第11話 生霊

 ぐったりしているのに、なかなか寝むれない。

 カバンから鎮痛剤を出し、1錠を飲み込んだ。水なしで飲んだ薬が、喉の奥に引っ付いている感じがする。

 ネットカフェのドリンクバーへ行くのも、億劫だ。そのうち、胃の中に落ちるだろう。

 眠くなるのを待って、スマホを手に取った。

 子供のころから知る、あの神社は、なんなのか。由来を検索してみたくなった。

 私には、姿の見えなかった、参拝者が気になっていた。

『明暦の大火を体験した事から、消防隊を組織し、神社の「日」を火 に、境内社瑞山を、水に通じるとして、両社に火防の祈願をした』

 火消しの神社なのか。降る雨がありがたくて、昔も今も、参拝していたのだろうか。

 火消しの神社で、蝋燭に火を灯し、夜な夜な神社の杉の木をうろついていた私には、さぞかし苛立っていたのかもしれない。

 左手で持ち見ていたスマホが、右へ飛んだ。

 壁にあたるスマホと一緒に鉄の工具が落ちた。

 私の傍に人がいるとわかった時には、首を絞められていた。

 深く被っている白いヘルメットからはみ出ている髪の毛で、女だということだけがわかる。

 手を解こうと、首を絞める手に爪を立て引き剥がそうと、もがいた。見える範囲の女の服は工事現場の作業員風だ。

 咄嗟のことで抵抗をしたが、これで殺されるのなら、それでいいじゃないか。

 私は、抵抗するのをやめた。

 解こうとした自分の手を放し、体の力を抜く。

 ギリギリと絞めつけてくる女の手。目をつぶっている私の頬に、落ちるものを感じた。

 涙?

 ぽとぽとと落ちてくる涙が、受けた私の頬から耳へ流れていく。

 女は、消えた。

 壁の下には、スマホしかない。





「どうしたの、森ちゃん」

 給湯室で水を飲んでいた。ポットを持っている、楠木さんに声をかけられた。

 コップを持っていた私は、壁際へより、場所をあけた 。

「なんだか喉ばかり乾いて。今日も午前中から暑いですね」

 楠木さんはポットの上蓋を開けて、水道の水を入れている。

「冷たい飲み物もいいけど、温かい物も取ってね。体がバテちゃうから。電気ポットで、お湯を沸かしておくからね」

「ありがとうございます」

 コップの水を飲む私の様子を、楠木さんが見ている。

「その手、どうしたの?」私の両手の甲には、爪で引っかかれたような長い跡が、何本もついていた。

「これ、わからないんです。朝起きたら、こんな跡が手についていて」

「寝ている時にでも、自分で引っ掻いたのかしらね」

 楠木さんが給湯室から出て行った後も、自分の手をみた。

 自分で、こんなに長く強く引っ掻けるものだろうか。

 それにしても、寝たはずなのに、体はだるくて疲れていた。

 昼休み中の今、ドラッグストアへ行って、テーピングを買って傷を隠しておいたほうがいいな。

 車で社外へ出た。

 昼ごはんとテーピングを買いに出かけた。

 夜中に降った雨が、道の隅々に、水たまりを作っていた。

 歩道の人に雨水をかけないように、注意して運転した。

 通りすがりに、自分が担当して、完成した建物が目に入った。

 建物の側に車を停めて、外壁に手をあてた。

 楽しかったな、この現場の仕事。

 この建物が出来上がるまでの苦労も、今では良い思い出だ。

 建物を眺めながら、一周し、停めていた車に戻った。

 ここで、スマホを出して、昨夜見た画像を、もう一度見る。

 憎しみが湧く。

 一時の感情なのか。

 仕事の楽しさと元旦那に対する憎しみを、心の中の天秤に乗せ計るが、重く下へ下がるのは、元旦那への憎しみだ。

 こんな事、時が経てば解決するのかもしれないけれど、それには途方もなく長い年月が必要だと思える。それ程、元旦那が許せない。

 こんな気持ちを抱いたまま仕事を続け、ミスなどをおこしてしまっては、取り返しのつかない職種の一つでもある。心が乱れる自分では、何か失敗を、起こしかねない。

 そんな事は嫌だ。私のプライドが許さない。

 買い物を済ませて会社へ戻ると、社内に居る人たちと楽しく会話しながら、買ってきた弁当を食べた。

 この人たちと話しが出来るのも、今日が最後だ。

 皆んなと過ごす昼休憩でも、重い鉛を飲み込んだような、自分の心は暗い。作り笑いをする、自分が虚しい。良い方向へとは、決して気持ちは、いかないだろう。

 午後の仕事を終わらせると、机にいた上司の傍へ行き、退職願いを提出した。

 いつも苦虫を噛み潰したような、この顔を見るのも、今日が最後かと思えば、少しだけ寂しい気持ちもある。

「朝に森ちゃんからの気持ちは聞いてはいたが、やはり気持ちは変わらなかったのだね」

「はい。すみません。大変お世話になりました」

 深々と頭を下げた。

「体の調子が悪いと言っていたが、良くなったら、復職してくれよ。待っているからな」

 優しい言葉が、ありがたかった。

「ありがとうございます。私のために、遅い時間まで、会社に残って頂き、すいませんでした」

「いいのだよ。退職を知って、社員たちに見送られて、去りたくないって言う君の気持ちも分かるから。森ちゃんは、社内でも人気者だったし、新人を何人も優秀な現場監督に育ててくれた」

 泣かないように堪えてはいたが、無理だった。

「今日の今日での退職願いを受理して頂いて、ありがとうございました」

 会社の倉庫から持って来ていた段ボールに、私物を投げ入れると、上司に見送られて、長年勤めていた会社を後にした。

 マンションの自宅へ入り、静かに段ボール箱を床に置く。長年に渡り使ってきた仕事道具には愛着がある。

 この仕事道具が、家にあるなんて寂しさで、また涙が出る。

 寝室のクローゼットを開けて、奥へ段ボールを押して、上からシーツを被せた。

 着替えもせずにダイニングテーブルへ行き、ワインをコップへ注ぐと一気に飲み干した。

 全部失ったね。

 だけど、全部、私の選択だ。

 またワインをコップへ注ぎ、一口飲んで、持っていたコップを冷蔵庫へ投げつけた。

 飛び散ったワインと、割れたカップ。

 小気味がいい。

 これも、私の選択。

 全てのものは、壊れてしまえ。

 探偵事務所から買った音声をスマホで流し、聴きたいところまで、早送りする。

『裕子と一度だけドライブしたんだ。俺、中学生の頃から裕子のことが好きで。高校は裕子とは別になってしまったけど、いつも裕子の事は…心の中には、ずっと裕子がいた』

 もう一度、その部分だけを再生して聴いた。

 私を馬鹿にしてる。

 許せない。

 ワインの瓶を掴み、そのまま飲んだ。

 口の端からワインが溢れる。左手でそれを拭った。

 あんなに愛したのに。家事だって努力した。

 結婚して過ごした日々、2人の多くの思い出は、どこへ行ってしまったのか。

「私の時間を、私の過去を返してよ!」

 誰も居ない部屋で、絶叫した。

 堪えきれない怒りで、ワインの瓶もキッチンへ投げつけた。





 ネットカフェで寝込んでいる。

 体調がまだ悪いけど、熱は下がったようだ。

 ネットカフェで、また24時間分の追加料金を支払い、星が見えている外へ出てホッとした。

 白装束も、オーバーオールも、まだ湿っぽく、走らせるスクーターで受ける風が体を冷やす。

 何か温かい物が食べたい。

 コンビニへ入ると、カップ麺とタバコを買い、コンビニに設置してある電気ポットからカップ麺へお湯を入れた。

 狭いけどイートインスペースが有って、ありがたい。

 カップ麺の蓋には、待ち時間が3分と表示されていたが、ちょっとだけ待って直ぐに食べた。麺は少し硬いが、箸でほぐせる。

 浮いている小さなエビ、死骸だ。虫みたい。玉子は、ヒヨコに成れなかった死骸。肉は、何の肉なのか。

 汁も全部飲み干し、カラになった容器を、ゴミ箱に捨てた。

 コンビニから出て、スクーターに跨り、晴れた夜空に瞬く星を見る。太陽より、星が好き。どのくらいの人間が、今、夜空を眺めているのか。多分、太陽を見るよりも、少ないだろうか。空中へ上がって行くタバコの煙り。

 体調不良で、タバコを吸うと、頭がクラクラとする。

 人も死んだら、煙りとなって空へ上がる。今夜のように、瞬く星空へ向かっていく煙りになりたいものだ。誰かが、そうしてくれないかな。でも、無理な話しだろう。

 スマホで時間を確認して、神社へ向かった。

 目的地に到着すると、スクーターに跨がったまま、カバンに入っている白粉と口紅を塗った。明るい夜空で、コンパクトの鏡もなんとか見える。化粧品をカバンへしまっていたら背後から首を絞められた。

 まただ。

 私は抗った。

 このままでは、儀式が出来ない。いや、このまま逝けばいいのか。

 抵抗はせずに、首を絞められる苦しみに、ただ喘いだ。

 首を絞めてくる相手から「殺してやる」女がいった。嗚咽混じりの声で。

 女に、されるがままにする。

 首を吊ったら、こんなだろうか。

 気が遠くなり、私は土の上に倒れ、うつ伏せになった。

 女は、また消えた。

 息を何度も吸い、痛む自分の首を触る。

 皮膚がベタベタしていて、アルコールの匂いがしていた。その匂いで吐き気がして、その場で吐いた。

 這うように神社へ行き、儀式の準備を整える。

 震えている手では力が入らず、両手で金槌を持ち、藁人形に刺さる五寸釘を打った。

「高橋裕子死ね!」

 待っていたように、獣臭のする黒い靄が現れた。

 林立する杉の木の間で渦巻き、木から木へと蛇行し、見えなくなった。







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