天使のいる場所

流星

第1話 季節のない季節 

長年生きていると、もはや感動的な出来事の想い出さえも感動的ではない。


子どもの頃は、マンガやアニメ、ヒーローものなどの作品に触れ感動はしたが、それらの体験も今や、自分自身の性格や人間性を形作るピース=かけらのひとつに過ぎない。


それは思春期や青年期も同じこと。


小説や映画やドラマなど、かなりの数を読んだり観たりしてきたが、今となっては自分自身の脳内のデータベースにおけるデータでしかない。


30歳を過ぎた辺りだろうか、もしくはそれ以前にその前兆はあったのかも知れない。


自分自身がフィクションキャラのような人間性になってしまっていた。


MBTI診断では、私はENFJタイプになってしまうので、いわゆる主人公タイプだ。


自分自身が自分の人生の主人公であることは間違いではないのだが、意外とそういう感覚を持った人間もそう多くはないのかも知れない。


多くの人間は、配偶者や、その間にできた子ども(息子や娘)を主役とし、自分自身は脇役のように、自分自身よりも大切なものに尽くすようだが、私にはその感覚はよく分からない。


たとえ配偶者がいても、子どもがいたとしても、自分が主人公であるという自覚は揺るがないからだ。


こう書くと、まるで私が血も涙もないような鬼に見えてしまうかも知れないが、そこは人生経験値の高い主人公タイプだ。


組織やグループなどにおいては、場の雰囲気を操作してしまえるくらいのリーダーシップというか、状況に合わせて柔軟に適応できる「主人公力」がある。


まるで幼少期から、自分は主人公になるための能力を磨き、そして死ぬまでその能力を磨き続けるのかも知れない。


幼少期や思春期や青年期は、それを自覚していなかった。


30歳を超えてから、毎年のように自分自身がパワーアップし続けている。


コロナ禍前は、自分の過去のつらい経験や哀しい体験に自己憐憫を感じることもあったし、いわゆる被害者意識のようなものもあった。


だが、自分自身がもし主人公なら、フィクションにおいて最もつらく、哀しい経験や体験をするのは主人公にほかならない。


まるでいびつな、複雑怪奇なプライドを手に入れてしまったようなものだ。


どんなにつらく哀しくても、過去に触れたありとあらゆるフィクションの主人公のように、つらくて哀しいことが当たり前なら、それを割り切って受け入れざるを得ないと考えるようになった。


私にはもう、過去や未来という概念は存在しない。


目の前の問題をクリアする、それしかやることがなくなってしまった。


もちろん今までの人生でお世話になった人々はたくさんいるし、今でもお世話になっている人々は数多く存在する。


彼ら彼女らの恩義に報いる方法や手段として、自分は、私は一主人公として目の前の問題を破壊していくしかない、そんな風に考えて、感じてしまっている。


ひょっとしたら彼ら彼女らは、私に「脇役」になってくれることを期待していたのかも知れない。


今の私は、その場その場の状況において、臨機応変に脇役に徹することもできる。


・・・人生においてやり残したことも、ほとんどなくなってしまった。


こうやって文章を書くモチベーションを保つのも難しい。


春も夏も秋も冬も、流星のように過ぎ去ってしまう。


「季節のない季節」の中に生きているような気がする。


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