2-4
「龍くん、なかなか帰ってこないね」
午後七時ごろのことだった。居間で冴は旧約聖書を読みながら、不思議の国のアリスを読み耽る秀明に向かってそう呟いた。
「そうだな」と、読書しながら秀明は反応する。「お兄さんと、なにか揉め事でもしてるのかね」
「揉め事って?」
「さあ、そこまではわからないな。位置がわからないし、なにより距離が離れすぎてるからそもそも読み取れない」
ふふ、と、冴は微笑む。
「何事もないといいけど」
「龍は素直なやつで、馬鹿正直で、のびのびとしてる。騙されやすいタイプだが、騙す方も心を入れ替える……みたいな展開になるかもしれん」
「でも、油断はできない」
秀明はにやりと笑う。
「まあね」
「油断したらあなたの人生はおしまいね」
「迂闊には喋れないし、たとえ迂闊でなくても喋れない」
「そうね」
とだけ冴は言った。それから、また旧約聖書に目を落とす。
「それにしても冴、帰らなくて大丈夫なのかい」
「連絡はしたから。お父さんもなにもできないわけじゃないし」
「伯母さんも大変だな。全治半年だっけ?」
冴の母親はしばらく前に交通事故に遭い、いまは入院中である。家事をしなければならないため冴はシャハシュピールに常時いられなくなったのだった。
「リハビリはできてるし、後遺症は残るかもしれないけど生活に支障はないだろうって先生が」
「そうだな。あの先生は本当にそう考えていた」
「あなたのおかげ」
「ならいいけど」
冴は時計を見た。
「でも、七時半には帰るね。龍くんがそれまでに戻ってこなくても」
「いいよ。夕食を作ってくれてどうもありがとう」
「あなたなにもできないもの」
くすっと秀明は笑う。
「俺はパラメータの配分がおかしい」
「そうねぇ。私の言うセリフじゃないけど、これだけ大量の本を一気に読めるしね」と、冴は段ボール箱を眺める。
「本は読むものだぜ。龍は読書しないみたいだけど」
「読まれない本ほどかわいそうなものはないわ」
「いやぁ、積ん読にも意味や価値はあるよ。ただ並んでいるものを見つめたり眺めたりするのも読書の醍醐味だ。そう、たとえ文字が読めなくてもね」
冴は秀明の話に興味が湧いた。
「さっき来たっていうお客さんの話? 失読症って言ってたね」
「精神科医でもないんだから精神分析なんかしない方がいいんだけどな。それはさておき」と、秀明は読んでいたアリスの表紙を冴に見せた。「例えば、この本は英語で書かれているから、大抵の日本人には読めない」
「それは翻訳だけどね」
構わず秀明は続けた。
「ルイス・キャロルはイギリス人だから原文が英語なのは当然だ。翻訳されない限り、日本人にとっては暗号文に過ぎないだろう。というより、英語圏以外の人間にとっては、といった方が正確かな」
「それって、日本人にとっては本としての価値があるのかしら」
「そういうことを俺はちょっと思った」
「続けて」
「英語が読めない日本人にとって英文の本は紛れもなく暗号文だ」
「そうね」
「だから日本人を対象とした場合、世界中に存在するありとあらゆる本は日本語に翻訳されるはずだ」
「ふむ」
「だけど、日本人向けに日本語に翻訳されたら、今度は日本人しか読めない。だから今度はドイツ語とか、中国語とか、ギリシャ語とか、とにかく様々な言語に翻訳される必要がある。そうすることによって初めて“本”とか“書物”は人々に受け入れられる」
「そうしなくっちゃ、読めないものね」
だが、と、秀明は言った。「ルイス・キャロルがイギリス人である以上、彼が英語でアリスを書いたのはまず当然だ。となると、やはりキャロルはイギリス人向けにアリスを書いたわけだ。となると結果的に、キャロルはアリスの内容を英語圏以外の人間に理解させようという気はなかったことになる」
「暴論に聞こえるけど」
「カバン語の翻訳は事実を捻じ曲げる。読者が本質的な内容を理解することはできない」
「私も、英語が喋れるようになったらジャバウォック物語をそのまま読めるようになるのかな。翻訳家によってそれぞれ異なる和訳を楽しむっていうのも素敵なことだけど」
「そう。翻訳家が違えば内容が変わる。ニュアンスが、変わる。本質が捻じ曲がる」
「そうだね」
「つまり、その本が持つ本質的な内容は、ネイティヴにしかわからないんだな。キャロルはもしかして世界中の人間にアリスを読んでもらいたいと思っていたかもしれない。あるいはそれは間違いないと俺は思う。だけど、一種の諦めもあったんじゃないかな。翻訳という作業によって内容が変わってしまうことをキャロルが納得していたのは確かだと思うんだよ」
「遠い外国の何十年も前に亡くなった人のことはわからないとして」
「あらゆる人間にその本質を伝えきれない本は、果たして“本”なのかな?」
でも、と冴は反応した。「そんなことを言い始めたら世界中のありとあらゆる本は本じゃなくなるわ。あなたの理屈だと、ある作家は一つのお話を地球上に存在し得るすべての言語で書かなきゃいけないことになるよ」
「だがそんな芸当のできる人間はいない。だからちょっと、少し不思議な感覚が湧き起こってるんだ。あの子が来てから」
「チェロを忘れてった中学生」冴は居間の隅に置かれているチェロを見た。「何か変なものでも、見えたの」
「なかなか複雑な精神構造だったよ。失読症であることを読み取るのはあまりにも容易だった」
「それであなたは、文字の読めないあの子から、“本”の存在理由を求め始めた、と」
「そ。まあ、学習障害者用の特別な措置はあるから、それで読むっていうこと自体はできるんだろうけどね」
「“読めない絵本”の件からあなたが求めているものは何なのかしら」
ふとそう訊ねた冴に、秀明は、本を読むでもなく、読まないでもなく、その場に佇んだ。そして彼は天井を見上げ、やがてゆっくりと話し始める。
「時々、存在感が掴めなくなる」
「自分自身の?」
「も、含めた世界そのもの」
「もうちょっと具体的に」
「コギト・エルゴ・スムなんて言葉も、否定は容易だ」
「存在感がないの?」
「いや。あることはあるんだ。しっかり、ちゃんと存在しているということはわかる。それは俺自身ちゃんと認識して、理解して、自覚している。ただそれが真実に存在しているのかが、時々わからなくなる」
「自分自身も含めた世界そのものの?」
秀明は頷いた。
「ひょっとしたら、俺は誰かの書いている小説に登場する一人の人物に過ぎないのかもしれない。あるいは演技という自覚のない演技を日々繰り返しているだけなのかもしれない。もしかしたら世界とはテレビのディスプレイに映っているだけの存在なのかもしれない。誰かが作り上げた箱庭の中で存在しているだけなのかもしれない。俺は活字の中の人物であって、俺たちの全ては“作者”に支配されているだけなのかもしれない」
ふふ、と、冴は笑う。
「なにがおかしい」
「あなたの言い方は哲学的だけど、でも、そもそも世界ってそんなものじゃないかしら」
「と、おっしゃいますと」
「だって私たち、ある社会の中に存在しているだけだよ。社会に支配されて、いろいろなことを制限された上で、それを特に自覚することもなく日常生活を送っている。確かに支配されて制限されているのに」
「そうだな。社会に適応している、ということは、その社会にとって都合のいい存在である、というだけだからな」
「人間に自由意志なんて本当にあるのかな、っていうテーマに過ぎないよね。あなたの言ってることって」
「聞いてみよう」
「誰に、なにを?」
「なあ」
と、秀明は冴と改めて向き合った。
「冴は存在しているのかい?」
冴は薄ら笑いを浮かべ、答えた。
「わからない」
「だろうね」
「ただ、私がわかることは」
「なんだい」
「あなたが」
そのとき、店の扉を誰かが叩いた。
見ると窓の向こうに七瀬がいた。
「あれ、七瀬?」冴は彼女の元へと近寄り鍵を開ける。「どうしたの。こんな遅くに」
「まだ七時だよ。それより、龍介いる?」
秀明と冴は顔を見合わせた。冴は答えた。「まだ帰ってないよ。お兄さんのところに荷物を取りに帰って、それっきり」
「じゃ、どこで道草食ってるのかなー」
秀明は笑いながら二人に近づく。
「なにか約束でもしてたのかい。デートとか」
「そうじゃないけど」
「すっぽかされたわけだ。神谷七瀬くん」
ぎろっ、と、七瀬は秀明を睨みつける。秀明が冗談が好きな人間であることは去年初めて出会ってからわかってはいたが、それでもなんだか自分が特にターゲットにされているような気がしている。
「電話しても出ないから。もしかしたら、そのー、あの、すっぽかされたとかそういうんじゃないけど、とにかくここにいるかなって思って来たのよ」
「ふむ。やっぱりデートか」
「マジでデリカシーないな柾屋くんは!」
くすくす笑いながら冴が七瀬の疑問に答えた。
「龍くん、まだ帰っきてないんだ」
「そ、そう」
「帰ってきたら、七瀬に連絡するように伝えるから」
「お願いね。あと、七瀬が怒ってたとも言っといてくれないかな。あと、すぐに! 電話するようにも言っておいてほしいんだけど」
「了解。しっかり伝えておくね」
「ありがと。じゃあね二人とも。また明日、学校で」
「またね、七瀬」
そして七瀬はシャハシュピールを去ろうとしたが、去り際に七瀬は秀明に向かってこう言った。
「あのさあ柾屋くん。人の心読み取るのやめてくんないかな」
だからと言って秀明と冴が日々の通常運転をやめてしまうわけはない。秀明は、ほう、と反応した。
「どういうことだい」
「だって柾屋くん、いつも私の考えてることとか思ってることとか当てちゃうじゃん」
「君は読み取りやすいんだよね。女性の割にはわかりやすい」
「バカにしてる?」
「いや」
「だからなんか、すごいバカにされたような気分になっちゃうんだよね。柾屋くんのことだから悪気があるんだかないんだかわかんないけど」
「すまんね。実は悪気があるんだ」
「は?」
「いやいや」
「とにかく、勘が鋭いのも程々にして」
「うん。気をつけることにするよ」
「じゃ、そういうことで。またね二人とも」
そして七瀬は足早に立ち去っていった。
冴はくすくす笑った。「七瀬は本当に秀明が鬼門みたいね」
「その割には授業中いつも俺の方を見ているが」
「あれっ。あの子には龍くんがいるでしょ」
「いや恋愛感情じゃあないさ。授業中、いつもぼーっとしている俺の成績がいいことを不思議がってるのさ」
「本当に気をつけて。知らず知らずのうちに読み取ってるって可能性だってあるんだから」
うん、と、秀明は頷いた。「俺と冴以外は誰も知らないことはわかってるから大丈夫だよ」
「気をつけるのに越したことはないよ」
「ああ。わかってる」
そして、再三の確認を冴はした。
「あなたが
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