第二話 読めない絵本-many a little makes a mickle-
2-1
放課後。校門で、秀明と冴が龍介を待っていた。
「冴」と、しばらく無言だった秀明が口を開いた。「ちょっと思い出したことが」
「なに?」
「龍は自宅に戻って店に引っ越すための準備をしなければならない」
冴が目を丸くした。
「それじゃ、どうするの? 私は買い物を龍くんに任せて、龍くんの部屋を作る予定だったんだけど」
「だから冴には行ってもらった方がいい。龍には買い物に付き合ってもらうよ。これもやつの仕事のうちだからな」
冴は呆れた。
「重たい荷物を運ばせて、そしてまたとんぼ返りってことだよね。大変」
「そうだな。ブラックバイトだ」秀明はくすくす笑う。「冴には一旦帰ってもらわないといけないっていうのも本当だろ」
「まあね。読み取れないものね」
「そうそう」
冴は軽くため息をついた。
「でも、しばらくはあなたのペースに合わせるけど、私もいちいちあなたから離れてはいられない」
「面倒だよね」
「面倒だね」
「しかし、お前の命令に従ってるだけだろ?」
ふ、と、冴は軽く微笑む。
「それにしても秀明、珍しいね。そんな物忘れ」
「緊張してるんだろうな——バレないように、ってね」
冴は目を曇らせる。
「本当にこれで良かったのかな」
そこに、龍介がやってきた。
「すんません、待たせちゃいましたか?」
「ううん、平気だよ。ところで龍くん」冴が会話を切り出した。「龍くんは、一旦お家に帰らないといけないんだよね」
「そっすね。俺も引っ越したばっかりだから荷物なんて全然ないんすけど」
「なんだけど、今日これから買い物に付き合ってもらわないといけないの」
「あ、はい。いっすよ」
あっさりと首肯した龍介に二人はちょっと驚いた。
「いいのかい? そもそもスケジュールを組まなかった俺のせいなんだけど」
「いやあ、これも俺の仕事なんで。それに大した荷物じゃないっすしね。兄貴にLINEしときますから」
「ありがとう龍くん」と、冴は軽く頭を下げた。「私はこれから急いであなたの部屋を作るから」
「あざっす冴さん!」
とにかくひたすら白い歯を見せてにこにこと笑う龍介に、二人は心底微笑ましい気持ちになった。龍介はスマホを取り出し辰彦にLINEで連絡を始める。
「ところで何の買い物っすか?」
「本よ」
「え、本?」
秀明が横槍を入れた。「絵本じゃないぞ」
「いやいやそうじゃなくて……店に置く本なんすか?」
「ううん、私たちがただ読書するだけの本。街の本屋さんに注文してた本を取りに行くの」
「ふうん、なるほど。冴さんも本が好きなんすね」
「うん」
「何冊ぐらいなんすか?」
冴は秀明を見上げる。「何冊ぐらいだったかな」
「四十冊ぐらいかな」
「四十冊?」と、龍介は目を真ん丸にさせる。「一気にそんなに?」
秀明は答えた。「そうだね、これが俺たちのスタイルだ」
「へえ、そんなもんっすかねぇ」
「そんなもんさ。じゃあ行きますか」
そして、三人は学校を出て行った。
「いらっしゃいませ!」本屋の店員が、少しうるさいぐらいの元気な挨拶で二人を迎えた。(あ、まただよこのお客さん)
二人は即座にレジに向かう。
秀明は言った。
「柾屋ですけど、注文していた本をお願いします」
そして秀明はポケットから束になった控えの用紙を店員に差し出した。
「はい、少々お待ちください」と、レジを担当していた男性店員はそれを受け取り、倉庫に向かう。(この人いつも大量に買ってくから覚えちゃったよ)(本屋くんと本屋ちゃん)(今日はあの子いないんだな)(この子は誰だろう)(ええと、確か、裏の方に段ボールにまとめて入れておいたな)
すぐに二人の店員が巨大な段ボールを一つずつ持って秀明たちの前に現れた。
「お待たせしました。今回は四十七冊ですね」
(よ、四十七冊……四捨五入で五十冊だな)と、龍介はずしりと床に置かれた段ボール箱を見ながらそう思った。(これでいくらぐらいするんだろう)(仮に、一冊五百円だとしたら)(五百かける四十七で)(えーと)(いや千円でいいや)(四万七千円?)(そんな大金持って学校来てたの?)
「全部で、いくらでしょう」
「あ、はい」店長は箱に貼り付けたレシートを見た。これは秀明の提案だった。いつも大量に本を買っていくため、買いに来たその場で一つ一つの本をレジに通すよりも最初から金額を示していた方が作業は楽に済ませられるからであった。だからこそ、レジに通すように連絡したその日に来店しなければならない。「五万六千五百二十三円ですね」(いいなあ、こんなに遣えて)(ただの高校生の分際で)(俺なんか五万もありゃひと月遊べる)(羨ましい)(ガキのくせに)
「ええと……」と、秀明は財布の中から金額通りの金を取り出し、受け皿の上に全てを出した。「ご確認ください」
「はい。ええと……」(合ってるのはわかってる)(通販で買えっつーの)(ネットで買えっつーの)(そりゃ確かにこっちの利益にはなるけど)(ガキが)「はい、確かに頂戴しました」
「ありがとうございます」秀明は段ボール箱を一つ抱えた。「それじゃ龍、こっちの箱、頼むな」
「はいっす」龍介も両手に箱を抱える。(ぐ、重い……)
「じゃ、またよろしくお願いします」
(はいはい。俺はうちに金をよこせばそれでいいんだ)爽やかな笑顔で店長は言った。「ありがとうございました」
そして二人は本屋を出て行った。
重たい箱だが持ち運べないほどではない。歩きながら龍介は秀明に質問した。
「先輩、この中、一体何の本が入ってるんすか?」
「どういう意味だい。作品のタイトルを訊ねてるのかい」
「まあ、そんなところっす」
秀明は考えながら答える。
「失われた時を求めて全巻、ユリシーズ全巻、イスラムの昔話全集……」
(知らん本ばっかだ)「全巻ばっかっすね。しかも知らん本ばっか」
「全巻揃ってるものは全巻一気に買うからな」
「読むんすか?」
「もちろん」
(寝ても覚めても本の虫)(他の部屋もすごいんだろうなぁ)
思考を張り巡らせようとしたそのとき、突然ポケットからスマホが鳴り出して龍介は驚いた。
「うわ、兄貴だ!」その着信音は間違いなく辰彦からの電話だった。「すんません先輩、ちょっと失礼しまっす」
と、段ボールを地面の脇に置いて龍介は通話を始めた。
「あ、もしも」
「龍! お前、一旦家に帰ってくるんだったろ⁉︎」
龍介はスマホを耳から少し離す。
「それがその、ちょっと仕事で。用事ができて。これから帰るよ」
「なんだって仕事⁉︎ そんな話は聞いてないぞ!」
「突然だったから」
「いくら柾屋先生の店だからって龍をこき使うなんて許せん!」
“柾屋先生”という言葉を少し怪訝に思ったが、いまはそれどころではない。大声を出し続ける辰彦に龍介はあたふたしながら説明を続ける。
「そうじゃないんだ、お店の方で、俺の部屋を作ってくれることになったから、前の従業員さんが先に戻っていま作ってくれてて、それで」(まあ先輩がうっかりしちゃったからなんだけど)「緊急で俺が呼ばれたんだよ。俺、頼りにされてるんだよ」
と言うと、辰彦は声のトーンを和らげた。
「そうだな。龍は頼りになるもんな」
「もしそうなら早速ありがたいよ」
「いやいや。お孫さんも龍に好印象なんだな」
(お孫さん)(代理店長)「だといいけど」
「うんうん。でもそれはそれこれはこれだ!」
「いやあの、とにかくすぐに帰るから」
「俺との約束だからな!」
「わかってるよ。わかってる。じゃ、じゃあ仕事中だから切るね」
「おう。頑張れよ。先生に失礼のないようにな」
そして龍介は通話を切り、ふうっとため息をついた。
「すんません先輩」
「いいんだよ」
「兄貴は、ちょっと、すごいブラコンで……一回り離れてるのもあって……」再び、スマホが鳴る。「兄貴だ」辰彦からのLINEだった。
「なんだって?」
と訊ねる秀明に、龍介は、うう、と唸った。
「俺はブラコンじゃないからな! ……ですって」
「以心伝心って感じだな」
「なんだよ、もしかしたらこの辺にいるじゃねえの? じゃなきゃテレパシーだな。全く、俺の考えてることなんでもわかるんだから……」
秀明は一切表情を変えることなく、微笑んだ。
「かもね」
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