第10話 黄金の名を冠す者
モンテドーロには、無数の喫茶店やコーヒーショップがある。
その理由は、かつてコーヒー豆のプランテーションを多数抱えていたことや、鉱山労働者の間で必需品のように持て囃されていたことなど、多岐に渡るが……。
「ふぅん……」
現代人にとって、そのようなことは無関係だ。
ただ重要なのは、舌鼓を打つに値するエスプレッソが、そこにあるという事実だけである。
彼女はほんの少し、甘くもほろ苦い濃厚なそれを舌の上で転がすと、再び書類のコピーに眼を落とした。
「今すぐにでも調査に取り掛かりたいのは山々なんだがなぁ」
「ヴィオラさんでもお手上げなんですか?」
「お手上げも何も、まずは考察を始める端緒がねぇと始まんねぇだろ。そういうサリナはどうなんだ?何かひらめきは?」
「ありません。身共も努力はしていますが……こういうことは不得手です」
「お前、思ったよりも脳味噌が筋肉でできてるよな」
溜息を吐きながら、ヴィオラは額に手を当てた。
「おい、そういえばマーキュリーはどこ行ったんだよ?」
「マスターに現況報告だそうです」
「そう、か。ま、上司への報告は確かに大事だ。後々面倒なことにならない為にもな」
「今日のところは二人で調査するしかありませんね」
「取り敢えずは問題を切り崩すところからだな……。この事件は失踪であって殺害じゃあねぇんだろ?」
サリナはココアを持ちながら、軽くヴィオラを睨みつける。
声が大きい、という意味か。それとも、単純に物騒な言い方はやめろ、という無言の圧力か。
彼女は見えないふりをして言葉を続ける。
「つまり、遺体は見つかってねぇってことだ」
「もし見つかっていれば、それ自体が大きな手がかりになりますからね」
「そう。ただ、見つかっていない、という事実もまた一つの手掛かりになり得るだろ。例えば、20件以上の誘拐事件を起こしたなら、生きてるにしろ、死んでるにしろ、かなり広大な保管場所が必要なはずだ」
「モンテドーロは広大な都市ですが、地上には所狭しと道路が敷かれ、家屋が立ち並んでいるんですよ?そんな空白がどこに……」
「私も分からねぇよ。だからといって、都市外に集められているとは考えたくねぇからなぁ。ま、取り敢えずはあり得そうな場所をリストアップしてみるか」
モンテドーロの外に集められているとは考えたくない……それは、ただヴィオラが面倒臭がっているだけではなかった。
元よりモンテドーロは、厳格な区分によって管理者が決定され、それぞれ統治が行われている。
そしてそれは、内外の出入りも同様だ。
彼、彼女らの視線を掻い潜って20回以上も、モンテドーロを囲う城壁を乗り越えられるとは考えにくい。
あのような、証拠一つ残さない誘拐をやってのける常識破りが相手である時点で、そのような先入観は省くべきなのかもしれないが。
捜査の手を広げるあまり、第一に注力すべき範囲の調査が疎かになるのはいただけないだろう。
「地図を見ている限り、そのような場所は見当たりませんね。それこそ、ジェムストーンマフィアの本部なんかは巨大ですが」
「馬鹿言え。身内疑うのは、あらかた探ってからだ。他は?」
「拝樹教のモンテドーロ司教座も、かなり広大ですね。庭園を含めると、面積そのものはカテドラーレ・ジョイエッリ以上かもしれません」
「……」
「いかがされ……あ」
サリナは地図から顔を上げると、バツが悪そうにはにかんだ。
「す、すみません。そういえば、ヴィオラさんは」
「いや、いい。疑うとか疑わないとか言ってる暇は無いからな。寧ろ、私が悪かった。続けてくれ」
「そうですか。それなら、えっと、ギルド本部なんかはどうでしょう?後はペリドット邸も中々に」
気を取り直して、手当たり次第に大人数が収容可能であろう場所を挙げるサリナ。
すると、その声を遮るように、カフェテリアの奥の方から耳障りな物音と、それに伴った怒声が響いてきた。
「おい!聞いてんのか!?」
思わず溜息が漏れる。
ここは、アレキサンドライト御用達のカフェじゃなかったのか?
コーヒーとサービスが良質であることは認めるが。
大陸屈指の治安を誇る都市でも、薄汚い酒場で頻繁に見るような諍いが起こるのか。
「大丈夫でしょうか?」
「ほっとけほっとけ。気にするだけ損だからな。それに、ああやって絡む類のヤツは得てして、暴力での解決を望んでるもんだ。口で言ったって聞きやしねぇよ」
「そうですか……」
「ま、恩を売って情報を得るってんなら別——」
「早く出ていきやがれ!」
耳を劈くような大声と共に、無惨にも陶器が床に落ちて割れる音が鳴る。
穏やかで無いことは確かなようだ。
「言われないと分からないのか?この裏切り者め!」
「……裏切り者?」
ここで初めて、好奇心を抱いたヴィオラは立ち上がった。
思わず、サリナは彼女の服の裾を引っ張って引き止める。
「どうするつもりなんですか?」
「様子を見るだけだよ。それに、お前としては助けてあげたいんだろ?」
「……」
「ま、コトが起きても殺しはしねぇよ。ここは戦場じゃねぇしな」
「身共も行きます」
「好きにしろ」
「おい!出ていけっつってんのが聞こえねぇのか!」
二人が通路の角からゆっくりと向こう側を除いた瞬間。
眼に入ったのは、アイスティーらしきものを脳天から浴びる女性の姿だった。
美しい金色の髪には、細かく砕かれた氷が纏わりついており、空中に投げ出されたストロー諸共、無力感に苛まれながらひらひら落ちていく。
彼女の手元に置かれた紙は無論、不可避の災厄に巻き込まれて凡そ再起不能の状態になっていた。
「ぷっ。ふふっ、あははっ!」
「何がおかしい?ここにいる全員が、お前がここから消えることを願ってるのがわからねぇのか」
そうして初めて、彼女は口を開いた。
心底楽しそうに、しかしどこか演技めいた仕草で口元を歪める。
「いや、いやいや。アタシが嫌われ者だってことは元から分かってることだったっすよ?でも、ここまでとは思ってなかったっす」
「はぁ?」
「酷いことするっすねぇ。なけなしのお金で買ったアイスティーだったのに、もう一滴も入って無いっすよ。でも……」
滴り落ちる紅茶を舌で軽く舐め上げながら、黄金を瞳に宿した女は嘲笑った。
「何年経っても、ここの茶葉は一流っすね。どうっすか?そこの短気クンも、一口……」
「あ?お前、舐めてんのか?」
「紅茶は舐めてるっすね」
「黙れ!減らず口を叩くのも良い加減にしろ!」
とうとう堪忍袋の尾が切れたのか、舐め腐った態度を取り続ける女に対して男は拳を振り上げる。
その姿はあまりにも無造作で、お粗末なものであったが、示威行為という意味では実に効果的であって。
「おい、その辺にしておけ」
ヴィオラを介入に踏み切らせるには充分なものであった。
「く、なんだお前っ。離せっ」
男は掴まれた右腕の力と左手の力で強引に彼女の右手を外しにかかるが、ぴくりとも動かない。
その歴然とした膂力の差に打ちひしがれたか、数秒大袈裟に抵抗してからというもの、勢いは徐々に失われていった。
「……様子を見るだけだったのでは?」
サリナは眼を細めながら、背中越しに声を掛ける。
振り向いてその表情を窺うことはできないが、どこか楽しげだ。
「は、離せっ!」
刹那、男の肘がヴィオラの脇腹に打ち込まれた。
しかし彼女は痛がる素振りすら見せない。
というより、腰の入らない中途半端な体勢で放たれた肘打ちは、鍛え上げられた彼女の肉体に通じていなかったのだろう。
全くと言って良いほど肘が沈んでいない。
「モンテドーロの事情なんてこれっぽっちも知らねぇ外人が首突っ込むんじゃねぇよ!」
「あぁ?そんなもん、私の勝手だろ」
「それならお前にも教えてやるよ、このクズがどんなことを」
「あのなぁ。こういう時はあんまりペラペラ喋るもんじゃねぇぜ?」
「い、いぎっ」
キリキリと、そのまま腕を締め上げる。
握力に物を言わせた単純な仕置きであったが、痛みによる恐怖を与えるという意味では効率的だ。
「な?折れるのは嫌だろ?」
「分かった、分かったから離せ!離してくれ!」
「はいはい」
パッと大袈裟に手を離して見せるヴィオラ。
男は一瞬、忌々しげにブロンドヘアーの女と彼女を交互に睨みつけると、内出血を起こしているだろう右腕を抑えながら口を開く。
「良いか!こいつを庇うんなら、さっさとこの女を連れて店から出ていくことだ!」
「うお。すげぇな、お前。意外と怖いもの知らずなのか?殺されないと分かってる捕虜でもそこまで強気には出れねぇもんだが」
「ヴィオラさん?」
「わーってるよ」
「いや、確かにこの人の言う通りっすね。アタシが居ると店にとっても客にとっても良い迷惑っすから」
それから、椅子に掛けてあったコートを大雑把に羽織ると、じっとりと湿った頭髪を払いながら彼女は立ち上がった。
「これで良いっすね?ダリオさん?」
「あ?お前、なんで俺の名前を知ってる?」
「良いっすよね?」
「……。あぁ。分かったならそれで良い」
「さて。それならお二人さんはどうするっすか?」
改めてヴィオラとサリナに向き直り、彼女は笑みを浮かべる。
その屈託のない笑顔の放つ輝きは、当に太陽のよう。
「同じように面倒な輩に絡まれたら困るだろ?先まで送ってくさ。それで良いな?サリナ」
「はい、問題ありません」
「それでは、行くとするっす」
最後に、サリナ程ではないにしても、比較的小柄な女は代金とチップをテーブルに置いて。
「少ししか飲めなかったっすけど、美味しかったっす。ごちそうさまっす〜」
表情を崩さぬまま、カフェテリアを出て行った。
*
「おい」
退店して数分、店内での溌剌とした雰囲気から一転して口を噤んだまま先頭を直走る彼女に痺れを切らしたのか、とうとうヴィオラは腕を伸ばして女を呼び止めた。
たった数分。されど数分。
自発的に話し出してくれるのはいつのになるのかと待ち侘びるには、あまりに長すぎたかもしれない。
「おっと」
対して、再び口を開いた彼女の様子はあまりに軽いものであった。
「おっと、じゃねぇよ。巻き込んだからには事情を話せ。それにお前」
「……」
彼女は、一面に広がった小麦畑のように美しい瞳を晒したままヴィオラの答えを待つ。
「オーラム、だな?」
「ふふっ、あはっ」
「面白いか?ま、好きなだけ笑え。ただ、質問には答えて貰うぞ」
「はい、はい。そうっすよ。アタシがオーラムっす。当時の最高会議役員たちと手を組んで大規模な横領を目論んだ結果、全幅の信頼を置いていたはずの右腕に全てをひっくり返されて無事に追放された俗物こと、オーラムっすね」
「……。やっぱりそうか」
卑屈さを極めたかのような自己紹介だが、どうやら間違いないらしい。
ヒョロリとしながらも存在感があり、どっしりとした立ち姿。確かに、少なくともその名前を継ぐだけの雰囲気は持っているようだ。
奥深い黄金色の髪が、不意に波打つ。
「ただ、こんな路上でこれ以上込み入った話をするわけにはいかないっすね。良い隠れ家を知ってるんすよ!もっとアタシと話がしたいなら、そこまでついてきてくれないっすか?」
「どうする?」
「既に答えの決まった質問を身共にしないでください」
「一応の確認だよ、これはチームプレーだぜ?理解に齟齬があったらコトだろうが。少しの不和も積もり積もれば、取り返しのつかない失敗に繋がるってな。でもまぁ、そういうことなら問題ねぇな」
こっちの腹は決まった、と手を挙げて合図するヴィオラ。
すると彼女は、再び満足げに歩き始めた。
「ただ、歩きながらで良いから1つ答えてくれ」
「なんすか?」
「アンタ、どうしてそんなことしたんだ?」
「なんのことっすか」
「自白しておいてとぼけることはねぇだろ。どうして金の横領なんかに手ェ出したんだ、って聞いてんだよ」
「理由なんて必要っすか?お金なんてみんな欲しがるじゃないっすか」
オーラムは元より細い眼を更に一文字に引き締めつつ、チラリとこちらに視線を寄越してみせる。
「それに加えて、アタシは常軌を逸した金の亡者っすからね。あぁ、ここで言う金ってのはゴールドのことじゃなくって通貨のことっすよ?」
「んなこたぁ、分かってる」
「ま、欲に眼が眩んだ結果、この通りの惨状なわけっすけど。まさか、あの店のアイスティーを買うにも一苦労するくらいに落ちぶれるとは予想外だったっすね」
「そこまで先の読めねぇ人間が、オーラムに選ばれるもんなのか?」
「ヴィオラさん。言い過ぎだと思いますよ」
「いや、いやいや。そこのお嬢さん、彼女の言う通りだとアタシも思うっすよ。前任者は何を考えてアタシにこの称号を託したのか。甚だ疑問っす」
彼女は肩を竦めながら、掠れた笑い声を上げた。
「ま、前任者は中々有能だったそうっすけど。後継者選びには失敗したってことっすね」
「……」
本当に、そうなのだろうか?
ヴィオラは更なる疑念を抱きながらも、のらりくらりとしたオーラムの態度を見かねてこれ以上の追求を諦めた。
ただ、彼女の直感が、聖地の大鐘のように警鐘を轟かせている。
オーラムは何かを隠しているのだろう。
アレキサンドライトの言っていた数年前の動乱、その真相はまず間違いなく彼女の中に眠っている。
もしかしたら、アレキサンドライトもまたその真実を知っている上で彼女らに話さなかったのかもしれない。
まぁ、今のところ今回の失踪事件との関連性が見えてこないので、不必要な情報と省かれてしまったのかもしれないが。
オーラムという存在を信頼するかどうかを判断するにあたって、真実は一種の材料となるに違いないだろう。
「オーラムさん」
「なんすか?」
「身共の名前はサリナです。お嬢さんではありません」
「意外とそういうこと気にするんすね?分かったっすよ、覚えておくっす」
「それでは、身共からもひとつ良いですか?」
「良いっすよ〜。1つと言わず、2つ、3つと。助けて貰ったお礼っす、今日は大盤振る舞いっすよ」
「身共達は、どこへ向かっているんですか?」
サリナが問いを口にしてからというもの数秒、彼女は黙したまま数歩歩いて、しゃがみ込んだ。
「これ、何か分かるっすか?」
「……排水口?」
「そう、当たりっす。よい、しょっと」
錆びついた蝶番が悲鳴を上げながら、重厚な鉄扉が開く。
ほんのりとした腐敗臭、水の香り、糞尿の匂い。
つんとくる嫌悪感を押し留めながら、穴の向こうを覗き見るオーラムに視線を戻す。
「まさか、目的地はこの向こう側か?」
「その、まさかっすよ。こっからはモンテドーロのアンダーグラウンドになるっすから、治安もグッと悪くなるっすけど……まぁ、お二人なら大丈夫っすよね」
「治安よりも匂いが気になるんだが」
「そんなもの、すぐに慣れるっすよ」
「……」
「それに、この場所の存在を知らずして、失踪事件が追えるんすか?」
「あ?今お前」
「ほら、行くっすよ!」
ヴィオラの言葉を遮るようにして深い深い穴の中へと飛び降りるオーラム。
手を伸ばして引き止める隙すら与えない華麗な身のこなしはもはや芸術的であったが、ただただ巻き込まれているだけの二人にしてみれば、どこまでも良い迷惑であった。
しかし、聞き間違いでなければ。
「アイツ、どうして私たちの目的を知ってる」
「……」
「油断はするなよ、サリナ。やっぱりあの女、何かを隠してるし、一筋縄じゃいかねぇ。自虐して謙遜してるが、アレキサンドライトを差し置いてオーラムの名前を受け取ったのも理解できる何かがヤツにはある」
「分かってます」
「おーい!来ないんすかー?」
「……早く行きましょう」
「あぁ」
最後に二人は、綺麗な空気を思い切り吸い込んで。
ぽっかりと空いた口の中に五体を放り投げた。
臭気と湿気に包まれながら、鉄の香り漂う管の中を滑り落ちていく。
そして、何度身体を継ぎ目にぶつけたか分からなくなった頃、遂に底へと辿り着いた。
揺れるランプ、ガヤガヤとした人混み、シミだらけの暖簾の数々に今にも折れて倒れそうな鉄パイプ組みの家々。
そこは紛れもなく貧民達の溜まり場であって、ヴィオラにとっては懐かしさすら思い起こさせるような場所であった。
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