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「バイトに来たのって、俺が初めてっすか?」

 店内の案内中、龍介はふと訊ねてみた。

「どうして?」

「いや、なんとなくなんすけど」(だってこんなにあっさりバイトが決まるんだもん)(それなら俺より先にあっさりバイトが決まった人がいてもおかしくないであろう)(でも見た感じ、俺と柾屋さん以外にいなさそう)(藤原さんもいなくなっちゃったし)(藤原って子はなんとなーく“バイト”って感じじゃなさそうだし)(藤原さんは別に貼り紙募集じゃないわけでしょ)「藤原さんは別に貼り紙募集でここに来たわけじゃないわけでしょ」

「ああ、そうだよ」と、さっきとは打って変わって砕けた返事を秀明はした。「冴は俺の従妹なんだ。ここは俺の爺さんの店でね。爺さんが日本を離れてるから、俺が代理店長を務めているんだ」

「へえ」年上から敬語を使われることにどこか居心地の悪さを昔から感じている。(そうね、たぶん柾屋さん俺より年上だよね)アルバイト未経験の龍介だが、昔からバスケットボール部という体育会系の部活動に所属しているため年功序列は自然の法則だった。「いとこかぁ」

 気になったので龍介はさらに会話を仕掛けてみた。

「お爺さんは、いまどこに?」

「ドイツにいるんだ」

(バウムクーヘン)(フランクフルト)(確かハンバーガーも?)「ドイツですか。なにしに?」

「爺さんは作家なんだ。日本じゃ全然売れてないんだけどね。向こうじゃそこそこ売れてるみたいで」

「へえ〜。なんかかっこいいっすね」

「そうかな」

(かっこいいかっこいい)(外国というだけでかっこいい)(もちろん日本はいい国なんだけど)(行ったことのないところへ行ってみたい)(自分たちとは違う言語・文化・習慣)(憧れる)「そうっすよ」

 秀明は微笑む。「爺さんが喜ぶよ」

(ところで)「ところであのう」

「はい」

「ここのお店の名前、なんて読むんすか? 看板のアルファベットが読めなくて」

「あれは、シャハシュピール、と、読む」

「しゃは?」

「ドイツ語で、チェスのこと」

(将棋の?)「将棋の?」

 ふふっと秀明は笑う。

「そうだね。将棋のだね」

「なんでまた古本屋さんがチェス?」

「爺さんがドイツ語初心者だった頃に、辞書をパラパラめくってたらたまたま発見したそうだ。爺さんはチェスが好きだったから、これはいけると思ったそうだね」

「へえ〜」(運命の出会いっすね)「運命の出会いっすね!」

「そうだねぇ。ところで浅川くん」

(龍がいい)(兄貴はいつもそう呼んでる)「浅川くんなんてやめてくださいよ。龍って呼んでください」

「じゃあ、龍」

「なんでしょう」

「お兄さんに連絡をした方がいいと思うんだがね」

 すっかり忘れていた、と、龍介は慌て始めた。

「あっ、ヤバい、すっかり忘れてた。連絡しなきゃ、しなきゃ」(ヤバい兄貴が寂しがってる)「ちょっとすみません」と、龍介はスマートフォンを取り出し急いで電話をかけた。

 まるで待ち構えていたかのように直ちに兄の辰彦たつひこが電話に出た。

「あ、もしも」

「龍! どこだ! お前いまどこだ!」

 龍介は、ある程度予測していたこととはいえたじろぐ。

「え、なに、どうしたの」

「どうしたのって、学校終わったらすぐ帰るって言っただろ! かけても出ないし! どういうことだよ!」

「あ、あのー」(あたふたあたふた)「実はバイトが決まって」

「どこだ! 面接は俺も行くぞ! ——って、決まって?」

「う、うん、それで住み込みのバイトで」

「なんだって住み込み⁉︎」

「それも今日からで」

「おいどこの店だ! なんて店だ! 変なとこじゃないんだろうな! ああ⁉︎」

「ちょっとすみません」と、秀明は龍介のスマートフォンを手に取った。「もしもしこんにちは」

「お前は誰だ!」

「私、浅川くんを雇った者です。柾屋秀明と申します」

「なんで雇った⁉︎」

 そこで秀明は龍介を見る。

(兄貴はスーパーブラコンだからなぁ……)(俺のことが可愛くて可愛くて仕方がないからなぁ……)

 務めて冷静に秀明は答えた。

「素直そうなので」

「そうだ、龍は素直なやつだ!」

「よければお兄さんもうちに来ていただけないかと」

「それはダメだ! 今日は朝まで仕事だ! だから龍を返せ!」

「それはちょっと難しいですね」

「なんだと! なぜだ!」

 そこで秀明は、できる限り優しい声を出した。

「お兄さんに大変憧れているようで。そういう人を求めていたんですよ」

 すると辰彦はしばし沈黙した。

「いや、まあ、ね」さっきまで喚き散らかしていたとは思えない甘い声で、満更でもない、といった様子をわかりやすく表した。「まあ、ね、大事な弟ですしね」

「家族を大切にする人はいい人です。特に兄弟を」

「え、ええ〜? え、まあ、ね、そうですよねぇ。そうっすねぇ」

 しかしここで決めなければならない、と秀明は決意した。

「少なくとも今日のところは彼にいてもらわないと私が困るんです。どうかお許しいただけませんでしょうか?」

 鬼気迫る声、という演技であることが龍介にわかったのは、秀明が自分にウインクをしたからである。

「う、うーむ……そうですねぇ、しかし、ねぇ……」

「すみません」と、龍介はスマホを取る。「明日、ちゃんと話すから。だから今日のところは、ごめんなさい」

「うーん」

(ごめんなさい)「ごめんなさい」

 泣きそうな声だったためか、辰彦も観念したようだった。

「わ、わかった……でも明日な! 明日ちゃんと帰ってこいよ⁉︎ 俺もその店に行くからな! ところでなんて名前のなんの店だ⁉︎」

「古本屋さん」

 と即答する龍介に辰彦は怪訝そうな顔をした。

「古本屋?」

「似合わないでしょ」

「そうだな」

「ひでぇなぁ」

「ああ、ごめんよ」

「シャハシュピールっていう名前で……」

 店名を挙げると、辰彦は、しばし停止した。

 そして、大声を出した。

「あ、あー! シャハシュピールね! あ、あそこの、柾屋まさや秀隆ひでたか先生の! はいはい!」

 龍介は怪訝そうな顔をした。

「あれ、知ってる? 秀隆先生って?」

「行ったことはないんだけど……ああ、はいはい、古本屋シャハシュピールね。それなら結構」

「は?」

「評判がいいの知ってるから。ああ、そうか。じゃ、粗相のないようにな。それじゃまた明日な。明日、ちゃんと帰ってこいよ!」

「え、あ、はい」

 そして龍介は電話を切った。

 秀明を見る。

「この店、有名な店なんですか?」

 秀明はちょっと自慢げに笑った。

「爺さんは、まあ、知る人ぞ知る、って感じなんだよね。たぶん、それじゃないかな」

「へえ〜」(すごい人なんだなぁ)「すごい人なんすねぇ」

「ま、話がまとまってよかったよ。君にはいてもらわないと困るんだ」

「それはなぜ? ていうか即効でっていうの、気にはなってたんすよ」

 ふう、と、秀明はため息をついた。

「いろいろね」

「?」

「じきにわかる」

「?」

「いまわかる」

「え?」

 そこで、秀明は頰を掻いた。

 なかなか言いにくそうだったので、なんだろうと龍介は訝しんだ。

(変な人じゃなさそうだけど)(いい人そうだけど)

「家事をしてくれる人を求めてたんだよ」

「は?」

 秀明は続ける。

「家事がてんでダメでね」

 恥ずかしそうに説明する年上らしき代理店長を見て、龍介は、(やっぱりいい人だ)と、思った。

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