第7話 異変
地に足がつかない状況とは、今のことをいうのか。
徒歩で職場へ向かいながら、そう感じた。
深夜の行動で、緊張感と興奮が心にあって、落ち着かない気分だ。
職場に到着。
従業員用の下駄箱で靴を履き替えると、医療事務員の詰め所へ行く。
すぐそばにある階段をゆっくりと上がった。
タイムカードを押し込むと同時に「高橋さん、ちょっと来て」
タイムカードのそばの机に座っていた、マネージャーに呼ばれた。
私よりもかなり年上。バツイチの女性。
性格も、顔も怖い。
そう思っているのは、自分だけでは、ないはずだ。
肩まである髪の毛を、最近目立たない、茶色に染めていたのは気がついていたけど、そんなイメージチェンジでも、優しい人には見えない。
この人に呼ばれて、良いことなど何一つないことは、事務員全員がわかっている。
「高橋さん、この間の宿題、模範解答を写したって、本当?」
詰め所にいる、事務員全員の耳に聞こえるような大声だ。
「あの、全部ではないです。一部は写しましたが」
私は、素直に白状した。
模範解答を写したのは、私だけではないはずだ。
私のように、他の人も宿題の事を、言われたのだろうか。
辺りの人に目を向けるが、皆素知らぬ顔をしている。
「正社員なのに、その行為は、恥ずかしいと思わないの?みっともないと思いませんか?」
宿題の模範解答写しなんて、今始まったことでもないだろうに、キンキン声で問い詰められた。
「申し訳ございませんでした」
私は立ったままの姿勢で、頭を下げた。
「今後は、絶対に許しませんよ」
このマネージャーの叱責は、私をカモにして、事務員全員に警告しているのだと思った。
これで話しは終わりなのかと考えていたら、続いて意外なことを言われた。
「貴女には、外来業務を外れてもらいます」
「え、何故ですか」
マネージャーは、腕組みをした。
「なぜ今日は、素顔で出勤したの。華美ではない化粧をすることは、社会人として、マナーだとおもわないの?全く、だらしがない人ね」
自分の顔が赤くなるのがわかった。
化粧なんて、していない日の方が、多かったからだ。
今更、そんなことまで、言われるなんて。
「すいませんでした。これからは、気をつけます」
「そうして欲しいわ。それから、貴女には、今日から読影室で、仕事をしてもらいます。かなり前になるけど、携わったことがある業務だから、今日からは、すぐに仕事をして下さい」
「自動音声入力機器になった今、読影室で、なにの仕事をすればいいのですか」
マネージャーは机を手の平でバンと叩いた。
「そうじゃなくなったから、仕事をするように言われているとは、考えられないわけ?とにかく、さっさと持ち場に行って」
強い口調で言われて、詰め所から急いで出た。
あの仕事か。
眠くならないでいられるかな。
病院内の、裏にあたる長い廊下を歩く。
久しぶりに、またあの読影室へ、行くことになるとは。
私の他にも、2名の事務員が、読影室業務は出来るはずなのに。何故、私なのだろうか。
窓1つない、四角い部屋。
MRI、CT、単純XPの画像が入っている袋が、読影待ち順番に立てられているだけの部屋だ。
廊下の、右側に見える窓外の様子を見て歩く。
あの部屋に籠もる前の、目の保養だ。
歩道に向かって植え込まれた樹木の他は、曇りの空と、駐車されている車しか見えない。
廊下の突き当りまで歩くと、左に曲がる。
曲がった廊下のずっと先には、外来に受診している患者たちが、椅子に座っている様子が見えた。
それを見ながら、途中で廊下を右に曲がった。
「おはようございます」
レントゲン技師が数人、看護助手と話しをしていた。
「おはよう。読影室の機材が、昨日から調子悪いんだってな。ネズミにでも、どこか齧られたかな」そう技師は言って笑った。
「この病院って、ネズミがいるんですか」
「おいおい、真に受けないでよ。でもまあ、新しい病院って訳でもないから、ネズミがいても不思議じゃあないだろうけどさ」
なんだ、冗談か。
寝不足気味だし、朝っぱらからマネージャーにしかられた私には、気の利いた返答もできなかった。
私は技師に会釈をすると、そこからまた右に曲がり細い廊下を歩いた。
ちょっとした、迷路みたいだ。
細い廊下の手間が、読影室で、その隣りの部屋は、技師の休憩室になっている。
ドアノブを押して読影室に入ると、ドアのすぐ側にある、事務員用のパソコンのスイッチを入れて、その上にあるプリンターのスイッチも入れた。
他所の病院は、こんな時、どういうシステムになっているのだろう。
電子カルテが普及している今、テープ起こしのような、古めいた作業をまたやらなければならないなんて。
電気がつかず、エアコンの暖房も使用出来なければ、石油ストーブが必要になる。
水洗トイレが故障すれば、汲み取り式のトイレが便利だ。
新しい物も、古い物も、常に必要ってことかな。
先生が使う、机の壁面には、逆くの字形に、診断するための画像がきっちりと貼られている。
電気を消し忘れたのか、モノクロのレントゲン写真が明かりに透けていた。
点灯したままになっていたけど、そのままにしておいた 。
この病院の、放射線科の先生は、好感がもてる人だが、変わっている人にも感じていた。だから、余計なことはしないで、現状維持にしておくことがベストだ。
先生の机に置いてある、手のひらサイズのMDプレイヤーからカセットを抜き取ると、事務員用のMDプレイヤーへ、カセットを入れて、再生にした。
装着したイヤホンから、先生の声が聴こえる。
先生の言葉通りに、パソコンへ入力していく。
医療用語は、漢字変換にも、注意が必要だ。『浸潤』を『進順』などと入力間違いはできないし、合間合間に英語やドイツ語で医療用語が話し込まれているから、これも単語入力によるミスはできない。
分からない単語は、足元に置いた、分厚いファイルから、単語を調べて入力していく。
これの繰り返し作業が、部屋の中央にある机の棚に、順番待ちでずらりと並べられているのだ。
急いでほしい物には、赤い文字で『急ぎ』の立て札が、袋に差し込まれていた。
今から、入力を始めているのは、全て急ぎであった。
10枚ほど入力を済ませると、確認して貰うために、放射線科の先生に、提出する必要があった。
これもまた、厄介だった。
放射線科の外来室に先生がいれば、スムーズに事は進められるが、放射線の治療中ともなると、それが終わるまで、ドア外で待機していなければならない。今日の朝は、先生と放射線科受付の前で出会ったので、とてもラッキーだった。
その場で先生にプリントアウトした用紙を渡すと、立ったままの姿で入力内容をチェックしてもらう。
良かった。
全てOKだった。
急ぎのフィルム画像と一緒に、所見内容の用紙を患者ごとに間違いなく入れて、各外来科へ届けた。
ここから1番遠いのは、循環器科だ。
書類を持ち、早足で全てを配り終え読影室に戻る途中で、廊下の隅にある公衆電話側を通ると、私の足元に、りんごジュースのペットボトルがコロコロと転がってきた。
拾い上げると、こっちを見ていたお母さんと、その腕に抱っこされた、小さな男の子がいた。
笑顔で歩みより、男の子の手に、ジュースを渡した。
「すいませんね」
「いえ」
母親に抱かれた男の子に、小さく手を振り、立ち去ろうとしたら、その男の子は、私を指差し「うしー」と言う。
母親は「うしじゃないでしょ、病院のお姉さんでしょ」
男の子は、頭をふり、母親の抱っこから床に降りると、また私を指差し「うしー」と言う。
私は、自分の後ろを振り返ったが、牛らしき絵も、人形も、見当たらない。
母親に頭を軽く下げると、読影室に戻った。
先生の机から、MDプレイヤーの横に置かれた、1つをまた事務員用のプレイヤーへ入れる。集中して入力作業を行った。
ドアがノックされる。内科の看護師が、袋を持ち、入ってきた。「急ぎですか?」
「順番通りで、いいわ」
並び立てられた最後尾に、袋を縦て差し込んでいた。
入力の終えたMDカセットは、先生の机の上へ置き、プリントアウトした用紙と共に、並べ置いた。
別のMDカセットを聞き始めたとき、左背後のドアがまた開いた。
座っていたローラー
付の椅子を動かし、ドアへ顔を向けると、平手打ちをくらった。
力の強さで、座っていた椅子ごと、後部へひっくり返り床の上に、椅子と一緒に倒れた。
唖然。
私には、人が入ってきた様子は、見えなかった。
離れたところにあるパソコンのキーボードが数回カチカチと動いている。
倒れた私の場所からでも、モニターに書かれた文字は見えた。
『され』と書かれた文字。
読影室の空気が、重くなったのを感じる。
私が立ち上がると、天井の電気が不意に消され、横っ面をまた殴られ、私は床に倒れた。恐怖で身体が震える。私は、机の下の自分のカバンを素早く持つと、人がいる場所へ逃げた。
外来のフロアへ走り入り、読影室の方向に振り向いた。
今のは、なんなのか。
誰の姿も、私には見えなかった 。
痛む頬に手をあてながら、患者も利用するトイレへ入り、鏡に自分の顔を映した。
両頬に叩かれた後が、赤く腫れていた。
上唇の右端も赤くなって、盛り上がっている。
されって、読影室に入るなってことなのか。
いったい、なにが殴りつけてきたのか。
ドキドキする胸に、頓服薬を与えたい。
病院の売店へ、行った。
とにかく、人がいる所へ混ざりたい心境だ。
病院の正面玄関を横切り、カレー店前を通り過ぎると、向かいの売店へ入った。
お昼時間も近いために、期待通り人がたくさんいる。
安堵のため息がでる。
この顔を早く隠さなければ恥ずかしい。
白いマスクを、手に持ったカゴに入れた。
マスクの近くに、日焼け止めbbクリームが、フックにぶら下がっている。
商品説明を読むと、色つき化粧下地とも表示されている。
それもカゴへ入れた。残り少なくなっている惣菜、弁当コーナーでおにぎりと水を選ぶと、会計待ちの列へ並んだ。
「あら、元気?」
レジ担当者に急に声をかけられて、ビクっとした。
でもその人物に、見覚えがあった。
昔、この病院にパートで働いていた、元医療事務員の田崎さんだ。
「こんにちは」と返事をいったものの、内心では、医療事務員を辞めたのに、同じ病院の売店で、仕事をする意気込みに、関心した。
私には出来ない。
病院じゃない、他のコンビニとかを、選ぶと思う。
この病院が、居心地良いのか。
田崎さんの顔の右後ろがわから、長い髪の女性がちらりと見え、すぐに田崎さんの顔後ろに消えた。
入院患者が着る、病院服の肩も見た。
田崎さん、取り憑かれている。
この病院から、離れられないのではないか。
「ひきつった顔して、どうしたのよ。それに、その頬。もしかして、マネージャーにやられたとか?」
私は説明が出来ないまま、曖昧な笑顔を向け、会計を済ませた。売店を出ると、食堂、床屋、と並ぶ通路を歩き、詰め所へ向う階段を上がった。
1人でいたくない。
詰め所は、食べ物の匂いが広がっている。
届いた出前弁当を食べている人や、持参の弁当を食べている事務員たち。
私は、その長テーブルの脇に、壁のように並べられているロッカーへ行き、中央にある自分のロッカーを開けて、 戸の裏に付いている鏡で顔を見た。
さっき見たときより、手形が頬にくっきりと赤く付いている。
急いでbbクリームを、顔面に厚塗りした。
殴られた後が分からない程度になったときには、化粧品のありがたさがわかった。
カバンから頓服薬を1粒と、痛み止めも1粒足し、ペットボトルの水で薬を飲んだ。
動悸が落ち着くまでしゃがんで、詰め所内の賑やかな会話を聞いていた。
「どうしたの、高橋さん」
化粧直しに来たのか、ロッカー前に来た事務員に聞かれた。
「なんだか、調子悪くて」
「あぁ。あそこの仕事になったんだよね。あそこって、追い立てられるようで、息が詰まりそうよね。なんて言うんだっけ。トランスなんとかだよね。でもさ、個室業務ってのは、いいわ。この詰め所にいるよりは、ましだわ」
指で頭の上に、角を作っている。
マネージャーのことだ。
誰かしら呼んでは、小言を言っているから、安心して休憩時間も休めない。
「今もいるけど、そのおにぎりを食べるなら、テーブルは空いているよ」
「うん。ありがとう。あと、トランスクライバーって言ってたと思う」
読影室は、場所であって、作業する人は、トランスクライバーだ。
「あたしなんて、同じ個室業務だけど、程度の低い、電話交換勤務じゃない。突然に読影室で仕事しろって言われても、無理だわ」
「電話交換業務が、程度が低いなんておもいません。電話応対は大変な仕事だし、内線電話で、あちこちに繋ぐのも、間違いは許されないから、大変だと思う。それに、私だったら、愛想良く、滑らかに喋れないもの」
その言葉に、電話交換勤務の事務員は、微笑んだ。
「適材適所をちゃんと見極めている、鬼マネージャーは、ほんと、遣りてよね」
震えが収まりつつある。私は、ロッカーに手をあてながら、立ち上がった。
「読影室の勤務なんて、イヤですけどね」
「機材修理が、済むまでの辛抱よ」
電話交換勤務員の背後で、別の事務員がロッカールームに入ってきたところで、私は長テーブルへ行った。
空いている席って、マネージャーの斜め前じゃない。
座る前から、目が合ってしまったので、逃げることも出来ずに、しょうがなく、空席に座った。
「今日の様子は、どう」
早速、聞かれる。
「午前中の急ぎは終わりました。溜まっていたMDカセットの内容は、入力済みで、先生のチェック待ちです」
マネージャーは、私の報告を聞いて頷いた。
私は、おにぎりのパッケージを取り、手早く食べる。
5分以内に、この場から立ち去りたい。
鮭のおにぎりも 、マネージャーの前で食べているためか、味も感じない。
マネージャーは、自炊のお弁当を食べていたけど、一口食べるごとに、箸の先端を、お弁当箱に、音をたてて突き刺す。
威嚇だ。
多分、私がこの場に混ざっていることが、気に入らないのだろう。
おにぎりを口に詰め込むと、席から立ち上がった私に「状況はちゃんと報告に来て下さいね。それと、手が空く時間があるなら、忙しい外来へ、手伝いにいくように」
詰め込んだおにぎりで声が出せないので、マネージャーを見て、頷いた。
これ以上、仕事の量を言い渡されたら、たまらない。
逃げるように、詰め所からも出た。
早く、帰りたい。
そのためには、早く仕事を片づけなければ。
入りたくもない読影室に戻ると、先生が読影を行っていた 。
1人でこの部屋に居なくて済むことに、ホッとした。
冷房が入れられ、狭い室内は、かなり冷えている。
先生がいるときは、いつもこうだったっけ 。
事務員の椅子に座ろうとしたら、頭部と整形外科の画像の袋が、椅子の上に置かれ、プリントアウトした用紙が、キーボードの上に乗せられてあった。
縦並べてあった読影待ちの袋も、半分は減っていた。
心の中でため息をつく。
今日の残業は決定だ。
あの雰囲気だと、先生は、午後から棚の画像は、全部読影するのだろう。
私は頭部と、整形外科の袋を持ち、放射線科受付へ入り、各科目ごとに分けられている棚に、それぞれ分け入れた。
受付の事務員に「頭部と整形外科のみは、放射線科の先生は読影しないので、ここに入れておきますね」
受付事務員は最近入った人だったが、銀縁の丸眼鏡の奥の目が険しくなった。
「そんなこと、知ってます」
別に注意した訳でもない。
事実を言ったまでだ。不慣れな看護士か、看護助手が、読影室に持ち入れたのだろう。
医療従事者は、気の強い人が多い気がする。
和やかな人や気の弱い人ほど、退職してしまっている気がする。
いや、気が強くなければ、向かない職種なんだ。
『気』が『強い』から、売店の元医療事務員のように、ならないのかもしれない。
あの人は、気の強さで、背後にくっついている者を、跳ね除けられなかったに違いない。
ため息ばかり出る。
放射線受付を出ると、詰め所へ戻った。
歯をみがいているマネージャーの側へ寄り「先生が、猛烈な勢いで読影をしているので、今日は残業になると思います」
口を洗いだマネージャーは「どのくらい進んでいるの」と聞いてきた。
「午前中はぎっしり並んでいた、読影待ちの袋が、半分近く減ってます。もしかしたら、全部読むのかもしれません」
マネージャーは、苦笑した。
「先生のスイッチが入ったのね。残業は、認めます」
今日は何度めになるのか。
また、ため息をついて、詰め所を出た。
放射線科の先生は、夕方まで読影を続けて、並んでいた棚をからにすると、読影室から出て行った。
予想通りだ。
意地でも全部入力して、チェック待ちの用紙を束にして、先生の机の上に置いてやる。
集中して先生の声を、イヤホンから聴いた。
キーボードを打つ音、プリンターから用紙を排出する音以外、何も聞こえない。
腕時計を見ると、午後5時半だ。
約4時間の作業で、録音された最後のMDカセットを聴き始めた。
左背後のドアが 、カチャと開いた。
ギクッとしたが、パソコンモニターに映った姿は、マネージャーだった。
「どう、調子は」
「最後のカセットを、今から聴くところですが、これに所見が、何件入っているのか分かりません」
今日新たに加えられた画像の入った袋で、棚には、またたくさん並んでいた。
「そう。急ぎの分じゃないのなら、区切りの良いところで、作業終了して頂戴ね」
「わかりました」
マネージャーが去ってからも、仕事を続けていると、天井の蛍光灯が、チカチカと点滅し、消えた。
なに?
壁に付いている、電気スイッチを、パチパチと押して、何度めかで天井の電気はついた。
本当に、ネズミの仕業だったらいいのに。
最後の所見のプリントアウトを待っていると、触ってもいないパソコンのキーボードが、目の前で押され、『消えろ』とモニターに文字が表示した。
ここに何かいるのは、殴られたことで、よくわかっている。
あの時は、パソコンモニターに、人影も映らなかった。
手早く用紙を整えて、上をクリップで留めると、先生の机に置いて、パソコンの電源をオフにしていたら、ガチャっとドアが開いた。
恐怖で涙目になった。ドアを見ると、放射線科の看護師長だった。
看護師長は「うわ」と言って、ドアを全開し、ドアストッパーで固定した。
「師長さん?」
ベリーショートヘアーの看護師長は「うん…ここ、何かが溜まっているよ。高橋さん、感じないタイプ?」
「それがそのですね、天井の電気が点滅したり、触ってもいないパソコンに文字が表示されたりしてました」
目から涙が落ちた。
殴られたことは、話しにださなかった。
「え、なんてパソコンに、書かれていたの?」
言いたくなかったので適当なことを言った。
「文章としては、なりたたないような、適当な文字でした」
「そう」
師長は読影室をぐるりと見渡すと「閉め切っているのは、凄くよくないね。
ここで仕事をする時は、ドアを開けたままのほうがいい。
でもなぜ突然、ここに禍々しい者が集まってきたのか」
私が原因だろう。
私が呼びしろになって、この部屋に集まって来ているのだろうか。
作業終了の片付けをし、部屋の電気を消してくれた師長さんの横に立ったら「高橋さん、貴女、変な匂いがする。動物とか家で飼っているの?」
「いえ、アパート暮らしなので、ペットは飼っていません」
師長は、まじまじと私を見つめ「貴女、近いうちに、お祓いとか受けなさい。とても危ない感じがするわ」
師長と一緒に退室して、病院内の裏の廊下を並んで歩いた。
看護師の詰め所も、この裏廊下の中央にある。
「明日、明後日の土日で機材修理が終わるから」
「わかりました」
良かった。
もう読影室に行かなくて済むのだ。
総合病院の外来は、土日祝日は休みだ。
中央処置室と、病棟は別だけど。
医療事務員も交代制で、土日祝日は仕事にはなるが、私は休みだ。
廊下に設置された自販機の前に来たら、お線香の匂いが漂っている。
私は財布から小銭を出すと、缶コーヒーのボタンを押した。
師長も何か買うのか、ポケットから小さいがま口を出している。
その場で、缶コーヒーを開けて飲んだ。
「霊安室からお線香の匂いがしますね。今日、誰か亡くなったんですね」
自販機のそばは、霊安室だ。
この自販機も、霊安室に来る必要がある人たちのために、ここに設置されているのかもしれない。
「確か、長期入院だった病棟のご老人よ」
缶コーヒーは、一気に飲み干したが、線香の匂いを嗅いでいるうちに、私の口内には唾液が溜まってくる。
「あの…ご遺体に、お線香を上げてもいいですか」
コーラを飲んでいた師長は驚いている。
「知り合いでもないでしょ?」
「ええ、でも、この時間に、ここを通ったので、拝んで帰りたいと思いまして」
「別に、いいと思いますよ。お線香を上げるのは。線香の煙を絶やしては、お気の毒だし」
そう言って、師長は看護師の詰め所へ入って行った。
私は、霊安室に入るのは、初めてだ。
こんな美味しそうな匂いを嗅ぐのも初めてだ。
遺体の側で、煙を細々と上げている線香の匂いを、胸1杯に吸い込んだ。
何か特別仕様のお線香なのだろうか。
火のつけられていない線香の先端を、齧ってみたが、苦い味がするだけだ。
煙りのみが、素晴らしく芳しい匂いだ。
煙りを手で自分の口の中に集めた。
ヨダレが出そうなくらい、口内に唾液が溜まっていく。
頭髪をわしずかみにされた。
遺体の上半身が起きてその手で髪の毛を掴まれている。
引っ張られて、片膝が床についた。
私の顔は、遺体の腹部に、遺体の手で押しつけられていた。
『お前が食べたいのは、この死んだ体だろうがっ』
ヒッと叫び頭を掴んでいる手から逃げ、部屋の隅に這って逃げた。
部屋の隅からしゃがんだまま振り返り、ご遺体を見ると、入室したときと同様に、綺麗に仰向けに寝ている。
私は慌てて、事務員の詰め所まで走って行った。
1時にセットした、スマホのアラームが鳴っていた。
枕元に置いてある、スマホをつかみ、アラーム音を止める。
全てわかっている。
眠って疲労の取れた頭で、シミだらけのアパートの天井を見て、思い考える。
職場の病院は、私にはアウェイな場所だってことだ。
敵地であり、居心地が悪くて、気まずい場所なのだ。
それはそうだよね。
皆、生きたくて、病院へ通院し、入院する。
死にたい私が、存在することは、腹の立つことだろう。
あの霊安室のご遺体も、無念に終わらせられた人生だったのか。
死んでもなお、悔しくて、悔しくてたまらないでいたのかもしれない。
気になっている、天井のシミを見る。
黒目のない両目に、団子状の鼻、口を物言いたげに、開いている人の顔だ。
その斜め上のシミは、最近、右目だけが黒目になっていた。その目で私を見ている。ひらいている口から、顔の長さ以上の長い舌を、ベロンと垂らしていた。
これも、私に対する威嚇の1つなのか。
でもここは、病院ではないではないか。
私はお金を払って、このボロいアパートに住んでいる。
「気に入らないのなら、出て行くのは、そっちのほうだよ。今度変化を見せたら、油性ペンで塗り潰してあげるわ」
天井のシミに向かって、言った。
前回と同じように、神社へ向う準備をして、スクーターの上に乗せていたヘルメットを被ろうと、手に取ると、ヘルメットの後ろに、泥が着いている。
なにか、アルファベットのVが、丸まったような形だ。
なんなの。
水でタオルを濡らし、泥汚れを拭いたが、跡は完全には消えなかった。
アパートの鍵を締めると、車道までスクーターを押し、エンジンをかけると、神社へ向かった。
今日は住宅街の人感感知ライトの点灯しない、広い道路から曲がり、神社へ向うつもりでいた。
神社付近のコンビニの手間から左へ曲がるとき、普通のバイクとは明らかに違う、ヤンキー仕様のバイク2台と、タバコを吸う3人の男が、私を見ると、ヒューと口笛を吹き、エンジンをかけるとバイクに跨がっている。
スクーターのサイドミラーで見ると、私の後ろに、ついてくるのがわかった。バイク1台は2人乗りだ。
このまま神社へ向う訳には、いかない。
止むなく、神社前を通り抜けると、なるべく広い道路へ出ようと、焦った。
近場の道の駅に入り、トイレへ逃げ込もうとスクーターを停めると、追って来たバイクも停止し、男ら3人が、こちらへ歩いてくる。トイレに逃げ込むのは、危険だ。
私は、またスクーターを走らせ、逃げた。
しつこくバイクも、追って来る。
夜道に明かりがついている、タクシー会社へスクーターを乗り入れた。
ヘルメットを被って、マスクをしたままで、人がいる事務所とおぼしき引き戸を開け、中に入った。
「すいません。変な人たちに、ついて来られて…ちょっとでいいので、ここに居させてもらえませんか」
寝ていたのか、眠そうな顔をしている中年男性は「あんた、こんな時間帯に、なにやってんの。変な輩に絡まれても、しょうがないってもんだ。こんな田舎街で人も歩いていない時に」
尾行して来たバイク2台は、タクシー会社の前でエンジンを吹かしていたが、私と中年男性が会話しているのを見ると、走り去っていった。
「そうですよね。タバコを買いに、コンビニへ寄っただけなんですけど」
本当の事は、話すわけにはいかない。
「警察に通報しておくわ。あんたもその方が、帰りやすいだろ」タクシー会社の人がスマホを持った。
「大丈夫です。警察に連絡しなくても。
家はすぐそこなので」
「なに、遠慮はいらない。O市警察署なら、ここから数キロ先だ。あんたを安全に自宅まで送ってくれるさ。それに、タクシーを運転していても、暴走族を見たら、警察署に連絡入れるように俺はしている。たまに、認知症の老人が、パジャマ姿のまま夜道をふらふらと歩いている時も、通報する」
ここに長居は無用だ。
バイク2台は去ったのだから。
ややこしくなる前に、私も去らなくては。
警察署への通報を断ったとはいえ、この中年男性がパトカーを呼ばないとも限らない。
ヤンキーたちは構わないが、私まで職質や持ち物検査を受けたら、とても困ることになる。
タクシー会社の人にお礼を言って、再び神社へ向かった。
人感感知ライトがついても、住宅街のこの小道が、安全なのかもしれない。
誰かに襲われるような事があったとしても、大声を出せば、相手もさすがに怯むだろう。
住宅街を通り抜け、神社わきに到着すると、エンジンを止めたスクーターを押して、駐車場の奥へ停めた。
腕時計を見ると2時10分。
まだ丑三つ時であることに安心した。
カバンからタバコを出すと、スクーターの影にかくれて一服する。さっきアパートを出たときの自分の心境を取り戻したかった。
スクーターに付いているサイドミラーにライターで火を灯し、映る自分の顔を見て、鳥居をくぐり抜ける。
真っ暗で静まり返っている神社が、心地よい。
ご神木から木の皮を剥ぐと、私の藁人形へ向かった。
儀式の服装を整え、剥いだ木の皮を2つに割き、1枚は藁人形の裏へ差し込み、もう1枚は新たな五寸釘の頭に当てた。
今夜は、金槌の音を響かせたくない。
五寸釘と木の皮の上に 、ハンカチもあて、金槌で釘を打ち込んだ。
「高橋裕子死ね」
藁人形の胸に、金槌を打ち込む度に、小声で呟いた。
儀式を終えても、暫く杉の木の側にいた。
リュックを枕にして、その場に右下に横になった。
目の先に、闇よりも黒い靄が地面の上に渦巻いているのがわかる。また獣臭だ。
私は起き上がり、黒い靄をじっと見た。
私の側に移動してきている。
匂いが一段とキツくなる。
胸をドンと突かれ、尻もちをついてしまった。
靄は空気中に散り散りとなり、消えていく。自分の服装の胸の部分に、泥が付いている。あのV型だった。
周りの枯れ葉をかき集め、藁人形を隠すと、神社から出て、アパートへスクーターで向かった。
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