2-2
二人がシャハシュピールに帰ると、店の前に人影が見えた。
秀明は足早にそちらへと歩いて行った。するとそこには一人の少年が佇んでいた。中学生ぐらいだろうか。脇にチェロのハードケースが置いてあった。
「いらっしゃいませ。申し訳ございません。いま、店を開けますので」
少年は無言のまま頷いた。(待たせやがって)(中に人の気配するのに)
秀明は段ボール箱を地面に置いて、カバンから鍵を取り出して扉を開けた。
「すみません、中でちょっと別の作業をしていて」確かにいま屋内には冴がいるが、龍介の部屋を作っている最中なので店は閉めておかなければならなかった。「お待たせしました」
「……どうも」(別にいいけど)
とだけ言って、少年はチェロを抱えて店の中へと入っていった。
秀明と龍介も店内に入り、レジに向かう。二人は箱を母屋の居間に置いた。
「じゃあ龍は、自宅に」
「はいっす。行ってきます!」
そう答えてすぐに龍介は外へと走っていく。
(兄貴が待ってる)(心配させちゃダメだ)
後ろ姿を見つめ、秀明は独りごつ。「行ってらっしゃい」
店内へと目を戻す。その少年はしばらく間、本棚を見渡していたが、しかしすぐにレジに入った秀明の元へと近づく。
「すみません」
「なんでしょう」
少年は言った。
「シラノ・ド・ベルジュラックって本、ありますか」
そして彼は俯いた。
「それなら」と、秀明はヨーロッパ文学作品を並べている棚へと向かった。「こっちです。フランスですね」
すぐさま秀明は彼を案内する。少年は秀明の後ろを黙って着いていく。(やったぜ)そして秀明は本棚から一冊の本を取り出した。
「こちらでよろしいですか?」
だが、少年はなぜかタイトルを見ても首肯しなかった。
(読めない)「この本で、間違いないですか」
秀明は少年の心を一瞥する。
確認とは違った。彼の心は(これが本当にその本なのだろうか)と言う疑念が湧き続けていたのである。
全てを察した秀明は答えた。
「そうですね、いまうちに置いてあるのはこの翻訳だけで。あ、もしかしたら原文をお求めでしたか? それでしたら申し訳ないんですが、いまちょっと切らしていて」
「いえ。それならそれでいいんです」(わかんないけど)「これがそれならこれにします」
早口でそれだけ言って、少年はひったくるように秀明から本を奪い取った。そしてしばらくの間、ぱらぱらとページをめくっていく。だが彼は文章を読んではいなかった。彼は文章を眺めていた。
(シラノ・ド・ベルジュラック)(シラノ・ド・ベルジュラック)(これでまた
ド・ベルジュラック)(よかった)(買えた)(日本語・フランス語)(翻訳でも原文でも)(どっちだって)(それでも俺の欲求は満たされないが)(どうせ一生)(シラノ・ド・ベルジュラック)(買えた)(自分のものに)(実可子)(どんな話なのかはほとんど知らないが)(構わない)(どうせ俺には読めないから)(構わない)(いいんだ)(構わない)
彼の精神構造はほとんどが聴覚的なイメージで構成されていた。その中に存在する視覚的な事象事物のうち“文字”はほぼ排除されていた。言語に関して文字の存在しない精神構造を持った少年を見て、秀明は少し驚く。
(文字がない)
少年にとって文字という存在は“使わない”ものではなく“ない”ものだった。いくつかの数えるほどの認識できるもの以外、彼にとっての文字はあくまでも絵画的な記号に過ぎず、その意味、文章、文法などを理解することはあまりにも難しいようだった。少年の意識を通じて見たその本は“本”ではなく、解答の存在しない暗号文に過ぎなかった。
(なるほど)と、秀明はふとかつて読んだ精神医学書の一文を思い出す。(失読症か)
やがて少年は本を閉じた。
「じゃあこの本、お願いします」
いま少年の心に浮かんだイメージから大体のことを理解した秀明は、失読症の彼がなぜ本を買いに来たのかなどという疑問など抱くこともなく、「かしこまりました」と答えてレジへと向かった。
レジ作業中、秀明は一種の好奇心から少年の意識を解読して見たくなっていた。
「二百五十円になります」
「二百五十円」(シラノ・ド・ベルジュラック)少年は財布の中から五百円玉を取り出した。「五百円で」
「お預かりします」秀明は釣り銭とレシートを少年に渡した。「二百五十円のお返しになります」
(そうか)(これで)(俺の本)「あ、はい」(シラノ・ド・ベルジュラック)(実可子、俺はこの本を買ったぞ)「どうも」と、釣り銭だけを受け取って財布の中に入れた。(実可子、これが俺の)(シラノ・ド・ベルジュラック)(お前と一緒かな)(一緒だといいな)(俺のもの)(実可子、やった)
秀明は本を紙袋の中に入れて、セロハンテープで封を閉じた。
「こちら商品になります」
「はい。どうも」(これで完全に俺のものだ)少年は紙袋を受け取った。(俺のだ)(俺の本だ)(シラノ・ド・ベルジュラック)(実可子、俺のシラノ・ド・ベルジュラックだ)(実可子)(やった)「ありがとう」
「毎度ありがとうございます」
(また来たら別のがあるかな)
そして少年は無言のまま店を出て行った。
秀明は彼の後ろ姿をぼんやりと眺め、少し考える。
少年は(シラノ・ド・ベルジュラック)と(実可子)以外のことを考えないように必死だった。頭の中で何度も何度もタイトルを反芻させ、秀明は同じ言葉の羅列を繰り返し聞いて興味が湧いたのと同時に呆れもした。彼はシラノ・ド・ベルジュラックという言葉そのもの、音そのものに魅力を感じており、かつ(実可子)にダイレクトに関わる存在としてそれは彼の心の中で絶対的な地位を確立していた。
(実可子)という人物は、彼の友人だろうか、と、秀明はふと考えた。少年の心象風景に浮かんだその少女は可愛らしい人物で、朗らかな笑顔を彼に向けていた。多少の美化は含まれているのだろうがかわいい女の子なのだろうと秀明は思った。その(実可子)と少年はおそらく同級生であり、彼はその子にかなりの恋愛感情を抱いているようだった。だがそれは一言で恋愛感情と断定してしまったいいものなのか、秀明にはよくわからなかった。むろん“淡い恋心”と言った感情でもなかった。それなら一体(実可子)と少年はどんな関係性を持った者同士なのだろう、と、そんなことを秀明はぼんやりと考えていた。だが、ふと彼がチェロを持っていたことを思い出し、そして去っていく彼がそれを持っていなかった姿を思い出し、秀明ははっと気づいた。
「まずい」
秀明は身を乗り出した。秀明の位置からでは身を乗り出さない限りレジの下は死角なのだ。案の定、そこにはチェロがそのまま置いてきぼりにされていた。いつものようにいちいち精神分析なんかしてたからこんな初歩的なミスを犯してしまったのだと秀明は自らを罰する。
とにかく秀明はチェロを持って店の外へと出て行った。だが、もうすでに少年はどこにもいなかった。ただただ広い風景が広がっているだけで、そこには少年の意識の残滓が微かに残っているに過ぎなかった。だがそれすら(シラノ・ド・ベルジュラック)と(実可子)のことばかりで、あとは駆け足で走り去って行ったのだろうという秀明自身のイメージがあるだけだった。一体どこへ行ったのか、秀明に知る術はなかった。
「まあ……また来るとは思うが。やれやれ、俺としたことが」その場に佇み、秀明は独りごつ。「いや——いつもの癖だけど」
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