第9話 淋しい

 ビジネスホテルをチェックアウトした。

 汚れたカーキ色のジャンパーとジーンズを洗うために、コインランドリーへ向かった。

 夜までには、スクーターのテールランプも修理しなくてはいけない。

 外は気温が低くて、スクーターで走っていると、腹部がだんだんと冷えてくる。

 新しく建てられた、大型のコインランドリーへ到着して、中へ入る前に、スクーターに乗ったまま一服した。

 タバコの煙りが上がる空を見ると、今にでも雨が降り出しそうな、曇り空だ。

 降るなら、今にしてもらいたい。

 できれば、夜間は晴れてほしい。

 ぐるりと一周、曇り空を眺めたが、曇り空の切れ目からは、太陽の光は、みつけられなかった。

 紺色のジャンパーポケットから携帯灰皿を出そうと手を入れると、冷たい物が指に触れた。

 そうだった。

 お爺さんの目、入れていたんだ。

 コインランドリーの横にある自販機で、ボトルコーヒーを買うと、またスクーターに跨がった。

 辺りに人がいないことを確認してから、左手のひらに、眼球を乗せた。

 コーヒーのキャップを外して、左手のひらにコーヒーをかけた。

 コーヒーで濡れたお爺さんの目を口へ入れた。

 豆腐のように柔らかい物かと想像していたが、硬い。

 舌触りは、お菓子の硬めのグミって感じだ。

 口の中で転がしてみたけど、コーヒーの味しかしないから、噛んでみる 。

 硬くてツルんと歯から逃げる。何度か歯をあてているうちに、潰れた。

 口の中にコーヒーとは違う味、苦みとしょっぱさが舌の上に広がる。

 こんな物かと、落胆する自分が悲しかった。

 普通は食べないよね。

 でも、食べてみたかったのだから、しょうがない。

 コーヒーを片手に持ち、リュックを背負い、コインランドリーへ入った。

 中央に置かれた、大きなテーブルの上に、乾燥させた洗濯物を、畳んでいる人以外は、誰もいない。

 リュックの中から衣類をだし、ドラム式の洗濯機へ投げ入れた。

 空いているイスに座り、外を眺める。

 真子に会いたいと思う。

 真子の部屋へ行きたいとも思う。

 真子と食事がしたかった。

 ぱっと花が咲いた様な、真子が見せる笑顔を思い出して、涙が滲む。

 もう、会えないだろう。

 私は、以前の裕子とは違ってしまった。

 こんな自分を、真子の前に、姿を出すわけにはいかない。

 溢れた涙が、顎から落ちた。

 ビジネスホテルなどに独りで泊まったのは、よくなかった。

 自分のアパートの部屋でもない場所で静かに時を過ごすと、淋しさが募ってしまう。

 テーブルの上で、洗濯物を畳んでいた人は、コインランドリーから出て行き、車に乗ると走り去って行った。

 また、独りだね。

 でも、こんな気持ちを感じて入られるのも

 今週で終わるだろう。

 これ以上泣かないために、左の二の腕を、右手の爪で強くつまんだ。

 コインランドリーのドアが開き、大きな袋を持った、背の高い男性が入ってきた。ウエーブのかかった長い髪だけど、おでこを出し、その上にヘアーゴムで結んでいる。まるで頭部に、小さな揺れるアンテナでも、付けているかのようだ。

 青色のテロテロした生地のアロハシャツが、切れ長の目で細面の顔の男性に、良く似合っている。緩いジーンズを履いてはいるけど、痩せている体型は、わかる。

 切れ長の瞳が私を見ると、細い眉毛の間に縦ジワがよった。

「きみ、凄いのしょっているねー」

 何をいわれたのか、私はわからない。

 男性は、洗濯を始めると、私から斜め対面の椅子に座って、また私を見ている。

「それ以上、怪しい場所へ近寄らないほうがいいよ。手遅れになりそう」

 私の背後を見て、話している。

 この人に、何が見えているのか、興味があった。

「私、どうなっているのですか」

 男性は静かに首を振る。

「初めて見る。こんなの」

 男性の目線が私の背後から、私の目に移った。

「何をしたら、こうなるわけ?」

 丑三つ詣での事は、もちろん言いたくはないが、私の背後に視えるという者を、自分で隠せることも出来ない。

「職場は長いこと病院だけど、関係あるかな」

 男性は自分の顎先を右手で触りながら、私の後ろをまた視ている。

「病院にいるとは、思えないけど」

 腕組みをしてから、私の顔を悲しそうな目で見た。

 あの杉の木に、ぶら下がっていた、女性でも視えているのだろうか。

「キミね、汚れた底なし沼に腰まで浸かっているよ。キミ中心に、沼の泥が回っている。それに、その上に相反するものが飛び交ってキミに危害を加えようとしているけど、泥の力でたいしてキミを攻撃出来ないでいる。どちらにしても、よくない者がくっついている」

 私は、底なし沼に浸かっているのか。

 男性の説明に、なんだか納得がいった。

「泥沼に完全にめり込む前に、その場所から離れたほうがいい」

 私はペットボトルのコーヒーを飲みながら、男性を見た。

 沼は、呪物のことだろうか。

 相反するものは、幽霊か。

 この人、本当に視えるのね。

 ペットボトルのキャップを閉め「凄い力を持っているのね」

 私の使用中の洗濯機が、止まる音がした。

 取り出した服を乾燥機へ入れると、また椅子に戻った。

「辛い事がたくさんあった感じだよね。オレと同じ匂いをキミから感じるよ」

「辛いことなんて、もう、今更って思っているわ」

「前向きじゃん。なのに変なもの背負っているよな」

 私の洗濯物が乾き、テーブルの上に乗せて、小さく畳んでいく。

 リュックに洗濯した服を入れていると「これから、どうするの?」

 男性がきいてきた。

「スクーターのテールランプが切れているから、修理してくる」

「ああ、あれ?」

 コインランドリーの窓ガラスから見えている、私のスクーターに男性は指差した。

「スクーターのテールランプの電球交換なら簡単だよ。オレがやってあげるよ」

「え、いいの?」

「いいよ。オレの洗濯物を乾燥機に入れて、乾いた服を畳んでくれるのが交換条件だけど」

 そんなことくらいならば、私にも出来る。

 男性はコインランドリーから外に出た。

 私もその後をついて行く。

 男性は自分の車から工具を出して、プラスドライバーを選び取っている。

 開けられた車のドアから車内を見ると、ゴチャゴチャと物は置かれてなくスッキリとしていた。

 これでは、この人の洗濯物はキレイにピシッと畳まなくてはいけないかもしれないな。

「かっこいい車ね」

 黒い色の車は、車高が低くて、曇り空にもかかわらずピカピカと光っている。

 男性はにやけていた。「この車は、オレの生き甲斐の1つだよ。まだローンも残っているけど、借金も身のうちってことでさ。こいつのために、仕事して、こいつに上手いハイオクガソリン食わせて、こいつに乗る時は音楽とか聴かないで、エンジンの音だけ聞いてドライブするのが、堪らなく好きだな」

 生き甲斐か。

 私は自分のスクーターを見た。思うことは、ただの移動手段だ。

 男性は、スクーターのテールランプの後ろにしゃがんで、ドライバーでカバーに付いたネジを外している。

 線に繋がれた電球をソケットから引き抜くと「ホームセンターに行ってくるね。じゃ、洗濯物をよろしく」

 車にエンジンをかけると、確かにかっこいい音がする。

 車も、喜んでいるように車道へ出て行った。

 コインランドリーへ入り、男性の洗濯物を乾燥機に入れているうちに、黒い車は戻って来た。

 私は、外へ出る。

「ホームセンターの自動車部品売り場にまで行かなくても、ガソリンスタンドに、同じ型の電球があったよ」

 男性はまた工具箱を開けて、スプレー缶を出した。

「なに、それ」

「接着効果がある、スプレー」

 スプレーしてから、買って来てくれた電球をソケットへ入れて「スクーターのスイッチ入れて、ブレーキ掴んでみて」

 言われた通りに行った。

「うん、ちゃんと点灯した」

 男性はカバーを元の位置へ嵌め込むと、ネジをドライバーで回し止めた。

「これで、良し」

「バイクにも詳しいの?」

「高校生の頃は、乗ってたからね」車に入っていた除菌ウエットシートで自分の両手を拭きながら答えた。

「オレの洗濯物は、どんな具合かな?」

 2人でコインランドリーに入る。

 乾燥終了は、もうすぐだ。

「洗濯するのはいいのだけど、畳むのがイヤなんだよねぇ」

 来た時と同じ椅子に座っている。

「お礼に、洗濯物を畳ませて貰いますから」

 私の言葉を聞いて、男性はニッコリとした。

 テーブルに乗せた服を、男性が持って来た大きなカバンに畳み、しまっていく。

 じっと見られていて、なんだか畳みにくい。

「ねぇ、なんで、髪の毛が、右へ流れて跳ねているの?」

「ただの寝癖です。見たらわかるでしょ」

 ヘアードライヤーも使用しないで寝るから、こんな寝癖は私にとっては珍しくもない。

「あのさ、髪の毛、結ばせて」

「え?」

 男性は、自分の頭の上に付けているヘアーゴムを取ると私のそばへきた。

 男性のアンテナの様に立っていた前髪が、左側に垂れていた。

 ヘアーゴムを2個使って、前髪アンテナを作っていたのか。

 近寄って来る男性を見ていたら「大丈夫、割とキレイなヘアーゴムだから」

 男性の手が、私の後頭部の髪の毛を、左右に分けている。手際がよくて、違和感がない。

「洗濯物畳むの続けていても大丈夫だよ。キミの髪の毛を、編み込みするだけだから。オレ、美容師なんだ」

 なるほどと思う。

 洗濯物畳みは、終了したけど、男性はまだ私の髪の毛を掴んでいた。

 ピンを差し込まれる様子がわかる。

 男性は、自分のスマホカバーについている小型の鏡に私を映し「どう」と聞く。

「ありがとう。いい感じ」両頬に垂らした1筋の髪の毛。それ以外はキレイな形に三つ編みされて後頭部で1つに纏められているようだ。

「かわいい飾りの付いた指しピンでもあれば、盛ってあげて、もっと可愛くしてあげられたけどね」

 ガラにもなく、私はてれたし、頬が勝手に赤らんだ。

 私の表情を見て「なんだ、ちゃんと普通の女性じゃない。安心したよ。もう変な所へは近寄らないでよ」

 男性は畳み入れられたカバンを持つと、出口へ向かった。

「ねえ、私の後ろに立って、不気味じゃなかったの」

 男性の背中に問いかける。

「大丈夫そうだから、近寄ったんだよ」

 振り向いた男性が言った。

「以前に働いていた美容室では、お客さんに引っ付いてきているお化けを受け取ってしまう美容師もいたけどね。次の日、体の具合いが悪いから休みますって連絡が来たりしたけど、その人出勤した日には、まだお化けを背負っていたままだったけど」

「どうすれば、お化けは離れてくれるの?」

「美容師についてくるようなお化けは、ほっとけば、どこかへ行く類のものだったから。髪の毛を切りに来たお客さんは、髪もスッキリ、お化けもスッキリ離れて、気分は良かっただろうけどね。お化けなんて、どこにでも、そこいらに、たくさんいるよ。取り憑かれないのが大事」

 私は黙って男性の話しを聞いていた。

「オレ、これからラーメン屋へ行って、ずっと入り浸るけど、気が向いたら来ればいいよ。居心地がいい店なんだ。オレの心の安全地帯って感じだよ」

 男性は、店名と場所を説明して、コインランドリーから去って行った。


 古着屋へ行った。

 洗濯したカーキー色のジャンパーとジーンズを売る。

 査定待ちで、受け渡された番号札が呼ばれるまで、店内の服を物色した。

 女性服売り場の、マネキンが着ているデニムのオーバーオールが気になる。

 店員女性に試着をしたいと告げて、受け取った服を、試着室で着てみた。

 緩ゆる感であり、生地もストレッチ素材で、しゃがんでみても、楽であるところが気に入った。

 この服なら、深夜にスクーターを走らせていても、お腹の冷えは防げそうに思えた。

 レジへそのまま行き「この服を着て帰りたいのですけど」店員にいうと、値札を外してもらい、会計をすませた。

「私、5番の番号札なんですけど、外でタバコ吸ってますから」

「わかりました」女性店員は、査定順番待ちの服に触れて「あと5分くらいかな」と私に言った。

 古着屋の前に停めたスクーターに跨り、タバコを咥えた。

 ふく風に消されて、安物のライターの炎は直ぐ消えてしまう。

 店の外壁の隅に歩き、手で風避けをして、タバコに火をつけた。

 見上げる空は、変わらずに厚い雲に覆われている。

 カッパと大きめの折り畳み傘を準備しておいたほうがいいだろう。

 2本めのタバコを吸い、何か飲みたいと自販機を探しに行こうとスクーターから下りたら、古着屋の女性店員に「5番のかた、お待たせ致しました」と呼ばれた。

 自販機で買いたい物を買えるくらいの現金を受け取った。

 100円ショップで、白粉と口紅を買い、ホームセンターで入り用の商品を買い物したら、もう今日の予定は無い。

 お腹すいたな。

 1日、1食を食べられれば、それで満足だったけど、今日の私の頭に浮かんだのはラーメンだった。

 あの男性がラーメン屋にいるからと言ったときから、熱々の醤油ラーメンが食べたくなっていた。

 K市の、前のアパートに住んでいたころは、インスタントラーメンだったけど、毎晩食べていたほど、ラーメンは好きだった。

 教えてくれたラーメン屋へ行ってみよう。

 車で混み合う道を抜け、小学校が建っている道をスクーターで走ると、ラーメン店は、小学校隣の小道を挟んだ隣りにあった。

 白い看板が店の玄関うえに貼られていて、赤い文字で大きく『父ちゃんラーメン』と書いてある。

 店の玄関の左右には、プランターに植えられた、ピンク色のパンジーが、こんもりと咲いていた。

 広めの店の駐車場なのに、店の入口から一番近い場所に、あの男性の黒い車が駐めてある。

 私はスクーターを、駐車場の奥、フェンスから隣の民家の木の枝葉がはみ出ている下へ駐車した。

 駐車場へ突き出でいる店の換気扇からは、美味しそうな匂いがしていて、空腹の私のお腹は鳴った。

 引き戸を開けると「いらっしゃいませ」厨房にいる黒縁の眼鏡をつけているおじさんが元気よく声をかけてくれる。

 カウンター席に座っていた、あの男性も、入ってきた私を見ると「やあ、来たね」と笑顔になった。

「知り合いかい」厨房の店主が、男性に聞いている。

「オレがこの店の宣伝をした、カワイコちゃんだよ」

 店は、男性の他に、お客さんはいなかった。

 テーブル席に座ろうと椅子を引く。

「こっちへ座んなさいよ」男性が、カウンター席のテーブルを叩く。

 1つ席を離して、隣りに腰掛け「醤油ラーメン1つお願いします」

「あいよっ」

「メニューも見ずに、決断が早いな」

 面白そうな表情を浮かべた男性がいう。

 店内にトイレと書かれた矢印が貼ってある柱のそばの階段から、手すりを掴みながら、小さな女の子が下りて来た。

 片手には、お菓子の缶と本を抱えている。

「ピロたん、この髪にして」

「ののは、今日は、この髪型か」

 私とピロたんと呼ばれた男性の間の椅子に、女の子は上がり座ろうとしていたが、ピロたんが女の子の両脇に手を入れて、椅子の上にすわらせた。

 ののと言う名前の女の子は、持っているお菓子の缶を開けると「これとこれ」小さな指で赤いリボンが付いた白猫のヘアーゴムをテーブルへ出した。

 ピロたんは、ののちゃんを私のほうへむけると、両耳上に三つ編みを作っている。

 愛らしい女の子。

 大きな目を縁取る睫毛は長く、可愛く整っている鼻と、ピンク色の唇。

「ののちゃんは、何歳かな」私は笑顔で聞いた。

 ののちゃんは、小さく短い指を3本立てた。

「この頃が一番いいよな。現実と夢も一緒でさ」ピロたんがいう。

 自分が3歳だった頃の記憶など、思いだせもしないけど。

 幸せだったのか、不幸だったのかも。

 でも、目の前の、ののちゃんは、幸せそうに見えた。

「お姉ちゃん、だれ?」

 ののちゃんが、私に聞いた。

 ののちゃんの後ろに座る、ピロたんが吹き出していた。

「良かったな。お姉ちゃんて言ってもらえて」

 本当だ。

 もう、おばさんって言われてもいい年齢なのだから。

「名前は、高橋裕子って言うのよ。ののちゃん。よろしくね」

 両耳に結ぶ三つ編みを、団子状に纏められたののちゃんが「たかはちゆーこ?」と聞き返すと、背後にいたピロたんが「ののちゃん、このお姉ちゃんの名前はね、ゆーちゃんっ言うんだよ。さあ、髪の毛、出来たぞー」

 ののちゃんは、両手で耳上の髪の毛を触り、笑顔になっている。

「はい、お待ちどう」

 店主が、厨房からカウンター席の棚に、ラーメンが乗っているトレイを置いた。

 トレイを両手で掴んで、自分の目の前に置く。

 光るスープと麺、メンマとナルトと海苔が入っている。

 レンゲでスープを飲み「美味しい」と言葉が口から出た。

 勢い良く、麺を啜っていると「いい食べっぷりだなぁ」ピロたんが茶化してきたが無視をして、食べるのを止めなかった。

 残りのスープに、シワシワになっている海苔を箸で掴んでいたら、玄関のドアが開いた。

「ただいまー」

 ののちゃんのお母さんだと直ぐにわかる女性が店内に入ってきた。

 ののちゃんの様に大きな瞳に長い睫毛。

 見惚れてしまう程、かなりの美人だ。なのに、首元から鎖骨にかけて、顔に似合わない火傷で引き攣れた皮膚があった。

 女性は私に「いらっしゃいませ」と笑顔で挨拶するとピロたんに「何時もすいません。のの、相手してもらって。これ買って来たの、食べて頂戴」スナック菓子を数袋、ピロたんの前に置いた。

「なーに、相手してもらっているのは、ピロのほうだよな」厨房にいる店主が言う。

「ヒデさん、それ図星ー。ヒデさんとラーメンとののちゃんがオレの癒やしだもの」

「癒やしなのか。それにしては、ピロのために朝昼晩と賄い料理作らせられて、酒を呑めば座敷席で寝られて、困ったモンだよ」ヒデさんと呼ばれる店主は、言うほど、困った顔はしていない。

「ラーメン、凄いおいしかったです。お勘定、お願いします」

「あいよ、780円だよ」

 カバンから財布を出す私にピロさんが「おいおい、ちょっと待て」と片手を私の財布に伸ばし、顔はヒデさんを見ている。

「ヒデさんの夕飯、賄い料理を食わないと損だぞ」

 私は、厨房にいるヒデさんの顔を見た。

 ヒデさんは眉毛を上へ上げて「ゆーちゃんがいいなら、ゆっくりして行きな。ピロは淋しがり屋だからな」そう言って笑った。

 夕方が近くなるに連れて、ラーメン屋は混んで来た。

 タバコを吸うために、外に出ていたが、店内を見ると、私が座っていた席にも、新たなお客さんが座っていたので、また店の外にいることにした。

 ピロさんが外に出て来て「オレの車の椅子に座って。この店の外席みたいなもんだよ。混んできたら、車の椅子へ移動だね」

 ピロさんの車の助手席に座らせてもらった。

 車高の低い車に乗るのは初めてで、屈むような感覚で乗り込んだ。

 運転席に座っているピロさんは、手に折り紙を持っている。

 車のシートを倒し、胸の上に、持ってきた折り紙を器用に折っている。

「ののちゃんの?」

「そう。ウサギとカメを作ってー、だって」ピロさんは、笑った。

「ゆーちゃんも、折り紙のその本見て、木とか花とか折ってくれると、ののが喜ぶよ」

 車のダッシュボードに置いてある『動物折り紙』と表示されている本をめくっていくと、最後のほうのページには、植物の折り方が図解入りで載っている。

 ピロさんは、白い折り紙でウサギを折りあげ、緑色の折り紙で亀を作り始める。

「本を見なくても、折れるのね」

 ピロさんの大きな手と長い指は、緑の紙を、だんだんとカメの形にしていく。

「オレ、昔は幼稚園で仕事してたんだよ。子供が好きで、仕事は楽しかった。幼稚園の広場で駆け回る子供たちを見ていると、元気も貰えたし」

 私は、折り紙の本を見ても、木も花も折れそうになかったから、折り方を知っている鶴を折った。

「なぜ、幼稚園の仕事を辞めちゃったの」

 白い折り紙を選ぶと、ピロさんに聞いた。

「園児の親御さんからクレームが来たんだ。オレが園児を睨みつけているとか、保護者に対しての態度が悪いとか」

 私は鶴を折る手を止めて、ピロさんの顔を見る。

 悲しげな顔になっていた。

「園児にも、親御さんにも、睨みつけた事なんて、一度もないよ。だけど、オレの顔の造りは他人からは、そう見えてしまうんだな。オレの心の中は、絵本やおもちゃで満たされていたけど、この顔では、悪人に見えてしまうらしい」

 カメも折り上げて、車のダッシュボードへ置くとピロさんは、私をみた。

「ゆーちゃんみたいな優しそうで、可愛い顔が羨ましいよ」

「ピロさんは、悪人の顔には、私には見えないけど」

「そう?ありがとう」

 今度は赤い紙を選び、折り紙の本を見ながら、花を折り始めている。

「テレビドラマとか、映画とか観ると、悪役はだいたい、ツリ目だったり強面だったりするよね。それと同じなんだよ。人間は見た目が重要なんだ。辞めたくはなかったけど、幼稚園の評判が悪くなったら困るから、退職したけどね」

 黙ってピロさんの話しを聞いていた。

 私の手から、折りかけの鶴を取ると、残りを折っている。

「人の見た目で、人は相手が気に入る。顔が可愛ければ、性格もそうだと思えたりする」

 バカな話しだと思った。

「ピロさんをコインランドリーで初めて見た時は、チャラい人には見えたけど、悪人顔には見えなかったよ。このラーメン店で、ピロさんの様子を見てたら、優しい人だって短時間でわかったし」

 ピロさんは茶色の折り紙をとり、折り始めている。

 木を作るのだなと思った。

「ピロさんに可愛いと言って貰えた私だけど、根暗だし、根に持つ性格で、全然性格は良く無いよ」

 ピロさんは吹き出して、笑った。

「自分を分析出来ているなんて、凄いじゃないの。本当に性格の悪くヤツは、自分のことなんて、そんな風に考えもしないさ」

「そうかな」

「そうだよ。ゆーちゃんは、見た目も性格もいい子だよ。自分に自身を持てよ」

 ピロさんからの優しい言葉で、涙が出そうになった。

 それを誤魔化すように「美容師になったのは、なぜ」と急いで聞いてみた。

「オレの親が、その仕事をしてたって事もあるけど、美容師の仕事だと、お客さんは、だいたい雑誌を見てたり、シャンプーの時は目をつぶっているし、オレの容姿で、どうこう言って来た人もいないし。それに、美容師の仕事も自分には合っていたし。いつかは、ののちゃんの花嫁姿のヘアーメイクをしてあげたいな」

 ピロさんには、生き甲斐があり、楽しいと思える仕事もあり、優しい夢もある。

 私には、何もなかった。

「ののちゃんのお母さんは凄い美人だから、ののちゃんも、早くに花嫁になりそうね」

「オレ、ののちゃんの花嫁姿を見たら、ヒデさんと一緒に号泣するだろうな」

 その言葉を聞いて、それを想像して、笑ってしまった。

 ピロさんも笑っている。

「典子さんさー、あ、ののちゃんのお母さんだけど、あんな美貌なのに、結婚した男が暴力野郎のヤツで、典子さん、ヤツから熱湯をかけられた火傷は今も残っていて、可哀想だよな」

 そうだったのか。

 許せない人間だ。

 私はピロさんの話しに頷いた。

「ヒデさんの所へ戻ってきた典子さんの姿を見て、ヒデさんは翌日離婚届を用意して、典子さんが住んでいた家で旦那の帰宅するのを待ち構えて、帰って来た旦那を殴りつけて、沸騰した湯が入ったヤカンの湯を旦那の首にぶっかけてさ、その場で離婚届を書かせたんだって。オレはその話しを聞いて、一生ヒデさんに付いて行こうと思ったよ」

 厨房に立っていた優しそうなヒデさんの姿からは、想像も出来ない話しだ。

「ヒデさん、ケンカが強そうに見えない」

「そうだろう?でもああ見えても、学生の頃から柔道をやっていて、今も定期的に、柔道の稽古場へは通っているって。人は見かけによらないよな」

 車のダッシュボードの上は、作られた折り紙でいっぱいになっていた。

「ゆーちゃんの趣味は?」

「今は、何もない」

「ふーん、そうなんだ。じゃあ、オレが決めてやるよ」

 ピロさんは折り紙に、ボールペンで何か書き、それを傘みたいな形に折ると、両手の親指と人差し指を入れて「たかはしゆうこ」言葉と一緒に、折り紙をパカパカ動かした。

 名前で止まった折り紙の中身には、番号が書いてある。

「ゆーちゃん、この中から、好きな番号を選らんで」

「じゃあ、1番かな」

 ピロさんが、1と書かれた紙をめくると、私に見せた。

「バイク?」

「ゆーちゃんの趣味は、バイクに決定。もっと大きいバイクに乗って、オレを後ろへ乗せて、景色がいい所へ連れて行ってくれよ」

 バイクを趣味にするか。

 考えたこともなかったけど、大きなバイクには、乗ってみたいと思ったことはあった。

「他には、なんて書いてあるの?」

 ピロさんの指から折り紙を取ると、違う番号も全部見てみた。

「どの番号にも、バイクしか書いてないじゃない」

 ピロさんは、ギャハハと笑い、私もつられて笑った。


 ラストオーダーのお客さんが帰ると、厨房だけ明りを残して店は暗くなった。

 私もカウンター席で、賄い料理を頂く。

 焼豚が、丼ぶりのご飯の上にのせられていて、刻んだネギに白ゴマが付いている。甘辛く煮付けた肉が美味しい。

 ワンタンの入ったスープには、卵が混ぜられている。

「ヒデさん、上手いよ。今日の賄い料理も。なぁ、ゆーちゃん」

「本当に美味しいです」

「ピロはソレが好きだものなぁ。ゆーちゃん、ピロはこの店に来た当時は絶望したような顔をしたヤツだったけど、大分変わったよ。人間、ちゃんと食べて、ちゃんと寝れば変わって行けるな」

「でーす」ピロさんは相槌を言った。

「ピロ、渡してある店の鍵は持っているよな?」

「あるよ。ちゃんと鍵しめて帰りますから」

 ヒデさんは頷いて、2階の階段を上って行った。

「ゆーちゃん、食ったか?オレ食器洗うからさ」

 ピロさんが厨房へ入り、皿を洗っていると、パジャマに着替えたののちゃんが階段から下りてきた。

「ピロたん、絵本読んでー」

 典子さんが小さなタオルケットを持って、座敷席に上がるののちゃんの側に置いた。

「ピロさん、いつもすいませんね。のの、ピロさんと寝ると言うものですから」

「オッケーですよ」

「眠ってしまったら、タオルケットかけておいて下さい」

「わかりました」

 ピロさんとののちゃんは、座敷席で寝転がっている。

「ののちゃん、はい、折り紙は出来ているよ」

「カメー、ウサギー」小さな指で、出来上がった折り紙を持ち、嬉しそうに名前を呼んでいた。

「これ、なーに?」

 ピロさんは折り畳まれた鶴の羽を広げて、鶴の真ん中に空気をいれると「パタパタ、あーののちゃんだ。私、鶴って言う鳥なの。ののちゃんお友達になってねー」

「うん!」

 ののちゃんは手に折り紙を持ち、ピロさんの腕枕に頭を乗せると、自分の頭をピロさんにくっつけて、読んでくれている本を見ている。

「ゆーちゃんも、こっちへおいで」

 ピロさんが、カウンター席にいる、私を呼んだ。

「ゆーちゃんも、きてぇ」ののちゃんに呼ばれて、私も座敷席へ上がって座った。

「なーにしてんの、ピロ先生の読み聞かせは、ここで聞くんだよ」

 腕枕になったいた手のひらの指を動かしている。

「ゆーちゃん、ののの、うしろ」

 また、ののちゃんに言われる。

 私はおずおずと、ののちゃんの隣りに寝た。

「桃太郎。おじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは川へ洗濯にいきました」

 ゆっくりと優しい声で、ピロさんの朗読は続く。

 絵本の下を持つ、大きな手と長い指で、絵本のページを器用にめくる。

 2冊目の金太郎を読んでいる辺りで、ののちゃんの寝息が聞こえる。

 その寝息と、ののちゃんから香るシャンプーの匂いで、私も眠くなり、ののちゃんの背中に少し頬をあて、そのまま眠りに落ちた。


 トイレへ行きたくなり、目が覚めた。

 そっと起き上がり、そばで寝ている2人を起こさないように静かにトイレへ行く。

 戻って来て、座敷席に寄ると、自分のカバンを持ち、静かに店のドアを開けて、閉めた。

 店の外にある換気扇の辺りまで歩くと、いつの間に出て来たのか、ピロさんが私の背後にいた。

「ゆーちゃん、どこに行くの」

「家に帰るわ」

 ピロさんは店の壁に私を押しつけると「怪しい場所へは、もう絶対に行くなよ。約束してくれ」私の目を見つめていう。

「行かないよ…」

 ピロさんは壁に両手をついて、手の中に挟まれた私に軽くキスをした。

「イヤだった?」

「イヤじゃない」

 ピロさんは、さっきとは違う強くて長いキスをする。

「ゆーちゃんが、心配だよ。本当に、怪しい場所へは行かないでくれよ」

 私は下を見て、頷いた。涙が出たから。

 そんな私を、ピロさんは抱きしめた。

「この店にね、夜はほぼいるから、また会いに来てほしい」

 私を少し離し、ピロさんは、顔を見てくる。

 私は、小さく頷いた。


 スクーターを走らせる。

 私は泣いていた。

 戻れない場所をまた作ってしまうのか。


 M駅のトイレの個室でオーバーオールの中に白装束を着た。

 トイレの個室から出て手洗い場の鏡を見ながら白粉をつけていく。

 流れ落ちる涙が、塗った白粉に何本もの筋をつけていく。

 嗚咽を堪えるために、震えている唇に赤い口紅を塗った。

 マスクを顔へつけると、停めたスクーターに乗り、神社へ向かう。

 2時を少し過ぎた辺りだ。

 手慣れてしまった儀式の準備には、時間はかからない。

 金槌を振り上げ、藁人形に振り下ろす。

「高橋裕子死ね!」

また匂う獣臭。

黒い靄が現れて、私を取り囲み、靄よりは薄い、夜の暗さに消えていく。




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