2-5
自分が人の心を読むことができる、ということを自覚したのは十歳の頃だった。しかし秀明はそれまでそれを特殊なことだとか異常なことだとか、そうは思っていなかった。それは誰にとってでも普通のことである、と思っていたからであり、なぜそう思っていたのかというと、自分がそれを隠しているように他の人間たちもそれを隠すはずだからだと思っていたからだった。だから秀明は子どもの頃から周囲の大人たちにやけに勘の鋭い子だと奇妙に思われていたが、生来の頭の良さもありそれをうまく潜り抜けてきていた。
だがその十歳のとき、家族で旅行中に交通事故に遭い、両親と二つ年下の弟・
家族の葬式があり、親戚が揃って集まった通夜のことだった。秀明はその通夜に出席した人間の中から恐ろしいほどの悪意に満ちた男を発見したのである。その男が誰なのかは秀明にはわからない。親戚でないことだけはわかっているが、あれからその男を見かけたことは一度もなかった。その男の悪意というのは歓喜だった。(やっと死んだ)という安堵、あまりにも醜いその思考、感情が秀明に流れ込んできたとき、彼は思わず大声で泣き叫んでしまった。その場にいた者たちは家族が亡くなったことを哀しんでいるのだろうと同情する一方、それにしてもさすがになにかあったのだろうか、と、何事もなく行われいてる通夜の中怪訝に思った。実際、穏やかな通夜だったのだ。その叫び声がなにを意味しているのか、
そのとき、隣に座っていた冴は異変に気づいた。前々から彼女は秀明のやたらと鋭い勘を不思議に思っていた。直感的に、それと何らかの関係があるのではないかと思い、秀明を連れて一緒に外に出て、二人きりになってからどうしたのかと優しく訊ねてみた。そして秀明は混乱状態の中、普段の注意を忘れて冴に説明した。
「あのおじさん、みんなが死んじゃったことを、嬉しがってるんだ」
男は必死の演技で悲哀に満ちた参列者の仮面をかぶっていた。気を抜けば笑ってしまうからだった。なぜその男がそこまで両親の死を喜んでいるのか、そこまでは秀明にはわからなかった。
秀明の言葉に冴は怪訝そうな顔をした。
「どうしてそんなことがわかるの」
「だって、思ってるんだ。みんなにはわからないの。あのおじさん、泣きながら笑ってる。それが怖いんだ。怖いんだ。だって聞こえるんだ。やっと死んだか、って、死んで嬉しいって、思ってるんだ。そう思ってるんだ」
「あのおじさん、そんなこと言ってないよ」
「言ってないよ。心の中で思ってるんだ。みんなにはわからないの。俺にしかわからないの? あのおじさんがすごく怖いんだ」
「秀明、人の心がわかるの?」
「そうだよ。みんなは違うの」
そのとき、冴はたまたま超能力者の戦う小説を先週から読んでいたことを思い出した。
そこに、冴の母親が秀明を宥めに二人の元へとやってきた。二人の会話を彼女は聞いていなかった。
「秀明くん、落ち着いた?」(こんな小さい子だけが)(まだ七つなのに)(まだ小学校一年生なのに)(たった一人だけ残されて)(交通事故だなんて)(どうしてそんなことに?)
秀明は、彼女が心底悲哀を浮かべていることに安心感を覚えた。
それから秀明は祖父の秀隆とそのままシャハシュピールで生活をすることになる。はずだった。
だがその三日後、今度は小学校からの帰り道、秀明が突然道を飛び出してきた大型車輪に撥ねられたのだ。すぐに救急車で病院に運ばれたが、しばらく意識不明の昏睡状態が続いた。誰もが秀明はもう助からないと思っていた。
そして十日後。
病院のベッドのそばにはいつからそこにいるのかもちろんわからない冴が椅子に座って本を読んでいた。
「……」
静かな目で、冴は本を読み耽っていた。
(秀明)(お願い)(起きて)(テレパス)(それが秀明)(超能力者)(本当に実在するなんて)(秀明)(お願い)(起きて)(私の声は聞こえてる?)(元気になって)(起きて)(起きて)(超能力者)(バイク)(大丈夫なの)(起きて)(また二人で本を読みたい)(お願い)(起きて)(お願い)(お願い)(お願い)
意識が戻り始めると共に冴の思考を読み取り始めた秀明は——感動した。
あの通夜から、冴は自分に明らかに恐怖を覚え始めていたことを秀明は思い出す。冴の心を読み取ろうにも、冴は自分から明らかに距離を置き始めたのだ。辛うじて読み取れた彼女の心からは(秀明)(テレパス)(怖い)ということばかりがそこにあった。秀明は哀しかった。生まれたときからずっと一緒で、あんなに仲の良かった従妹の冴が自分を拒絶していることがあまりにも哀しかった。
その冴が、いま、秀明に、(起きて)と呼びかけ続けている。
冴は、自分と、これからも一緒にいてくれる、と、秀明が確信した頃。
「冴」
ゆっくり、秀明は彼女に呼びかけた。
冴ははっとベッドを見て、目覚めた秀明を見て、そして微笑みを浮かべている彼を見た。
「おはよう」
秀明は言った。
涙を流しながら冴も答える。
「おはよう」
「なにを、読んでるの」
冴は答えた。
「かもめのジョナサン」
そして、二人は微笑み合った。
「でもあのときから、どうも俺はいまいち生活力がなくなった」回想を終えて秀明は独り言のように冴に呟いた。「先生は脳に障害がって言ってたが」
「あら。昔のことを思い出してたの」
「そ」秀明は何度も読んだアリスのページをぱらぱらとめくりながら答えた。「いきなりバイクに撥ねられたときはなにを思ったんだろうな、俺は」
「“さとり”は心が読めるけど、未来予知能力はないものね」
「冴には本当に感謝しているよ」
「そう?」
「そうとも」秀明は冴の目を真正面から見つめ、笑った。「自分の話を誰かが聞いてくれる、それは救いだ」
「あなたの場合、私しか聞けない話だものね」
「あの子にもそういう相手がいるんだろうか」
冴はチェロに目をやった。
「脳に障害があって、文字が読めない」
「そう」
「あなたは、あの子と自分を重ね合わせているの」
「さあ」と、そこで秀明は首を傾げた。「どうなんだろうね。あるいはそうかもしれないんだが」と、言いながら秀明はチェロに近寄る。「ただ、俺が考えているのは、彼はこのチェロを明日取りに来てくれるかな、ってこと」
そこでケースを開けた秀明に、冴はちょっと心配そうな顔になる。
「勝手に開けちゃっていいのかな」
「もしかしたら名前や電話番号が中に書いてあるかもしれない。明日、取りに来なかった場合、こっちから渡した方がいいと思う」
「そうなんだけど」
だがケースの中に彼の個人情報を記した用紙などはなにも入っていなかった。ケースの中に入っていたのはチェロと弓、そして数枚の楽譜だった。
「へえ。これがチェロか。現物は初めて見るよ」
「チェロを見るために開けたわけじゃないでしょ」
「興味深いよ」秀明は楽譜に手を取った。「楽譜に名前を書く人はいるのかもしれないけど、住所や電話番号を書く人はいないだろうしな」
そこで秀明は目を見開いた。
様子の変わった秀明を、冴は怪訝に思う。
「どうしたの」
「——いや」
「私がここにいても、あなたが感じるほどの残滓?」
その楽譜には、ベートーヴェン作曲・交響曲第十番「永遠」と書かれていた。
しばらく沈黙が続き、やがて秀明は口を開いた。
「幽霊っているのかねぇ」
「え?」
「ただいまーっす」
そのとき、シャハシュピールの扉が開いて龍介が帰ってきた。
「あ、お帰りなさい龍くん」
二人は立ち上がって龍介を迎えた。龍介はリュックサックを背負い、ショルダーバッグを肩にかけ、手提げ袋を二つ持っていた。
「お帰り。なかなかの荷物だな。それで遅くなったのかい」
「いや、なんちゅうか。その」
なんだか言いにくそうにしている龍介を二人は見つめ、やがて秀明は冴にアイコンタクトをする。
冴は言った。
「じゃあ、私は帰るね。龍くん、なにか心配事とかあったら、秀明に話してみて」
「はあ、あざっす冴さん」
「それじゃあね」
「冴、ありがとう」
そして冴は去っていった。
龍介はため息をつく。
(なにか心配事っていうか)(龍士と会って)(話して)(いやいや)(目が見えない)(っていうか)(なんだろ)(難しいなぁ)(あいつ大丈夫かな)(でも夜はいつもそうだって言ってたけど)(お父さんが迎えに)(イタリア)(葡萄)(傘と杖)(きっと慣れてる)(メール)(龍士)(心配だなぁ)
やや混乱気味の龍介の意識を読み取り、秀明は訊ねた。
「どうした? なにかあったのかい」
「いやあの」
「話しにくいかい」
「うーん。細かいエピソードはともかく……」
「具体的なことは言わなくていいよ。もし個人情報に関わることなら、なおさら」
「はあ、あの、じゃ、それがっすねぇ」
やがて龍介は考えを整理しながら、ゆっくりと話し始めた。
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