桜の下で

入江 涼子

第一章 百年桜一

 ここは佐野家が治める甲斐の国である。城はとある山に建てられており、名を岩谷城といった。岩谷城の規模は小さなものだったが、そこの庭には樹齢百年を越す桜の大木があった。

 百年桜という名で甲斐の人々には知られている。

 その岩谷城の城主は佐野泰道という。彼は甲斐の国の西部を治めていたが、名だたる武将達の影に脅えながら日々を暮らしていた。

「…殿、武田信虎様やまむしと恐れられる斉藤道三殿など、おそろしい面々がいますな」

 家臣の津田十重郎が難しい顔で語りかける。顔に白いものが混じる髭を生やしていて、むさ苦しい風貌だが、目は朗らかな色をたたえている。

 泰道はしみじみと頷いた。

「そうだな。我が岩谷が生き残ろうと思えば。武田家と同盟を結ぶか、もしくは戦うかのどちらかしかなかろう」

 津田は確かにと真面目に答える。

「そうですな。同盟を結ぶとすれば、ご正妻の於祢(おね)の方様の姫様達のどちらかに嫁いでいただく事になります」

「…確かに。わしには娘がいる。あれらのうち、どちらを嫁がせようか」

 津田は髭をしごきながらふうむと考え込む。泰道も腕を組んで苦悶の表情になる。

 武田家の信虎という人物は残虐非道な性格で知られている。その男の慰み物として姉の梅乃姫か妹の桜姫を行かせるか。もしくは、自分が陣頭指揮を取って戦うか。泰道は頭を悩ませていた。

「…だが、梅乃には許嫁の者がいる。わしの側近の柴田家継の子息がそうだ。名を新太郎といったか」

「ああ、確か。馬術と弓矢に優れているとかいう。あの家継殿の長男でしたか」

 うむと泰道は頷いた。

 梅乃は今は亡き於祢が生んだ忘れ形見の娘である。年は十八で柴田新太郎という同い年の若者と婚約をしていた。

 性格は明るく、朗らかで活発な姫だった。

 妹の桜もやはり、於祢の生んだ娘だ。

 だが、姉と違っておとなしく、内気で無口な性格をしていた。

 年は十六歳である。二人とも行き遅れに当たるが泰道にはかわいい娘達であった。

「わしとて、梅乃も桜も良い相手に嫁がせたい。まあ、新しく迎えた妻の菖蒲にも息子が四人できたが。なるべくであれば、国に留まってほしいと思う」

 ため息をつきながら、泰道は津田に武田家に打診してみるように命じたのであった。




 今の季節は春である。城の庭に植えてある百年桜は今年も真っ盛りに咲いていた。

 その大木の根本で同じ名の少女がぼんやりと佇んでいた。

 佐野泰道の次女、桜だった。年は十六になるが、顔立ちは大人びている。

「…桜、そんな所にいたのね。探したわ」

 ふいに声をかけられて振り向いてみると姉の梅乃が走りながら、近づいてきていた。

「姉上。桜を眺めていたのですけど。私に何かご用ですか?」

 淡々と尋ねる桜は年頃の少女らしくない表情をしていた。おとなしく、内気で無口でもある桜は周囲に対していつも、無表情で接していた。明るく愛嬌があって、いつも笑顔の梅乃とは対照的である。

「父上がそなたに話があるのですって。わたしが言づてをするからと言っておいたから。早く行きなさい」

 常とは違う厳しい表情で梅乃に指示されて桜は渋々、城の中へと入るために歩き出した。

「…どうせ、縁談の話でしょう?姉上には新太郎様がおられますからね」

 皮肉を言う妹に梅乃は眉を逆立てる。

「つべこべ言わずに行きなさい。津田殿も待っているのだから」

 それを聞いて桜は黙って、父と津田が待つ部屋へと行った。



 部屋にたどり着くと桜は外で待機していたらしい若い男に声をかけた。姉の許嫁の新太郎だった。

 きりっとした顔つきの凛々しい若者である。

 武士としては優れた腕を持ち、学もある新太郎は側近の柴田の自慢の息子であった。

「…新太郎様。私に父上が話があると聞いてこちらに来たのだけど。おられるかしら?」

 桜が問いかけると新太郎は表情を崩して笑いかけた。

「ああ、御寮人。殿でしたら、今は武田家からの書状を読んでおられる最中のようですよ」

 あえて、実名を言わない新太郎は行儀良く答える。性格も穏やかで生真面目な彼ではあるが。意外と気さくで優しい一面がある。

「新太郎様、では今から行ってもお話はできないわね。出直すとします。侍女達を連れてこなかったから怒っているだろうし」

 すると、新太郎は快く頷いてくれた。

「わかりました。殿にはそうお伝えいたしましょう」

 立ち上がって奥へと歩いていったのであった。




 桜は姉をうらやましく思いながら、自分の部屋へと戻る。侍女のお岩が怒っているだろう。

 ため息が自然とこぼれた。

「姫様、この岩を連れて行かれぬとはどうしてです。大事なお話があったと聞いていましたのに!」

 部屋へ帰って真っ先にお岩が言ったのがこの言葉であった。桜は曖昧に笑いながら、お岩をまあまあとなだめすかした。普段は内気で無口という態度が多いが幼い頃から、母代わりに育ててきた乳母のお岩には笑顔を見せる事もあった。

「…お岩。まあ、落ち着いて。私も詳しくは聞いていないのよ。まだ、父上は武田家からの文を読んでいる途中だそうだから」

「殿様は何を考えておいでなのでしょう。桜様も良いお年頃なのに。未だ、嫁入り先をお決めにならないとは。ただでさえ、斉藤のまむし殿などが岩谷を狙っていると聞いておりますし」

 お岩はすっかり、白くなってしまった髪やしわがある顔や手をわなわなと震わせながらお小言を話し始めた。桜は内心、うんざりとしながらもお岩のお小言が終わるのを待つしかなかった。

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