第三話 目隠しの夜-the Fox and the Grapes-
3-1
「あ。龍士だ」
シャハシュピールに帰宅する途中、なかなかの荷物を抱えながら龍介は公園のベンチで佇んでいる龍士を発見した。なぜか龍士は夜だというのにサングラスをかけている。雨も降っていなければ降る気配も見えないのに折り畳み傘を取り出して黙って座っている龍士を見て、なにをやっているのだろう、と、龍介は思った。そこで彼は龍士のそばへとゆっくりと歩いていった。
「おっす龍士。なにやってんだ?」
龍士は顔を上げた。
「なんだよ。なにグラサンなんかかけてんの?」
だが龍士は無言だった。そこで龍介は不思議なことに気づいた。いつもであれば話が進むのである。数週間前に入学してたまたま隣の席になり、うっかり忘れたボールペンを借りて自己紹介し合ってから同じ龍の名を持つ物同士親近感を覚えて以来親密になってきたのだが、なんだかいま、自分は彼に一方的に話をしている。いつもならもっと会話が弾むはずなのに一体どうしてだろう、と、そんな疑問が頭に浮かんだ。
さらに自分がなかなかの大荷物を抱えていることに対して何の質問も返ってこないことも不思議といえば不思議だった。少なくとも龍介の認識している範囲では、龍士は「あれ? その荷物なに?」と訊ねてくる性格のはずだったからだ。
「ええと…龍士、だよね」
もしかしたら、と不吉な想像をしてしまった。もしかしたらよく似た別人だったのではなかろうか、サングラスを取ったら全然知らない赤の他人なのではなかろうか、そんなことを思ってしまった。
だがそれは違った。
「ああ、龍介か」恐る恐る龍士は声の主が誰なのかを訊ねた。「ああ、悪かった」
ほっとした。良かった。やっぱり間違っていなかったから、そうかそうか、などと龍介は呑気に考え始めたが、しかしこの龍士の質問に龍介は強い疑問を抱かざるを得なかった。
「そう。そうだよ龍介。どうした龍士」
「ごめんごめん。いま、ちょっと目が見えなくて」
一瞬、学校で間違いなく目が見えている龍士を思い出し、龍介は首を捻った。
「いま? それ、どういう意味」
「いや、その」
「ん?」
言いにくそうに、しかしいまはもうはっきりと説明すべきだろうと龍士は思った。
「夜盲症ってわかる?」
と言われても龍介には何のことだかわからない。
「なにそれ」
「ざっくり言うと、夜は目が見えにくくなるんだよね」
そのとき、龍介は固まった。
その様子に龍士は慌てる。
「いやその。鳥目っていうんだけどさ。そこまで珍しい病気じゃない」この場合わかりやすく説明した方がいいだろうと龍士は思った。「正確には夜盲症の一種ってことなんだけど。生まれつきでさ。他には特に生活に支障はなくて……と思うんだけど。とにかく夜になると目が見えなくなるんだよね。学校側にもちゃんと説明してあって。今日うっかり図書館でこんな時間までいてしまった。いつも春ごろ油断しちゃうんだよね」
「へえ」平静を装いながら龍介は頷く。「そうなんだ」
「こりゃあやっぱり父親に迎えにきてもらった方がいいな、と思って。見えない状態で歩いてたら危険だろ」
「そうだね」
龍介はなんと言ってやればいいのかわからなずただ首肯した。何かを言わなければならないような気がした。しかしなにを言えばいいのか、全くわからない。しかしこの場合はなにを言えばいいのだろうと、龍介はしばらくの間ずっと模索していた。
そんな龍介の様子に、龍士は苦笑した。
「大丈夫だって。昼間は普通だしさ。夜中は目隠しされてるような気分っていうか。そんな感じだよ。昔からだし、別にそんな」
「でもさ、あのさ」それでも友達としてなにか言わなければならない。「心配だよ」
「平気。もう少しで父親来るし。それで車に乗って家に帰ればそれでおしまい」そこまで言って、龍士は、いま自分が病名を出すまでの龍介のいつも通りの態度を思い返した。「それからさ。普通の人は“夜盲症”なんて知らないから。メジャーな病気ではあるけどマイナーっちゃマイナーだし。いやいや。だから気にしないでくれよ。それより俺も説明し損なって悪かった」
笑いながらそう話す龍士に、なにかお前に悪いところがあるのだろうか、と龍介は思う。
そんな様子の自分を見て、龍士はくすくす笑う。
「お前、結構気にするタイプなんだな」
「なんだよそりゃ」
「ところでお前、バイトは? 住み込みって言ってたよね」
急に話題を変えられ、ほっとした反面、自分があまり期待されてないのだろうということもわかり、龍介は心の中で頭を抱えた。とにかく龍介は彼の質問に素直に答えた。
「一旦うちに帰って、荷物取りに来たんだ」
「ああ、そうなんだ。じゃあいま、なかなか荷物抱えてるんだ」
「そうだね」やっぱり見えてないんだ、と龍介は思う。「いやあのさ、俺の兄貴がすげーブラコンなんだよね」話題をさらに変える。
「ふうん。大事な弟なわけだ」
一瞬、龍士の顔にどこか翳りがよぎったように龍介には思えた。しかし気にせず続ける。
「俺のことが好きみたいだ」
「そりゃいい」
「まあ、俺も兄貴、好きだからいいんだけどさ」
「なおいい」
「お前は兄弟とかいるんだっけ?」
龍士の表情の翳りはそのままだった。
「一応、妹がいるよ」
「一応って? へえ、妹がいるんだ?」
「親が離婚してさ。苗字は違うし一緒に住んでもいないんだけどね。メールのやり取りはしてるんだけど、あんまり会えてない」
「……ふーん」
「ああごめん」そこで龍士は即座に頭を下げた。「ハードな話題が続いて」
「そんなことない」嘘ではない。その言葉は嘘ではない。しかし本当に“そんなことない”と思っているのかというと疑いがある。それでも龍介は自分に言い聞かせるようにさらに繰り返した。「そんなことないよ」
「ありがとう」
龍士は軽く微笑んだ。
龍介は困惑する。
「いやその」
「座ったら?」と、龍士は左側に座り直した。「疲れるだろ」
「うん」と、龍介は促されママにベンチに座った。「ありがとう」
龍士のやや疲れたような微笑みに、龍介は戸惑いがなかなか消えなかった。そして、ああいま、龍士は目が見えていないから自分のこの表情にはおそらく気づかないだろう、だから良かった、と思い、なんだか自分で自分をぶん殴りたくなってしまった。
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