第6話 漆黒のナイフ

 ディアナとクラリスが壁沿いに森を歩き始めて、一時間が経過した。


「出ないなー、魔獣」


 前を歩くクラリスが言った。頭の高さにある邪魔な枝を避けるため、首を斜めに傾ける。


「北の森が危険って言っても案外こんなもんなんだね。もっと魔獣がうじゃうじゃいるのかと思ってた」


 後ろのディアナも首をすぼめてかわす。二人とも、最初に比べて無駄な動きが減り、いくらか慣れてきた。


 ふとクラリスがディアナを振り向いた。


「何?」


「いや……ふふっ。さっきディアナがただの蜂に大騒ぎしたのを思い出して……あはは」


「だって蜂って怖いじゃん……!」


 数分前、一匹の蜂がディアナの顔の前を通過した。動揺したディアナは火魔法で即座に蜂を消し炭にしたものの、周囲に燃え広がりそうになったので慌てて土魔法で泥をかぶせて消火した――という出来事があった。


「顔を刺されて傷が残ったらどうするの?」


 ディアナが真顔で言う。クラリスは噴き出して笑った。


「ディアナ、私たちは魔獣と生死をかけた戦いをするために来たんでしょ? 顔に傷が残るかどうかなんて小さいことであんなに動揺しないでよ」


「言っておくけど私はクラリスについてきただけだから。全然覚悟なんてないから」


「そっかそっか。わざわざ付き合ってくれたディアナのためにも、是非とも魔獣と戦いたいんだけどなー」


「本当そうだよね。私もせっかくお小遣いをはたいて防具と短剣を買ったんだし、クラリスが戦うところを見届けなきゃ損……」


「ディアナ!」


 クラリスがディアナの話を止めた。


 森の奥から、老人の呻きのような鳴き声と共に、一匹のゴブリンが木々の合間を縫ってこちらに走ってくるのが見えた。


 体長は百二十センチほど。着衣は腰布のみ、片手にこん棒を持っている。しわだらけの顔と緑色の肌、そして鳴き声に不快感があり、とにかく生理的に受け付けない。ディアナは全身の産毛が逆立つのが分かった。


 森に慣れているからか移動スピードが速い。ゴブリンは木の枝や足場の悪さをものともせず、するすると近付いてくる。


「ディアナ! 下がって!」


 ディアナは恐怖と嫌悪感で腰が引けたが、クラリスは違った。枝を切り落とすために持っていた短剣を、地面に刺した。その方が鞘に納めるより早いと判断したのだ。


 クラリスは空いた両手をゴブリンに向け、素早く詠唱した。


「駆ける天馬の嘶きを、風の囁きに重ね奏でよ! 〈風刃フウジン〉!」


 選んだのはもちろんバルクレイに褒められたレベル三の得意魔法だ。


 風の刃が枝葉を斬り裂きながら突き進み、あと五メートルの距離まで近付いていたゴブリンの首を刎ね飛ばした。


 断末魔をあげる間もなく、ゴブリンの頭は宙を舞った。首の切断面から紫色の血が噴水のように噴き上がる。頭は雑草の上を数回跳ねた。胴体も少しだけ歩いてやがて倒れた。それぞれ痙攣した後、完全に静止した。


 首の切断面から紫色の血と共に、黒い霧が噴出する。ゴブリンの死体がカラカラに干からびていき、元の大きさの半分くらいにまで萎んでしまった。


「これでもう大丈夫だよね」


 クラリスが両腕を下ろした。


「うん、たぶん。……魔獣が死んだら魔力を吐き出して干からびるって本当なんだね」


 ディアナが呟く。授業で習った内容も、現実に目の当たりにすると感慨深い。


「っていうか、クラリスすごいね。パパが向かってきたときも思ったけど、接近されてもちゃんと落ち着いて詠唱できるって……」


「ディアナ〜! 怖かった〜!」


「わっ」


 ディアナが話している途中に、クラリスが抱きついてきた。クラリスの体は震えていた。


 ディアナの目には冷静に引きつけて淡々と仕留めたように見えたが、案外そうじゃなかったらしい。ディアナはクラリスの髪を撫でながら褒めてあげた。


「よしよし。よく落ち着いて詠唱できたね」


「うん、ちゃんと出来て良かった。魔法を放つ瞬間、わがままに付き合ってついて来てくれたディアナだけは絶対守らないとって思ったら、すごく冷静になれたんだ。今さらだけどディアナ、来てくれてありがとう」


 抱き合っているので表情は分からないが、実感のこもった声だ。クラリスの本心だと伝わってくる。


「あの一瞬でそんなことを考えてたんだ」


「そうだよ。偉いでしょ?」


「偉いっていうか……余計なこと考えてないで、もっと集中してよ。それにホント今さら何言ってんのって感じ」


 ディアナの冷たい言い方に、クラリスは勢いよく体を離した。


「ひど! 何それ!」


「あはは、うそうそ。蜂の件で笑われた仕返し。ありがとね親友!」


 今度はディアナから抱きついた。二人は今までの緊張と不安をほぐし合うように、たくさん笑った。





 しばらくして、ディアナとクラリスは壁際を離れ、ゴブリンの亡骸の横に立った。


「冒険者の討伐依頼は、魔獣の心臓近くにある魔石を回収してギルドに届けることで初めて依頼完了になるんだって……」


 ディアナはこれからすることを想像し、青ざめた顔で首の無い干からびたゴブリンを見下ろした。クラリスも同じ表情だ。


 クラリスが魔獣と戦った理由は、騎士の入団試験に向けて命懸けの戦闘経験を積むためだった。

 それはたった今達成されたが、もう一つ目的がある。クラリスが騎士としてやっていけることを母親に証明すること、だ。そのためには倒した証拠として魔石を回収しなければならない。


「嘘でしょ……この死骸を裂いて体内に手を突っ込むの? ディアナ、正々堂々ジャンケンで決めよ!」


「やだよ。クラリスの問題でしょ」


「そんなあー、親友〜!」


 白熱したジャンケンは三回のあいこの末、ディアナが負けた。


「あっ、風魔法で細切れにすれば触らなくていいかも!」


 ディアナが笑顔で提案したが、クラリスに却下される。


「魔石も斬れちゃうかもしれないじゃん。早くやってよ」


「その態度ひどくない? ジャンケンで勝ったからって」


「さっきのお返し」


「もう! 何でクラリスの問題なのに私がこんなことを……!」


 ディアナは地面に両膝をつき、首の無いうつ伏せのゴブリンを乱暴に裏返した。目をつぶって、短剣を勢いよく胸に突き立てる。


 ザクッ、という音と手に残る不快な感触に鳥肌を立てながら、恐る恐る目を開けた。


「……うう」


 ディアナは涙目で短剣を手前に倒す。力が足りないようでうまく胸の皮膚を裂けない。


 そして、もう一度力を込めようと大きく息を吸った瞬間。


 パキ、と細枝が踏み折られる音がした。


「……クラリス!」


 ディアナが顔を上げて叫ぶも、遅かった。いつのまにか接近していた二匹目のゴブリンが、背後からこん棒でクラリスの頭を殴ったところだった。


 クラリスは悲鳴をあげる間もなく意識を失い、そのままうつ伏せに倒れた。


 ゴブリンは緑色のしわくちゃの顔で、膝をついているディアナを見下ろしている。吐息が荒い。


 ディアナの頭の中を様々な思考が駆け巡る。


 ――クラリスの容体は? 動かないけど大丈夫? それを調べるためにはゴブリンと距離を取らなきゃ。どの魔法を使うのが最適? いやこの距離なら短剣での攻撃!


 ディアナは死骸に刺したままの短剣を引き抜こうとしたが、深く食い込んでいて抜けない。


「……!」


 ディアナは初動に失敗した。結果、先にゴブリンがこん棒を振り回し、ディアナは左肩にその一撃を食らってしまった。


「うっ……!」


 ディアナは吹き飛ばされ、横にあった大木に頭と右肩を強く打ち付けた。


 ズキズキと骨が軋むような痛みが走る。自身の頭から流れる血が目に入り、さらに混乱が加速する。


 吹き飛んだ拍子に短剣を手放してしまったため、ディアナは魔法で攻撃しようと右手を向けた。


「駆ける天馬の、嘶き……」


 この状況なら威力は二の次とし、まずは詠唱が短い低レベルの魔法でとにかく距離を確保するべきだ。


 しかしディアナは無意識に、威力が高くそこそこ時間がかかる〈風刃〉を選択してしまった。これも手痛い失敗となった。


「ギィッ!」


 詠唱の途中で、前に伸ばしていた右手をゴブリンがこん棒で叩き落とす。


「つっ!!」


 ディアナは右手が吹き飛んだかと思うほどの衝撃を感じた。何本かの指が折れた。いや、全部かもしれない。


 ――痛い、痛い! まずい! 痛い!


 ゴブリンは一度、足下に倒れているクラリスに視線を落とす。彼女はディアナよりも多くの血を頭から流しており、広い範囲の雑草を赤く染めている。


 クラリスが気絶していることを確認したゴブリンは、木にもたれかかって憔悴しているディアナに余裕を持って、ゆっくりと近づいてきた。


 ゴブリンの息が荒い。口からは唾液の糸が垂れている。人間のようで絶妙に人間じゃない異形の表情が気色悪い。


 ディアナの脳内は恐怖と痛みと後悔で隙間なく埋まっている。もっと警戒していればと自身を戒めてももう遅い。


 これは、間違えたら次は正解できるように努力すればいい学校のテストとは違う。次はないのだ。


 ガサガサガサ、と草葉が揺れる音が聞こえ、ディアナは目を見開いた。


 目の前に立つゴブリンの向こう側に、十匹以上のゴブリンの群れがいるではないか。


「……なんで? さっきまで全然いなかったのに! なんで急にこんな……っ!」


 腰が抜けて立てない。頭と右手も痛くて動かない。逃げることはできず、かといって戦うにもこの距離では魔法よりゴブリンの物理攻撃の方が早い。


 ディアナは痛みと恐怖のあまり思考を放棄した。


 あがくことを諦めかけた、その瞬間だった。


「ギィッ!」


 ゴブリンの悲鳴が聞こえた。


 目の前にいた一匹のこめかみに漆黒のナイフが突き刺さっている。ゴブリンは血を噴き出し、そのまま倒れた。

 後ろの群れは混乱している。きょろきょろと辺りを見回し、ナイフの射手を探しているようだ。


 ディアナは瞠目する。目の前の一匹が倒れ、奥のゴブリンの群れとは距離がある。


 ――これは魔法の間合いだ。


 ディアナは力を振り絞り、五本指がバラバラの方向に折れ曲がっている右手を、ゴブリンの群れに向けた。


 荒い呼吸を何とか抑え、心を落ち着け、詠唱を始める。


「炎帝に誓う、刻印を結び……無限の花弁を散らす、鎮魂の烈華。硝煙と、火炬八百の灼熱よ、世界の端まで照らせ……緋赫の光で。〈華炎弁カエンベン〉」


 詠唱を終えると同時に、焦げくさい臭いが漂い、無数の火の粉が弾けた。


 次の瞬間、ゴブリンの群れを中心として辺り一帯を焼き尽くすかのような豪火が次々と発生した。その火はそれぞれが高く高く燃え上がり、ゴブリンの焦げた肉片が花吹雪のように舞い落ちる。逃げ惑う間もなく群れは殲滅された。


 レベル六の火属性魔法〈華炎弁〉は、ディアナが使える魔法の中では最強の火力を誇る。これをたかがゴブリンに使うのは明らかなオーバーキルだが、それほどディアナは追い詰められていた。


 ディアナの意識は朦朧としている。空気中から急激に酸素が失われ、息苦しい。木にもたれて座っている体勢すら保てず、うつ伏せに倒れた。


 やがて力尽きて目つぶると、火炎が空気を巻き込む音、弾ける火の粉の音に混じって、何人かの男の声が聞こえた。


「……おい、おい! 大丈夫か!?」


「ひどい怪我だ! こっちにもう一人倒れてるぞ! すぐに治療院に運べ!」


「この子が詠唱してたよな……、こんな魔法を、信じられない」


 男たちの会話を聞き、ディアナの肩の力が抜けていく。


 ――この人たちは冒険者? それとも衛兵? あの黒いナイフは、きっとこの人たちに違いない。クラリスも私も、助かったんだ。良かった……。


 そこでディアナの意識は途絶えた。

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