たく、白い吐息が漏れた。
ディアナはジェラルドとマルコが街を出る前に治癒魔法を使う約束をした。そのために北門に向かう道中、クラリスの家に寄った。
その理由は二つある。ひとつは、昨日クラリスが気分を悪くして急に帰ってしまったようなので、純粋に顔が見たかった。二つ目はジェラルドとマルコが出発するまでの僅かな時間ではあるが、騎士志望の友人として紹介したかった。
本来なら騎士団長相手に失礼だが、治癒を頼まれているので、ディアナの頼みも少しくらいは聞いてもらえるだろうという打算があった。
しかし、ディアナがクラリスの家の扉を何度叩いても中から返事が無い。
「……まだ寝てるのかな。確かに早すぎるもんね」
ディアナはそう呟いて、かじかむ両手を擦った。普段からクラリスは、いかにも今起きましたという感じのボサボサ頭で登校してくる。それから察するに、この時間はまだ夢の中にいても不自然じゃない。
ディアナが諦めて北門に向かおうと振り返ると、目の前に女性が立っていた。
「ウチに何の用かしらあ?」
間延びしたような猫撫で声だった。壁に手を添えていないと今にも倒れてしまいそうな足取りだ。
「あなたは……、クラリスのお母様ですか?」
ディアナは直感で分かった。派手な化粧の奥に、どこかクラリスの面影がある。瞳が濡れ、顔がほてっている。酔っ払っているようだ。
「朝早くに申し訳ありません。初めまして、クラリスの同級生のディアナ・ヴァージニアスと申します。いつもクラリスにお世話になっておりますわ」
ディアナは柔らかく微笑み、スカートを摘んでお辞儀をした。こなれた所作だ。
「ああ、あんたが噂のディアナねえ。知ってるわよ」
クラリスの母親は目を細めてけらけらと笑いながら、覚束ない足取りで近付いてくる。彼女から放たれるアルコールと煙草の匂いが鼻についた。見た目からしても、ついさっきまでお酒を飲んでいた、つまり朝帰りであることは一目瞭然だ。
――何なのこの人? これが十四歳の娘を持つ母親なの?
ディアナはそう思って、頭を振った。クラリスのお母様になんてことを考えるの、と自省する。
父親とは死別しているはずなので、どう生きようが彼女の自由だ。それに彼女はクラリスが騎士になるのをぶってまで止めたという。バルクレイがディアナの騎士の道を反対したように、そこには深い母性愛があるはずだ。
クラリスの母親は壁から手を離し、突然寄りかかるようにディアナの肩を掴んだ。高価そうな宝石がついた指輪を何個もつけていた。
「ふふふ、あんた魔法が得意なんでしょお。クラリスじゃなくてあんたが騎士になりなさいよ。そしたらクラリスは神官になって安定した収入が得られるしい、私は騎士の知り合いができるわあ。一石二鳥ね」
「……は?」
発言の意味と意図が分からず、ディアナは呆気にとられた。
「いや、いっそ騎士も神官もやめて、この見た目なら体を売るのがいいかもね。きっと大人気よ。そうしましょお、良いお店紹介するから。ああ、良い匂い。若いっていいわねえ……」
彼女はディアナを抱きしめ、首筋あたりを嗅ぎ始めた。
「……ひっ!」
ディアナは怖くて思わず突き飛ばしてしまう。
「きゃっ」
クラリスの母親は短い悲鳴をあげて、木製の扉にぶつかった。ずるずるとずり落ち、地べたに座り込んだ。
「いったあ……酷いじゃない」
機嫌良さそうな顔から一転、眉を釣り上げてディアナを睨む。
「……あ、も、申し訳ありません。でも、私は娼婦になりませんし、クラリスは騎士になりますから!」
「騎士なんてあの子がなれるわけないじゃなあい。魔法が使えるだけで、他には何の取り柄もない、愛想の悪い暗い子よ」
ディアナは困惑する。「愛想の悪い暗い子」なんて普段の明るくて元気なクラリスのイメージと正反対だ。
「クラリスはなれます! 努力家だし、性格も良いし、風魔法もすごいんですから!」
「魔法はあなたの方がすごいんじゃないのお? 噂には聞いてるわよ、ディアナは首席卒業間違い無しだって」
「確かに、私は天才です!」
ディアナが胸を張る。クラリスの母親は堂々と宣言したディアナを鼻で笑った。
「すごい自信だわ。それだけ周りから期待されてるのねえ。はー、それに比べてクラリスは……」
「私は天才ですが、クラリスだって天才なんです! あの繊細な魔力コントロールや発動のスピードは訓練の賜物です。誰でもできることじゃありません。クラリスは早い時期から目標を定めて、ひたむきに努力を継続できる人なんです! 私はクラリスの親友としてそれを身近で見てきました。クラリスはきっと優秀な騎士になって、この国を守ってくれます。私はクラリスに期待しています!」
ディアナは勢いに任せて一息で言いきった。クラリスの母親は沈黙し、ディアナの荒い呼吸音だけが静かな朝の街に響いた。
しばらくして、母親は大きなため息をついた。地べたに座ったまま髪をかきあげる。
「……あー、なんか眠くなってきちゃった。好きにすれば」
そう呟き、まるで幼い子どものようにふてくされた。
「あの、大変差し出がましいのですが、クラリスを起こして、今から北門に来てって伝えていただけませんか?」
「はあー? 何で私があんたの願いを聞かなきゃいけないの?」
「クラリスに! 北門に来て! って伝えて下さい! では失礼します」
ディアナは一方的に言って、踵を返した。そのまま走り出す。恐くて振り返れなかった。
――ああー! クラリスのお母様を突き飛ばしちゃった!
頭を抱えて後悔する。最近どうも感情的になってしまって上手くいかない。そう反省しつつ、北門に向かった。
そのとき、クラリスは玄関にいた。ドア越しに聞こえたディアナの言葉を聞いて両手で顔を覆った。そのひとつひとつの言葉が嬉しくて、クラリスは目に涙をためた。
誰もが認める才能と実力を持つディアナが、クラリスを評価してくれている。しかも、クラリスと家族以外の前では優等生を演じる彼女が、なり振り構わないような声と言葉遣いで。それは紛れもない本心であることを意味する。
「うわ、びっくりしたあ」
目の前の扉が開いた。家の中に朝日が射し込む。暗い玄関に一人佇んで目に力を込めるクラリスを見て、母親が驚いたような表情を浮かべた。
「さっきからそこにいたの? じゃあ聞いてたでしょ。北門に来いだってさ。ディアナだっけ? いきなり突き飛ばしたりして、非常識な女ね」
「……」
「ねえ、あんたって天才なの? それなら騎士になってもいいわよ。純粋な実入りだけなら騎士の方が良いしね。せいぜい生き延びて私のためにお金を稼ぎなさい。新しい指輪が欲しいの」
母親が髪をかきあげる。煙草の匂いが鼻についた。
「私は凡人だよ。ディアナが勘違いしてるだけ」
「そうよねえ。見下してるだけよね。これだから美人は嫌いだわ」
「……でも」
クラリスは拳を握りしめた。いつも母親と話すときは会話を早く終わらせることだけを考えている。自分の意見なんて言ったことがない。
だからこれは、初めて母親に伝える本心だった。
「でも、ディアナが私を天才だと言ってくれるなら、私は
クラリスはそう言って、家を飛び出した。
母が嫌いだった。彼女を見返すために騎士になりたかった。しかし今となってはどうでもいい。親友がクラリスに「優秀な騎士になれる」と言ってくれたからだ。これ以上に満たされることはない。
――期待してもらえることはこんなにも嬉しい。もしディアナが本当に騎士になりたいなら、真っ先に私が心から応援しないといけなかった。それなのに、私は……。
クラリスは後悔していた。これからもするだろう。この先もディアナと比べられ続けるのを想像すると、胸が苦しくて嫌になる。
――でも、私のせいでディアナが我慢する方が、もっと嫌だ。
北門で何があるのかは知らないが、今すぐディアナに会いたい。話がしたい。今まで隠していた貴族の父親がいることも、母への愚痴も、ディアナに嫉妬していたことも、全部話してまた一からやり直したい。
クラリスは走った。頭の中にはディアナへ伝えたいことが次から次へと沸いてきた。
ディアナが北門に到着すると、門が開いていた。いつもはまだ閉まっている時間だ。
「誰もいないなんて、いくら何でも不用心だよ」
ディアナが呟く。見張りの衛兵が最低でも二人は常駐しているはずだが、無人だった。
ディアナは辺りを見回しながら街の外に出た。街道沿いにバルクレイがいて、馬車の横でジェラルドとマルコを待っている。
出勤前のバルクレイは、いつも通り騎士の制服を着ていて、腰には剣を差している。あくびをしていて眠そうだ。ディアナに気付き、声をかけた。
「クラリスは来なかったのかい?」
ディアナとバルクレイは一緒に家を出たが、ディアナはクラリスを誘いたかったので、バルクレイには先に向かってもらっていた。
「うん。会えなかった。寝てるんだと思う。一応伝言は頼んだけど……」
「残念だったな。僕の話を聞くよりも何倍もためになるだろうし、団長とのコネも作れて入団試験も有利になったかもしれないのに」
「コネなんか無くても、クラリスは絶対に受かるもん!」
ディアナが声を荒らげる。クラリスの母親と話したせいで心が波立っていた。バルクレイは少し困惑しながら同意した。
「え、いや、もちろん僕もそう思うよ。でも紹介したいって言ったのはディアナの方じゃないか」
ディアナは心を落ち着けるため、辺りを見渡して話を変えた。
「それにしても団長様とマルコ様、遅いね」
「そうだな。それに門番がいないのもおかしい」
バルクレイも首を動かす。いくら治安が良い街と言えど、門を見張りもなく開放しているという状況は良くない。
少し先の方にゴブリンと戦った北の森が見える。群生する木々の向こう側に、ディアナのせいで焼け野原になった一帯がある。ディアナは妙な胸騒ぎを感じた。
「……団長様?」
ディアナが言った。なぜかジェラルドがそこにいる気がした。
バルクレイもディアナの目線を追い、顔が強張った。その方向から禍々しい殺気を感じたからだ。まるで巨大な魔獣に間近で睨みつけられているような、突き刺さるような圧迫感と存在感がある。
「まさか……気付かれたのか? いや、バカな」
バルクレイが一人言のように呟く。ディアナが彼の顔を見上げると、額から一筋の冷や汗が伝っていた。
「――まずい!」
バルクレイの声を聞くと同時に、ディアナは全身が浮遊感に包まれた。
すぐにバルクレイに抱きかかえられて、高く跳んでいることに気付いた。
ディアナたちがいた場所の地中から太く鋭利な木の根が突き出ていた。馬車の馬が驚いて暴れている。あれを回避するためにバルクレイは飛び上がったのだ。
二人が着地すると、すぐにまた木の根が左右と後ろから向かってくる。バルクレイの機敏な動きでそれらをかわした。
「これは……くそっ」
バルクレイが舌打ちした。何とか避けているものの、どんどん北門から離れていく。まるで誘導されているかのようだ。
何度目かの回避で北の森に突っ込み、ディアナが焼き払った一帯に着地した。
焦げた広場の真ん中で、ジェラルドが甲冑姿で仁王立ちしている。刀身だけで一メートル以上はあろうかという幅広の大剣を握っていた。
口元が微かに動いている。何かを呟いているようで、終わりの言葉だけ聞こえた。
「〈
その直後、地面から何重にも巻きついた格子状の蔓が生え、上空で結ばれた。まるで三人を閉じ込める鳥籠のようだ。
「……団長、これは何のつもりですか?」
バルクレイがディアナを抱きかかえたまま言った。ディアナは彼の腕が震えていることに気付いた。
「〈玉樹牢獄〉だ。忘れたか? 俺が敵将と一騎打ちをするときに使っていた魔法だ。仕掛けるには手間を要するが、この中では俺が使える全ての地属性魔法が無詠唱で発動できる」
落ち着いた低い声や表情はいつも通りだが、放つ雰囲気は決定的に違う。
対峙しているだけで喉が乾く。冷や汗が止まらない。
ディアナはこの雰囲気の正体を直感した。初めて人から向けられる感情だった。
――これは、殺気だ。
バルクレイは抱えていたディアナを下ろし、腕を引っ張って自身の後ろに回らせた。ディアナは今にも座り込んでしまいそうだったが、バルクレイを支えにし、必死に足に力を入れて立った。
「そんなことを聞いてるんじゃありません。ディアナを殺す気ですか?」
「ディアナだけじゃない。バルクレイ、お前もだ。仇討ちされたら面倒だからな」
「……っ」
バルクレイは剣を抜いた。彼はすでに状況を理解している。しかしディアナにはちっとも分からない。
――私たちを殺す? 団長様が? 昨日まで普通に話してたのに、どうしてそんなことになるの?
混乱する彼女に、バルクレイが小声で囁いた。
「ディアナ、端っこまで下がったら火魔法で出口を作って逃げろ。レベル六を使えば一人分の穴くらいは開けられるはずだ」
「え、パパは」
「俺は時間を稼ぐ」
バルクレイはごくんと唾を飲み込んだ。ジェラルドは王国騎士団長。つまりこの国の軍事の最高責任者で、最強の騎士だ。マルコより遥かに強い。しかもこの空間は、ジェラルドの地属性魔法が無詠唱で発動されてしまうらしい。圧倒的に不利だ。
「話し合いはできないの……?」
ディアナが言った。バルクレイが小さく首を振る。
「無理だ」
ディアナは目の前が真っ白になった。
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