第8話 困る
昨日というか、今日というのか、とにかく疲れた。
カバンを放り投げ、 敷きっぱなしの布団へ横たわった。
体はくたくただけど、頭の中が冴えていて、すぐに入眠とはいかない。
静まりかえっている、アパートの部屋。
時々パキ、トンと、部屋の中で音が鳴る度に、瞑っていた目を薄っすらと開けてしまう。
古いアパートだからか。
家鳴りが多い。
ピチャ、ピチャ、ピチャと、窓外から水が落ちる音も聞こえる。
雨になるのかな。
雨か。
いろいろ対策も、考えなければいけないな。
また閉じた目のままで、頭の中であれこれ考えていた。
コンコン。
窓ガラスが叩かれている。
こんな深夜に誰?
ピチャ。
また水が落ちる音がする。
コンコンコンコン。
窓ガラスを叩く音が、増えている。
カーテンの変わりにつけている、2枚の簾と簾の間から、私を見ている眼があった。
平屋建てで、2つしかないアパートだが、1階の部屋の怖さは、コレである。
他人に、覗かれやすいのは、カーテンをつけない自分の落ち度だ。
外から見ている眼は、瞬きもせずに、ジッと私を見ている。
寝返りをうって、窓から目を背けた。
だけど、掃き出しの窓辺からは、あの匂いがすることに気がついた。
職場の病院の霊安室で嗅いだ、あの匂い。
では、外に居る者は死者なのか。
コンコン。
いつまで、窓を叩くの。
恐怖と好奇心を抱き、布団から這い出ると、
恐る恐る、窓に下がる簾を少しよけ、外を見た。
誰もいない。
そう思ったとき、ピチャ。
水音が、左から聞こえた。
窓ガラスに顔を押し付けるようにして、左を見ると、お爺さんが隣りのアパートの掃き出しの窓前に立っていた。
ゆっくりと私のほうへ首を動かし、私と目を合わせた。
外せない視線のまま、見つめていると、右腕を少し上げ、力無く折れ曲がっている人差し指で、2回部屋を指差し、部屋の中へスーッと消えていく。
私は、窓ガラスの鍵を開け、裸足で外へ出ると、躊躇いながらも少し歩き、隣りのアパートの窓ガラスの前に立った。
私の部屋と同じように、西陽避けに、内側から2枚の簾が下がってはいたが、1枚の簾は中央で丸め、止められている。
まだ朝日の登らないこの時間帯では、内の様子がよく見えず、伝わってくる不気味さが背中を押し、自分の部屋に戻ろうと思った。
背後で、カチッと音が聞こえ、閉めてあった鍵が下ろされ窓が音も無く少し開いた。
息を吸うのも、嫌なほど、色んな腐臭が流れでた。
自分の部屋へ戻り、スマホを持つと、開いた窓辺から隣りのアパートへ入る。
スマホの明かりで、室内を見渡すと、お婆さんが畳の上で、壁に顔を向けて横たわっていた。
死んでいるのか。
ベタつく畳の上を歩き、お婆さんのそばに行き「すいません、お婆さん?」声をかけた。
返事はない。
お婆さんの背中に触れてみると、温かさがある。
生きている人だ。
背中を触ったためか、お婆さんがゆっくりと起き上がり、私の方へ顔を向けた。
乱れ汚れきって、束になっている白髪の間から、白く濁った両目と大きめの鼻が見えている。
「しずえっちゃん!?」
お婆さんが、私の肩に手を置いた。
「しずえっちゃん、がっこー終わったの?しずえっちゃん、お父さん、仕事だから、いないんだよぉ」
甲高い声だ。
手を掴まれて、正面に座らせられた。
「あー、もーう、夕飯時かねぇ。お腹が空いたねぇ」
アパートの室内の電気をつけたら良いのか、迷ったが、朝陽が上がるまで、このままにしておこう。
スマホの明りが、黒ずみ汚れで大きなシミばかりの畳を照らす。
畳の汚れが酷いだけに、緑色の畳の縁が目立って見えた。
台所をスマホの明りで照らすと、冷蔵庫は扉が開いていた。
その中には、タッパが何個か入れられているだけだ。
玄関の近くの風呂場から、また違った匂いがする。
真ん中で折れる風呂場のドアを開けると、水色の浴槽内に、お爺さんが浸かっていた。
左に曲がった首で、頭を浴槽のフチへ乗せ、左腕は浴槽の外に出ていた。
死体だ。
どういう死因だったのだろうか。大きく開けた口からは、舌がだらりと出ている。短く切ってある白髪の頭髪の下の額には、深い横ジワがあり、その下にある大きな目はカッと見開き、左の目は落ち、頬に垂れている。
風呂場の青と白の四角いタイルの上を歩き、浴槽内に、自分の手をいれた。
冷たい水ではない。
お爺さんの折りたたんでいる脚は、浮腫んでいた。
私は、浴槽内に付いている鎖を引き、栓を引っ張った。ゴボッゴボっと水が流れていく。
「寒かったでしょ、お爺さん」
後は、どうすることも出来ない。
風呂場から出ると、ドアを閉めた。
部屋へ戻るり、スマホの明かりがテレビ画面に反射した。そのわきからも明りを反射する物がある。
スマホを照らしながら進むと、仏壇だった。
若い女の子の写真が、位牌と一緒に置かれている。
この子が『しずえっちゃん』なのか。
それとも、他に姉妹がいるのか。
「お腹すいたねー」お婆さんはその言葉をずっと繰り返しはじめた。
「お婆さん、私、何か食べ物を買ってくるよ。何が食べたい?」
お婆さんの前に膝まずき、聞く。
「ご飯食べたいねぇ」
「ご飯ね、わかった」
目の前で立ち上がる私の服を、お婆さんが掴んだ。
「しずえっちゃん、もう、がっこーへ行っちゃうの?淋しいねぇ。お父さんは、仕事だよぉ」
掴まれた指を優しく離し「直ぐに、お婆さんの所へ戻って来るから安心して」
しゃがんでお婆さんに話すと、白く濁った両目からは、涙が溢れていた。
私は急ぎ、自分の部屋へ戻ると、カバンをつかみ、玄関から外へ出た。
この時間では、コンビニか、24時間営業のスーパーへ行くしかなかったけど、アパートの近くにあるコンビニへ走って行った。
ドアを開けると独自の音が鳴るコンビニに入ると、現実世界に引き戻させる。
緑色のカゴの取っ手を持ち、お茶、お弁当、アンパン、煎餅、大福餅と様々な食品を選び、会計を済ませると走ってお婆さんの元へ行った。
汚い畳の上に置かれた、茶色の丸テーブルに買ってきた食べ物を袋から出して並べる。
「お婆さん、ご飯だよ」
弁当を包んでいるラップを剥がすと、割り箸を、お婆さんに持たせた。お婆さんは、箸を使わずに手づかみで米を口にいれる。
箸はダメか。
この部屋に、スプーンはないのか。
流しへ行き、置かれたマグカップに縦られているスプーンをみつけて、お婆さんに持たせた。
今度はちゃんとスプーンで、弁当を食べている。
テーブルに並べた大福餅を見て思った。喉にでも詰まったら、私の責任だわ。
大福が入っているビニール袋を開けて、自分で食べた。
「お婆さん、ご飯、美味しいね」
お婆さんは返事もせずに、黙々と食べている。
大福餅を5個食べたところで、睡魔が来た。
畳の上に仰向けになり、開けていられなくなった瞼をとじた。
寝入る前に、如何かしていると自分で自分の行動を思い口元が緩む。
勝てない睡魔のせいなのか、この部屋は居心地が悪くない気がした。
むし暑さで、目が覚める。
畳の上から起き上がり、そばを見るとお婆さんが、いびきをかいて寝ている。
これから、どうしよう。
困ったな。
風呂場へ行き、ドアを開けて、浴槽内にいるお爺さんに話しかける。
「お爺さん、お婆さんは、保護してもらったほうがいいよね。それを私に、伝えたかったのでしょ?」
お爺さんが、答えるとは思わなかったけれど、問いかけずには、いられない。
見開いた大きな目から、左眼球が風呂場のタイルの上に落ち、私の足元まで転がって来た。
屈んで目玉を拾い、自分の服のポケットへいれた。
「わかったわ」
お爺さんに向かってそう言い、風呂場の扉を閉めた。
明るい室内で見ると、寝ているお婆さんが履いているズボンは、お尻の部分の布が濡れていた。
このままの姿で、外へ出すのも可哀想だ。
服を物色して、パンツとズボンを見つけると、寝ているお婆さんを起こした。
体を揺さぶっても、起きてくれない。
困るなぁ。
早くこの部屋から、出て行きたかった。
壁にぶら下げられている青いハンガーから手ぬぐいを取ると、水道で濡らした。
寝ているお婆さんの顔を優しく拭いた。
目やにを取り、口元についた、食べ物のカスも拭き取る。
顔を触られて、お婆さんは目を覚ました。
お婆さん、着替えましょう。
「しずえっちゃん、ガッコー終わったのぉ」
私は「そうだよ」と言った。
汚れた手ぬぐいを水道で洗うと、お婆さんのそばにまた行き、ズボンとパンツを脱がせた。
軽くお婆さんの尻を手ぬぐいで拭き、汚れていないパンツとズボンを履いて貰う。
お婆さんはテーブルに乗っている煎餅の袋を見つけると、食べたそうにしている。
袋を取って開け、お婆さんの手に持たせる。
齧ってかけた煎餅は、畳の上に、こぼれ落ちていく。
「歯は、丈夫で良かったね」
煎餅を口に入れた頃合いに、煎餅の袋をテーブルに置いて、私の肩にお婆さんの両手をのせた。
片足ずつ、スボンに脚を通させる。
台所の水道につけられていた輪ゴムで、お婆さんの髪の毛を束ね結ぶと、お婆さんのカバンであろう、地味な和柄でパッチワークされた斜めがけのカバンを持たせ、ゆっくりと 、玄関から外へ連れ出した。
もじもじしていたが、お婆さんに手を取り繋いだら、お婆さんが絵がになる。
数時間前に買い物に行ったコンビニへお婆さんと入った。
ソフトクリームを1つ買い、ソフトクリームのカップを取り、お婆さんの手に握らせた。
「お婆さん、アイス食べててね」
「しずえっちゃん、美味しいね」
お婆さんは、口元にシワをよせながら、ゆっくりと食べている。
年齢は、80代くらいだろうか。
陳列商品の並べ入れをしている、コンビニの店員のそばへ寄り「店の近くの道路をウロウロしていたお婆さんがいたのですが、こちらで保護して貰えませんか?そのままでいて、店の前で車にでも轢かれたらアレですし。見た感じ、認知症なのかなと思いますが。私のことを、しずえっちゃんと呼ぶのですけど、まったく知らない人です」
コンビニの従業員は、困り顔をあからさまに見せた。
「コンビニの外前に、お婆さん、戻しましょうか?」
「警察に連絡します」しぶしぶといった様子で、スタッフ部屋と思われる場所へ入って行った。
お婆さんを、コンビニのイートインスペースの椅子に座らせると「お父さん、仕事終わったら、ここに来るからね」
ゆっくりと話しかけた。
ソフトクリームを食べているお婆さんは、頷いていた。
私はコンビニの外に設置してある灰皿の隣に立って、タバコを吸った。
1本のタバコを吸い終わると 、コンビニの外からお婆さんの姿を見て「お婆さん、頑張ってね」と呟いてその場を去った。
アパートへ戻り、玄関に仕舞っていたスクーターを外へ出し、ヘルメットを被ると、お婆さんを置いてきた、コンビニの前を通らない道を選び、スクーターを走らせた。
このアパートには、もう戻らない。
厄介な事に巻き込まれる余裕は、私の心には無い。
たまに寄る古着店で、ダボついたジーンズと、薄い生地のカーキ色のジャンパーと黒いスカーフを買った。
今日の夜は、ビジネスホテルに、泊まるつもりだ。
近くのスーパーで買い物をして行こう。
食品を少し選び、肉売り場を見る。
これって、全部、死体だよねと思う。
ステーキ用と表示されているトレイを取り、匂いを嗅いでみた。
人の死体の様な、匂いはしない。
鮮魚売り場へ行く。
じっくり見て行くと、気に入る香りがある。
コウナゴの入ったパックをカゴへ入れた。
1時の目覚ましアラーム音が鳴っている。
神社へ出かける準備だ。
このホテルから神社までの距離は、アパートからよりも近い。
ジーンズを履き、ジャンパーを着る。
首元には、黒いスカーフを3巻きして、白いマスクを顔に付けた。
この辺は、この時間でも歩いている人がいるのだな。
居酒屋帰りなのか、数人が輪になり、笑いながら会話していた。
もう少しで神社へ着く辺りで、後ろからパトカーが走っているのが、スクーターのサイドミラーからわかった。
パトカーは、私を追い越すと、左にウインカーをつけて停止した。
スクーターの行く道を塞がれたかっこうだ。
しょうがなく、私もスクーターを停める。
「バイクのテールランプが、片方明りがついていませんね」
警察官に言われた。
自分でもテールランプを確認したが、言われた通りだ。
「明日、修理します」
私の声を聞いた警察官は「女性でしたか」
私を男だと思っていたらしい。
もちろん、そう見られたいから、この服装にしたわけだけど。
「免許証と、カバンの中を見せて下さい」
スクーターのライトが切れているだけで、そこまで調べられるのか。
じっとしている私の思いを読んだように、警察官が言った。
「昨日ですが、暴走族を警察署へ連れて行ったのですが、違法薬物を所持していましてね。彼らも深夜、バイクで走ってました。違法薬物を手に入れるのに、都会も田舎も、もう関係ない時代ですからね」
この時間帯にスクーターで走行していたがために、疑いを持たれている。
諦めて、財布から免許証を出し、警察官に渡した。
「これからどちらへ行かれるんです?」
「買い物してから、家へ帰ります」
「免許証の住所だと、家はこちら方面ではないですよね」
いちいちうるさい。
続けて、リュックの中も懐中電灯を照らされて、検査された。
スマホと財布とライターしか入れていない。
「タバコ吸うの?」
「ええ」
返された免許証を財布へ入れていると、遠くでヴォンヴォンとバイクがエンジンを吹かしている音が聞こえた。
ハッとしている警官は「ご協力ありがとう」というと、パトカーをバイクのエンジン音が聞こえた方向へ車を発進させて行く。
暴走族よりも早く警官に見つけられるなんて、ついていない。
神社へ無事到着したけれど、儀式を開始するには20分ばかり早かった。
2時から始めたいから。
藁人形の付いている杉の木の近くで、体育座りで時間待ちをした。
両手で抱えた自分の脚に額をつけて、ジッとしている。
風もなく、静かだ。
ちょっとうとうととして来たが、眠ってはいけない。
静寂のなかにいて、自分の耳の中で、キーンとする耳鳴りが聞こえる。
カサっと枯れ葉を踏む足音が、耳鳴りを消した。
気のせいか。
何かが、私のわきに立っている。
気が付かない振りをしたが、鳥肌が立つのは止められない。
膝に乗せていた頭を静かにずらして、横を見ると、長い黒髪の女が私の顔を覗き込んでいた。
私は膝に自分の顔を隠し、女がいる反対側に顔をむけた。
女は暫く私の周りを歩き回っていたが、その気配が消えた。
左右を見たがいない。
ホッとして正面をみる。
前方にある藁人形の刺してある杉の木に、女は、虫のように両手両足で抱きつくと上へ上へと登っていた。
異様な光景。
女は木に顔面を当てたまま、ガバっと両手を上げ頭上の木を掴むと何かの幼虫のように背中と尻を突き出しズルッズルッと登っている。
枝まで登ると、懐から輪に結んでいるロープを出し、輪を自分の首にかけると、輪とは反対のロープを枝に括りつけ、木から飛び降りた。
揺れぶら下がる女が動くたびに、木の葉や枝が地面に落ちている。
曰く付きの木だったのか。
自分の背中から汗が落ちるのがわかった。
震えている両足を、強く両手で抱え、時間が過ぎるのを待った。
境内から獣臭が漂う。
時が来たことを感じた。
先ほどの女は消え、新鮮な木の葉が地面に散乱していた。
私は杉の木の根本を、置いておいた石で掘ると、金槌と五徳、ローソクの先端を空きタバコの箱に刺していたのを土の中から取り出し、ジーンズとジャンパーを脱ぎ白装束姿になった。落葉を掻き分け、櫛と鏡も装着し下駄を履く。
「高橋裕子!死ね」と小声ながらも藁人形へ言葉をぶつけ、金槌を振り上げた。
作業を終え、金槌を地面に置いた途端、獣臭の匂いの黒い靄塊が私に向かって突進し、それが体に当たった衝撃で土の上へ仰向けになった。
真上を見ると、消えたと思っていた女は枝からぶら下がり、真下にいる私を見て、ケタケタと笑い、その口から垂れたツバが私の顔面に落ちる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます