第一章二

 新しい母上、菖蒲様にも挨拶をしないといけない。


 四人もの男子をもうけてみせた菖蒲様は先妻の於祢の母上よりも父上や家臣達からの評判がいいのだ。

 於祢の方も大事にはされていた。けれど、男子を生めずに桜がまだ十一歳の頃に三十七歳の若さで亡くなった。

 ふいに、疱瘡(ほうそう)にかかって、三日としない内に息を引き取る。姉によく似た明るく愛嬌があって、それでいて艶やかな女性であった。

「桜様はほんに、お若い頃の於祢様のお母様にお顔がよく似ておいでです。高雅で思慮深くいらして。お祖母様もお美しい方でした」

 桜はそうかとだけ頷いた。

 菖蒲様もなかなかの美人だが、それでも姉の梅乃には及ばない。岩谷一の美女として於祢の方も有名な人であった。

「それよりも父上の所へ行きましょう。たぶん、待っていてくださっていると思うわ」

 お岩も後に続いて桜と部屋を出た。




 父のいる床の間に行くと新太郎と津田十重郎、父の三人が桜とお岩を待ちかまえていた。

「ああ、桜。待たせたな。すまぬ、大事な話があると言っていたのに」

 父の泰道は穏やかに笑いながら桜に詫びてきた。

「いいえ。父上、お気になさらず。それよりもお話とは何でしょう?」

 手短に尋ねるとお岩がまずは挨拶をと合図を送ってくる。それを見た桜は仕方なく手をついて、形ばかりの礼をした。

「…桜。そなたに話があるといったのはな。その、縁談がこちらに来たからだ」

 言いにくそうにしながらも告げられたことに一番に声を上げたのはお岩だった。

「殿様、姫様に縁談が来たのでございますか。お相手はどなたでしょうか?」

 目を輝かせてお岩が父に迫らんばかりに問いかける。それに笑いながら代わりに津田が答えた。

「武田信虎様のご子息、晴信様ですよ。お岩殿」

「…武田の晴信様!確か、ご本妻様がいらしていると聞いております。京の都の高貴な姫君だとか」

 お岩は信じられないという表情で津田を見つめる。

「左様。桜姫様には晴信様の側室として入っていただきたいと。あの方には後二人の側室がおられるが。信虎様はご隠居されたから、人質になられる必要はないので」

 淡々と告げられたがお岩は桜を心配そうに見つめた。

「…わかりました。お断りしても武田家を怒らせると父上に悪影響が及びましょう。そのお話、お受けしましょう」

 桜は常の無表情で父に深ヵと頭を下げてみせた。父の泰道は苦しそうな表情を浮かべていた。

「…御寮人。私や父上も殿に進言はしてみたのですが。武田家と手を組んだ方がよいと判断を殿はされたのです。信虎様を隠居させて甲斐の国から恐怖を取り除いてみせた晴信様は立派な方です。側室であってもそう、おろそかな扱いはなさらないでしょう」

 新太郎が元気づけるようにして言う。桜は微笑みながら頷いた。

「そのお話は聞いています。新太郎殿、励ましは無用です。私も覚悟はしていますから」

 真剣に口にしてみせると新太郎は笑みを消した。

「御寮人。わたしは梅乃様と同じく心配しているのです。いずれ、海野氏と諏訪氏が戦を起こすでしょう。諏訪家にも武田家のご息女が嫁いではおられますが」

 そこで一旦、言葉を切った新太郎に代わり、津田が後を引き継いだ。

「…諏訪氏は武田信虎様に自分のご息女を人質として差しだそうとしたのです。まあ、晴信様が信虎様を幽閉なさったからご息女は命を取られずにすんだそうです」

 お岩は恐ろしいと言いながら袖で顔を隠した。桜は武田、今川、北条が手を組むために互いに娘や息子を結婚させるということが後に起こるとはこの時、知らなかった。正室としてではなく、側室として嫁ぐことになっても支度は変わらない。



 部屋に帰ると早速、お岩が準備を始めた。

「…姫様、武田のお城に行かれましてもこの岩が付いておりますよ。だから、心配なさいますな」

「そうね。岩が付いてきてくれるなら心強いわ」

 珍しく、はにかんだように笑う桜を見てお岩は美しくなられたと思うのであった。



 武田家に嫁ぐ日は半月後と決まった。父から日取りを聞いて、すぐではなかったことに桜は安心した。

「…半月後ね。えらくのんびりした嫁入りだわ」

 桜にそう言ったのは義理の母である菖蒲である。城の奥にある居室にて挨拶をしにきているのだ。

「はあ。私はかえって良かったと思っています。武田の若殿様が気性の荒い方だったら逃げ帰りたいところですけど」

「何をおっしゃるの。若殿様は性格が温厚な方だと聞いていますよ。失礼なことは慎むべきだわ」

 厳しい物言いに桜は肩をすくめる。元は海野(うんの)氏の出身で海野御寮人と呼ばれていた。

 顔立ちは細面で目元も二重でくっきりとした感じであった。だが、気の強さが出ていてきつめの美人という印象を相手に与える。

「菖蒲様はその、諏訪とご実家が対立していると聞きましたけど。近い内に戦になるとか」

 おもむろに切り出すと菖蒲は少し、表情がきつくなった。桜は亡くなった於祢の方はこんなに気性の激しい方ではなかったとつい、比べてしまっていた。

 菖蒲の生んだ子供達は全員が男の子で娘がいない。

「…そうね。あなたが武田に嫁げば、海野氏はもたないでしょうね。諏訪に武田が味方になるでしょうから」

 憎らしいとばかりに睨みつけられて、桜は縮みあがった。

「海野は滅ぼされてしまうのでしょうか。父上も酷な事をするわ」

 小さな声で言うと菖蒲はすっと立ち上がった。

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