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まずいなあ、と、自宅に戻った
明日、またあの店に行ってチェロを取り戻さねばならない、夕馬はそう考えた。電車の改札口を通り過ぎた瞬間に自分が忘れ物をしたことに気づき、しかしもう門限が迫っているから家に帰らないわけにはいかず、いまさら取りに戻ることはできなかった。
彼の両親は夕馬に対して異常なほどに過保護であり過干渉だった。それは夕馬の生まれつきの脳障害に起因する学習障害を心配してのことだった。実際には彼の症状は失読・失書のみであり、それ以外ではとりあえず日常生活をこなすことは容易なことだった。もちろん文字が読めないという事実はその「日常生活」においてはマイナスでしかなかったが、それでも福祉の力や仲のいい友達たちが彼を助けてくれていたため自分は恵まれている方だと思えていた。ただ、両親の過保護が彼のネックだった。
仕方がないとは思う。文字の読み書きがほとんどできないということは単純に大変なことではあるからだ。それでも自分は自分なりの日々を過ごせている。学校でも学習障害の解決に力を入れてくれているし、授業を受けることは確かに困難が伴うが、それでも自分はちゃんとやれていると思っている。それなのに「心配だから」の一言でこれほどまでに生活を制限する両親のことが嫌で嫌で堪らなかった。だが愛情も恩情もあるからこそ“嫌”という感情一つで親を評価することは夕馬にはできなかった。
それにしてもなぜこんなに自分に構うのか、夕馬にはよくわからない。
とにかく家にいる間は両親の意向に背くわけにはいかなかった。いずれにせよチェロを取り戻しにあの店に行くのは明日だ。本当に失態だった、と、夕馬はつくづく後悔した。
(先生が怒るなあ)
去年、中学一年生の頃から開始した夕馬のチェロの腕前は、お世辞にもあまりうまいとは言えない。だが彼は別に誰かに聞かせるために弾いているわけではないのだし、ただ実可子のために弾いているだけなのだからそれで構わない、と思っていた。いまはバッハの無伴奏チェロ組曲を練習していたが、しかし自分でも大したことはないと痛感していた。夕馬のチェロのレッスンは明後日である。だから明日取り戻しに行けばなにも問題はないはずだし、先生に怒られることなどないはずだった。
だが、そのレッスンの指導者は講師であり、先生ではなかった。
夕馬は壁に貼られた先生の怒ったような顔の絵を見る度に、本当に叱られるのではないかとドキドキしていた。
(まあ)(怒られるにしても怒られないにしても)(チェロは明日じゃないと、取り戻しには行けないのだ)
そう思うことで考えることを止めようとして、夕馬はベッドに寝転んだ。ベッドの上には今日買ってきた本を置いておいた。シラノ・ド・ベルジュラックはベッドの上に他に三冊置かれていた。夕馬は読めない本を手の取り、ぱらぱらとページを開く。いま開いている本の場合、彼に認識できるのは挿絵だけだった。
そこにはやけに鼻の大きい騎士が、塔だか城だか、とにかく貴族的な屋敷のバルコニーにいる美女もしくは美少女を見つめているシーンが描かれていた。失読症の人間に合わせたやり方でなんとか読破したシラノ・ド・ベルジュラックのストーリーを思い返す。彼はその本を見てもその物語は読めない。
ふとその騎士に、やたらと美化された自分を重ね合わせ夕馬はにんまりと笑った。
(実可子の好きな本)(お気に入り)(人生で読んだ一番)(と言っていた)(国語の時間に)(シラノ・ド・ベルジュラック)(俺は、実可子の一番好きな本を持っている)(だから俺は実可子と同じ)(手に入れた)(シラノ・ド・ベルジュラック)(シラノ・ド・ベルジュラック)
ふと、夕馬の思考に、先生の怒った顔が登場してきた。
(先生。俺)
本棚を見つめる。そこには同じタイトルの本ばかりが並んでいる。
(先生)(俺、この本を手に入れました)(そのせいでチェロを忘れちゃったんです)(どうかご勘弁)(俺はいま、すごく幸せですから)
そして夕馬はプレーヤーでベートーヴェンのテンペストをかけた。
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