3-2

「こないだの数学の小テスト、どうだった?」

「全然だった。龍士は?」

「まあまあかな」

「すげーじゃん」

「たまたまだよ。それにしても入学早々テストがあるんだから」

「あの先生、ちょくちょくテストするぞーなんて言ってたけど」

「数学ができるようになるといいんだけどな」

「マジでマジで」

 他愛もない会話を繰り広げながらも龍介の心には警戒信号が走り続けていた。なにか迂闊なことを言ってしまわないようにと細心の注意を払っていた。

 昼間は何の問題もなく見えていた景色が夜になった途端見えなくなる、ということが龍介にはいまひとつわからない。その昼と夜の境界線がどこで引かれいるのか、区切られているのか。あるいはそれがわかっていても今日のように油断することがある。生まれつきだからこれが当たり前、とは言うものの、やはり危険な日々なのではないか、そうも思っていた。

 ふと龍介は、自分は龍士との関わりの中、もうこの話題を一生しないまま一緒にいるつもりなのだろうか、それは——“よくない”のでないだろうか、そんな気がし始めた。

「あのさ龍士」

「なに?」

「病気のことってもう少し詳しく聞いてもいい?」

 関係が破綻しないように。破綻しないでくれ。俺は友達を大切にしたい。

 一瞬、龍士はびっくりしたようだったが、すぐに唇の両端を軽く上げた。

「いいよ」

「——と言っても、なにを聞けばいいのかもよくわかんないんだけど」

「なんだよそりゃ」

「俺はさ」龍士に向き合った。「俺は、もうこの話題を一生避けるつもりなんだろうかと思ったら、そういう自分が嫌っていうか……」

 いま、サングラスの奥の龍士の目はどんな動きをしているのだろう。

 しばしの沈黙の後、龍士は声を出して笑った。

「なに笑ってんだ」

「お前、真面目で純粋なのな」

「なんだそれ」

「いや別に。素直で正直でいいな」

「バカにしてるのかよ」

「違う違う。伸び伸びしてるなってこと。家庭環境が良かったのかね」

 親が離婚して妹と離れ離れ、という話を思い出す。

「どうかな。家族のことは好きだけど」

「いいね。俺、仲のいい家族の子どもって好きだよ」

「そう言われても」

「まあ、それはともかく。病気の話ね」と、笑いながら龍士は夜空を仰ぐ。「と言っても、そんな話すことないんだけど」

 素直に正直に訊いてみよう、友達と向き合ってみようと龍介は思う。

「ぶっちゃけ、それは辛いのか?」

「いや」と、思いの外あっさりと龍士は否定した。「まあ困るのは確かなんだけど。そりゃね」

「だよね」

「ただそれより……寂しいって気持ちの方が強かったりする」

 龍介はキョトンとした。

「なにが?」

「ほら、生まれつきって言ったろ。夜の景色が見れないわけさ。夜の街とか、夜景とかね。そういうのをいっぺんでいいから見てみたい。きっと朝の風景とも昼間とも全然違うんだろうなあって」

「時間帯とかってあるのか? ここまでは見えるけどここからは見えないとか」

「やっぱり夏は結構長く見えるよ。冬はキツいな、早く帰らないとまずい」

 明るく話している龍士を見ていて、龍介は、自分の質問の一つ一つが彼を傷つけているのではないだろうかと思う一方で、龍士は龍士で自分の話をもっとしたいのではないだろうかとも思い、このままどうすればいいのかちょっとよくわからなくなってきていた。しかし自分から話を振った以上ここでやめるわけにはいかない。正直に言って、この話はもうやめたいという気持ちもあったし、いい加減やめた方がいいのではないだろうかという懸念もある。しかし、もっと友達の話を聞きたいという気持ちの方が強い。そもそも龍士自身が“明るく話している”ように龍介には思えた。だから話を。もっと話をしよう。それでも彼を傷つけないように、彼の心の傷に触れないように。

 だが、それでも、と思う。それでは、人と人とが近づくことはできないのでないだろうかと。それは自分の一方的な思い込みに過ぎないのではないだろうかとも思う。それでももっと、友達のことを知りたい。わかってあげたい。その気持ちの方が強かった。

「夜の街ってどんな感じ?」

 ふと訊ねられ、龍介はちょっと首を捻ってしまった。

「よくわかんないな」

「あ、そう?」

「俺は十時には寝ちゃうし。夜の街とかあんまり行かないし」

「ああ、そうなんだ。普通の高校生は夜遊びするもんだと」

 お前だって“普通の高校生”だよ——と、言うタイミングを龍介は逃してしまった。一瞬、間が空いたのち、龍介は返事をする。

「そりゃ、ずいぶん偏見だなぁ」

「違いない。まあ俺も、やったことのないことをやってみたいってだけなんだけどね」

「やってみたいことってなんかある?」

「お前は?」

 ちょっと考えたが、いま一つ浮かばない。

「特にいまのところないなぁ。毎日楽しく過ごせたらと思うけど」

「いま楽しくないの?」

「だから、この平穏な日々が続きますようにって」

「なるほどね」

「龍士はどうなんだよ」

「俺は」と、そこで龍士は考え込む。「そうだな。絵を描いてみたいかな」

 その言葉に、龍介はやや怪訝そうな顔をした。

「絵が趣味なの?」

「まあね」

「じゃ、描けばいい」

「描いてはいる。夜、描いてみたいんだ」

「?」

「龍介は絵とか音楽とかやらない?」

「あんまり縁がなかったかな」

「そっか。俺は絵が好きなんだよ」

「そうなんだ」

「それを夜、描いてみたい」

「なんで?」

 そこで龍士はちょっと哀しそうに微笑んだ。

「手紙は夜書くもんじゃないっていうだろ」

「いうの?」

「つい本音が出ちゃって、朝読むと恥ずかしくて居た堪れなくなるんだってさ」

「わかる気はするけど」

「だから……本音の絵が描けるのかなって」

 黙ってそのまま龍士の話を聞く。

 龍士は説明した。

「朝も昼も本音のつもりではあるんだけどさ、そんな説を聞いたらじゃあ夜描いたらどんな絵になるんだろうって思うわけだよ。自分でも考えなかったような、思いつかなかったような絵が描けるんじゃないか、その中に自分の絵が、真実があるんじゃないか、そんなことを思うと、ああ、俺の目が夜見えたら、きっと毎晩絵を描くのにって思うんだよね」

「でも、恥ずかしくて居た堪れなくなるかもよ」

「まあね。でもそれはやってみなきゃわからない。あの葡萄は酸っぱいからいらないんだ、っていうのは、少なくともアーティストとしてはどうなんだろう」

 龍介はキョトンとする。

「葡萄?」

「そういう話があるのさ。イソップ童話ね」

「ふーん」それなら店にあるかな、と龍介は思った。「なるほど」

「実はイタリアに行かないかって話がある」

 突然の話題に龍介は目を真ん丸にした。

「イタリア?」

「そう。俺の絵の師匠が、いっそイタリアに行かないかって」

「お前の絵、そんなうまいの?」

「賞はいくつか」

「すげー」

「まあ、すごいって言ったら俺の妹の方がすごいんだけどね」

 苗字の違う妹。

「妹?」

「うん。妹はすごいんだよね。絵とか音楽とか小説とか。俺よりずっとすごいし、ちゃんと結果も出してる」

「そうなんだ。芸術兄妹だな」

「俺はわかんないけどね」

「でも、先生がイタリアに行って絵の修業をしろって言ってるんだろ。すげーじゃん。認められてるってことじゃん」

「どうかな」

「行けばいいよ」

「今月、高校に入ったばかりだぜ」

「この場合、やらなかったら後悔すると思う」

「でも、自分の絵の才能に絶望するかもしれない。夜中に描くことができないっていう現実に絶望するかもしれない。絵が嫌いになるかもしれない。それが怖い。それなら、いまみたいに絵を描けている方が幸せなんじゃないかって。迂闊なことをしたら全部ダメになるんじゃないかと思うと、二の足を踏むよ」

 正直な気持ちの吐露だと思う。自分はいまのところ、まだ“将来の夢”というものがない。昔は仮面ライダーになりたいなどと思っていたこともあるが、要するにそういう夢しか描いたことがない。明確にこの職業に就きたい、という夢を抱いたことは自分はまだない。

 しかし、龍士は違う。まだ高校生だというのに自分がなにをやりたいのか、なにになりたいのかということがはっきりと明確にある。それはすごく幸運なことなのではないかと龍介は思った。ましてやそれを応援してくれる人がいる。それはすごく幸福なことなのではないか。

 もちろん龍士の言うように現実の壁にぶち当たるかもしれない。打ちのめされるかもしれない。夢は夢であり、現実は現実であり、実力や才能があるからといってそんなになにもかもがうまくいくことはないことぐらいはまだ子どもの自分でもよくわかっている。それでも——友達の夢を応援したい。それは、してもいいことなんじゃないかと、龍介は思った。

「それは葡萄の話なんじゃないか」

 龍介の言葉に、龍士は、うーんと唸った。

 龍介は続けた。

「酸っぱくてもさ、酸っぱいってことがわかった、っていうのはラッキーなんじゃないの。人生の酸いも甘いも噛み分けて——みたいな」

 龍士は笑う。

「“最悪”の選択肢を避けるだけの余裕を持っていられたら」

 龍介も笑った。

「俺は応援するよ」

「ありがとう」

「いやいや」

 笑いながら、ふう、と、龍士は軽く息をついた。

「酸っぱい葡萄も、葡萄は葡萄だからなぁ……」

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