第5話 通院と呪物
「はい。もしもし。そう、真子様だけど、なに?」
電話口では、佐川が笑っている。
「いきなり、女王様気質ですな」
「中学の男子バスケ部だった奴は基本、真子様の子分だと思っているけど、間違っている?」
「間違っていません。バスケの技術にかけては、当時の男子バスケ部より、真子様のほうが上でしたし」
あたしは、ハーとため息をついた。
仕事を終えて帰宅し、夕飯も食べ終えて、自分の部屋で、寛いでいるときに、スマホの着色音が鳴った。相手と話すまえから、かけてくる相手が分かるのは便利だが、なんとなく用件がわかっててうざったくなる。
「で、なに?男バスであたしに電話かけてきたの、あんたでさ、3人目なんだけど。そして、どいつもこいつも、社会人バスケの集まりのために、真子様の連絡先を聞きたがったくせに、会話してみれば、結局はあたしから裕子の情報を聞こうと結連絡してきているんだよね。電話番号が知りたいなら、同窓会で裕子に面と向かって聞けばいいのに。なんであたしの電話番号は聞けて、裕子には聞きに行けないんだよ?」
真子に電話をかけてきたのは、中学時代の男子バスケットボール部の佐川。
佐川は、口をはさむ余地もなく、真子の説教を黙って聞いていた。
「いやいや、バスケの集まりがあるのは、本当だから。決まったら連絡するよ」
「わかった。んじゃ」
真子が電話を切ろうとすると、相手はまだ何か叫び声で言っている。
「まってよぉー!真子ー!」
佐川の必死な声を聞き、あたしは、もう一度電話に出た。
「なんだよ、裕子のことなら自力でなんとかしろよ。あたし、男女の仲介とか、そんな世話やき的なのは、やらないからね!」
全く話しているのが、馬鹿くさくて、ベッドに上がり仰向けになった。
なんで、佐川の恋愛を、手伝わなきゃならないのさ。
以前、裕子がこの部屋に来たとき、耳の垂れ下がったぬいぐるみの可愛さと、その数量に驚いていたけど、あれからまた、ぬいぐるみの数は増えていた。
最新の可愛い子は、枕元に飾ってある。
裕子にも、この子を見せたいな。
そう思っていたら、佐川が何か話してきた。
「なんて言うのかなぁ。裕子は、花に例えたら、高山植物とでもいうのかな。学生のころは、そっと裕子を見るだけだった。でも、今回の同窓会で再会しても、全然、雰囲気が変わってなくて、ある意味奇跡的でさ、よけいに話しかけられなかったんだよ」
真子は佐川によく聞こえるように、大袈裟にまた、ため息をついた。
ダメだ、佐川じゃ。
裕子には、告白できまい。もうどうでも、よくなってきた。
この佐川との電話は、ひたすら、時間のムダだ。
「んで、裕子が楚々とした高山植物の花なら、真子様は、なんの花だろうねぇ」
電話相手の佐川は、突然の質問のためか、しばらく、無言だったが、意外と気のきいた言葉を言った。
「真子は、凛とした、いい香りのする、大きなユリの花かなぁ?」
その花の例えに、あたしはゲンナリしていた気持ちが少し、マシになった。
電話の向こうの、佐川は話しを続ける。
「どこに飾られていても、ひと目を引く、そのへんも似ているよな。デパートのインフォメーションに、勤めているときは、正にそんな感じだったよ」
「ふーん。まぁ、今では年取っちゃって、事務所で仕事しているけどね。でも、そこまでいろいろあたしには言えるのに、何故、裕子には、言えないのだろうねぇ」
真子は家の1階へ降りて、冷蔵庫を開けた。
缶ビールを飲もうと思った。
「真子、お前、今屁しただろ?」
スマホを肩と首で押さえながら、ビールのプルタブを開けた。
「誰が屁だよ。冷蔵庫が開いた音だよ」
「冷蔵庫を開けて、そんな音するか?」
あたしは、ビールをグビグビ飲み、ゲップを佐川に聞かせてやった。
「うちの冷蔵庫はね、年季が入っているの!」
お菓子を入れてある、冷蔵庫わきに置いてあるダンボールから、開封済みの堅焼き煎餅を摘むと、ボリボリ食べ始めた。
「真子は、そういうところも、いいんだよなー。電話口で、ボリボリお菓子を食べたりさ、それに、隣りに真子がいて、屁されても、自然すぎて、全然気にならないもんなー。それも含めて、愛らしいというか。なんだったら、俺も屁で返したくなるし。真子なら、笑って許してくれそうだし」
「ふーん。で、それが裕子だったら?」
佐川は今度は、即答だった。
「考えられない!裕子と屁が結びつかないし」
「なるほどねー。なんだか君たちの気持ちが、わかったような気がするよ。なんだか本当に、憐れみを感じる。しょうがない、裕子に電話番号を教えていいか、聞いてみるから。良ければ、裕子からあんたに電話が来るんじゃない。因みに、あたしは、彼氏の前では屁はしないからね。まぁ、佐川の側にいたら、するかもだけど」
また、煎餅をボリボリ食べながら話した。
デパートのテナントに入っている、ショップの男性と6年もの間、交際していたけれど、彼氏の前で屁などしたことはなかった。愛情があると、出来ない行為なのだろうか。でも、そろそろお互いの間で、結婚の話しも出ているし、彼氏があたしにとって、家族になっら屁もするようになるのかな。自分で、そこまで考えて、笑ってしまった。
少し無言でいたら、佐川が繋がっていた電話から「おーい!真子?」
「ああ、ごめん。今、一瞬、別の世界に行ってたよ」
「いろいろと、俺には差別だなー。でも、裕子のこと頼むよ、真子ちゃん」
「ん」と答えて、電話を切った。
缶ビールを飲み干すと、冷蔵庫から、もう1本だして飲んだ。
佐川が言ってた、屁の音に聞こえなくもないか。
冷蔵庫を閉めてみて、そう思った。
その場で、裕子に電話をかける。
家に、いないのかな?
電話に直ぐ出る様子が、なかった。
あたし、酒のんでるし、メール文字打つの面倒くさいなぁ。
スマホを左手に、右手でメールに文字を書き始めたころに、裕子から電話がかかって来た。
「ごめんね、電話くれた?」
なんだか、元気のない裕子の声だ。
何かあったのだろうなと、長年の付き合いから、ピンとくる。
「裕子、なんか元気ないね、風邪でも引いたの?」
「うん。そんな感じ」
実際に裕子は、掛け布団を羽織るようにして、電話で話していた。
動悸がする。
それに、やけに手足が冷えて寒い。
「具合悪いって連絡くれれば、裕子のところに行くし、逆にいつでも真子の家に来て、昔みたいに真子家の家族の一部分になっていいんだからね。あと、同窓会のとき神社前で撮った集合写真、裕子には直接渡そうと思ってたよ」
「ありがとう」
なんだか、裕子は涙声だ。
「あとさ、すごくどうでもいい話しなんだけど、真子経由で、裕子と連絡を取りたがっているヤロー共がいるのだけど、電話番号を教えていいのかな?」
「それは…やめとく。誰かと話したいって感じ、今はしないの」
真子は3本目のビールも飲み始め、アルコールが回ってきているのを自覚した。
「わかった。じゃ、写真見に家においでね。それ以上の話しの内容は、全て却下ということで。んじゃ、おやすみー裕子」
電話が切れた。
「真子、ありがとう」切れた電話にそういった。
暗い気持ちでいたけど、真子の声を聞けて、ポッと心が暖まった。
マッチ売りの少女が、雪のなかで、マッチを1本つけたような。
さっきまで読んでいた冊子。
手前に置いてあった、冊子に目を向けて、たちまちマッチの火が消える。
勤めている病院の心療内科から貰ってきた冊子だ。
台所へ行くと、換気扇のスイッチをいれて、タバコを吸った。
頭が重い。
心も重い。
体も重い。
なんであんな事を、しちゃったのだろう。
既婚者なのに。森くんは。
自分自身に、もう嫌悪感しかなかった。
森くんと、一線をこえてしまったことで、キラキラとしていた私の中学生時代の大切な思い出が、薄汚れてしまった。
汚らしい、自分が。
吸っていた、タバコの火を左腕の内側に、押しつけた。
もう嫌だ、嫌だ、嫌だ。
これじゃあ、私の父親だった人と、同じことを行ってしまったじゃない。
遺伝子なの。
あの両親の遺伝子なんて、私の体から消えて欲しい。私が何を頑張ったとしても、あの2人の子どもじゃぁ、屑人間でいて当たり前なのかもしれない。
それに、姓名占いの、結果通りになってしまった。
数時間前のことを、思い出すと、また怒りが湧いてくる。
今日は、仕事終わりに実家へ寄った。
母親が欲しがっていた三万円を手渡した。
ニヤリと笑った母親の顔が気持ち悪い顔にしか、みえない。
バケモノのような、笑みに見えた。
ちょっと上がって行きなさいよと、母親に手を繋がれて、その瞬間に、私の全身から鳥肌が立った。
気持ち悪いから、触らないでと、言葉が口から出そうになった。
早く、アパートへ帰りたい。
「家に上がらないで、このまま行くよ」
「帰るかい。まぁ明日も仕事だろうしね」
エンジンをつけたスクーターの後ろで、母親が言った。
私の心に憎しみの青い炎が点火した。
エンジンを止めて、ヘルメットをとると、バイクに跨ったままの格好で「明日は数カ月前から予約をいれていた病院なのっ!」
母親に、ぶつけるように大声で言った。
つかつかと母親が歩き、私の側まできた。
「裕子、どこか体の具合が悪いのかい?」
母親に、裕子と名前を呼ばれるだけで、自分の名前が本当に嫌いでならない。
母親を睨みつけた。
「精神科に行ってくる」
母親にメンタルクリニックとか、心療内科とか言った処で、意味が分からずに、無駄に母親と話す時間が増えるだけだ。
「うつ病だと思う」
かな切り声で、母親に向かって叫んだ。
「うつ病?そんなの気のせいじゃないのかい。誰だって、気落ちする事くらいあるだろうし」
母親の言葉にいちいち怒りが湧いてくる。
「ねえ、知ってる?母さん。あんたが付き合っているあの男にね、私は何度も何度も犯されそうになってたんだよ!」
話すごとに、涙が出ていたけど、私はスクーターから降りると、母親に詰め寄った。
母親は私から目線を外らすと横を向き「チッ」とだけ言った。
「うつ病が気のせいだって?あんたに、なにが分かるんだよ。私の心の中が見えるの?ずっと、私の稼いだ金を、搾取しやがって。それで、母親っていえるの。小学生のころ、私が言った言葉を、思えている?どーして母さんは、よその家のお母さんと違うのって!私、聞いたよね?あんたは、自分の機嫌次第で、私に虐待めいたことをしてきていた。その自覚は、さすがに、あるよね!」
母親は「裕子、お前が何を言っているのか、さっぱりわからないね」その母親の言葉を聞いて、本当に今直ぐにでも、死にたくなった。
「もう、あんたの顔を見たくないんだけど。親子の縁を切ってくれるかな?お金がどうしても欲しいなら、お姉ちゃんに、今後たのみなさいよ!」母親にまた絶叫して、直ぐにスクーターで走り去った。
気持ちが悪いよ。
バイクを止めて、草影で何度も吐いた。
目から涙が落ち、鼻水も出る。
なんてくだらない私の人生。
生きることは、ネガティブでしかない。
死を選ぶ方が、ポジティブだとしか思えない。
少しだけ、寿命を縮めるだけだ。
前向きだ。
生まれたくもないのに、母親が勝手に私を生んで、ありがたいと思えと言わんばかりに、あれこれ私に、苦痛を与えてくる。
さっさと死にたいなと思いながら、ずっと生きてきてしまった。
吐き気がましになって、歩道に座った。
帰り道に、近場のコンビニに寄って、ロープでも買って首でも括ろうか。
実家の、軒先で死んでやろうか。
あれこれ思案しながら、心臓の動悸が激しくなる。
フラフラしながら、スクーターに座ると、エンジンをかけて、自分の住むアパートへ戻った。
私が昔から、大切にしていて何度も読んでいた本。
自殺マニュアルを、思い出す。
様々な自殺のやり方、苦痛度、未遂になるリスク、自殺に失敗してしまった後の惨めな体。
いろいろ書いてある本だ。
私は自殺は出来ないと思っていた。
私に少しだけ残っている、見栄なのだ。
『自殺したそうよ』と職場での話題作りに、上がりたくないし、真子にも、そう思われたくなかった。
自然に近い死に方は、私なりに、もう考えてあった。
その前に、ずっと前から予約していた、メンタルクリニックの受診は、明日だ。
もう一度、貰ってきていた冊子を読む。
『早くみつけて早く治すのがこつ うつとうつ病』
『その不安や恐怖心は社会不安症(SAD)かもしれません』
『パニック障害』
読んでみて、当て嵌るのは
『パニック障害』だと自分では思った。
①心臓がドキドキする(動悸・心拍数の増加)
②汗がでる
③からだが震える
④息切れがしたり、息苦しさがある
⑤喉に何かつまったような窒息感
⑥胸の痛み、胸のあたりの不快感
⑦吐き気、おなかのあたりの不快感
⑧めまい、ふらつく感じ、気が遠くなるような感じがする
⑨寒気がする、または熱っぽく感じる
⑩からだの一部がジンジン、ビリビリとしびれる感じがする
⑪今、起こっていることが現実ではないような感じ、自分が自分でないような感じ(離人症状)
⑫コントロールを失うこと、または気が狂ってしまうのではないかという恐怖⑬このまま死んでしまうのではないかという恐れがある。
何個も、私には、心当りがある。
『多くの場合、10分以内にピークになり、30分から長くても1時間以内でおさまる。発作は何回も繰り返す』
これも、経験済みだ。
暑さやモワッとした空気がパニック発作を引き起こしやすい。
パニック発作を起こした後、リラックスすることがない、イライラしている、落ちつかない、疲れた感じが続いている。
自分の今までにおきた症状を思い返すと、中学生のころには、こんな症状がもうあった気がする。
病院へ行って、今よりマシになれるなら、活動はしやすくなる。
初めてのメンタルクリニック。
受付で名前を言うと、なるべく詳しく記入して下さいとB5サイズの用紙と、ボールペンを渡された。
「窓際の席に座って記入して下さい」
穏やかな口調で、事務員にそう言われた。
受付の隣りには、大型のテレビが設置されていて、森林の動画と、静かなクラシック音楽が流れている。
そのテレビの前に、ふんわりとしたソファーが、何個も置いてあり、診察待ちの患者が数人座っていた。
私はテレビの前を横切り、窓から外の景色が見える、カウンター席に座った。
名前や生年月日、住所、電話番号などを記入していくと、どんな症状が、いつ頃から始まったのか、などの記入をしていく。
用紙の質問欄から書いた文字がはみ出るくらい、自分の症状を細かく書いた。
記入漏れはないか見直して、先程の受付へ用紙を提出した。
「名前が呼ばれるまで、おかけになって、お待ち下さいね」
「はい」
私はカウンター席に戻り、落ちつかない気持ちで、窓の外を眺めた。
陽射しを受けた木の葉っぱが、座った席から見ていると、透明感のある黄緑色になっている。
表が濃くて、裏は薄いのか。
木の葉ですら、裏表があるのか。
外を吹く風で、細い枝が、ゆらゆらと揺れる様子をずっと見ていた。
揺れている物は、好ましいかもしれない。
頑張っている姿を、見ている気になる。
カウンター席の左後ろが、診察室へ向うドアらしく、看護師がドアを開けては、患者の名前を呼び、患者と挨拶をしてからドアが閉ざされる。
4、5人の患者が、私の背後を通った辺りで「高橋裕子さん」とドアを開けた看護師に名前を呼ばれた。
「あ、はい」
私は椅子から立ち上がり、開けられたドアの中へ入って行った。
「こちらで、お待ちくださいね」
3つに区切られた、部屋の真ん中、オレンジ色のカーテンを捲って、中へ入った。
丸椅子に、落ちつかない気持ちで座っていると「カバンは、壁脇のカゴに入れても、かまいませんよ」
思ったより、若い女性が現れた。
先生かと思っていたら違うようで「カウンセリングを行います」と言われ、カウンセラーの名前と、守秘義務についての説明の後、出生地、両親、兄妹、仕事と次々に聞かれて、カウンセラーは、私の話すことを、家系図を書くような図面で表示していった。
親が離婚していると話したところで、カウンセラーは「うーん」と独り言を言った。
私は自分の過去から話し進めていくうちに、泣いてしまった。
カウンセラーは、目の前に置いてある黄色いボックスティシュを「どうぞ、使って下さいね」と勧めてくれた。
「すいません」消え入るような声に、なってしまう。
今まで、嫌なことも、何ごともなかった顔をして、知人友人とは過ごしてきたけど、こんなふうに、自分の弱点を、人前で洗いざらい吐露するのは勇気が必要だったし、話す内容にも戸惑いがあった。
数十分のカウンセリングを終えると、書き込んだ用紙を持ち、カウンセラーは診察室から出て行った。
流れる涙を拭ったティシュが、手の平の中で丸くなる。
それで、出てくる鼻水を抑えていると「こちらへ、どうぞ」
先程の看護師に、ドアから直線上の別の診察室に、案内された。
「どうも、高橋さん」今度こそ、クリニックの先生だ。
細身の男の先生は、気さくで優しく話してくれる。
そんな先生に対して、私は顔を見ることが、なかなかできず、診察室の壁に貼ってあるカレンダーを見ながら、先生の顔を見ずに、会話をした。
「少しうつ病と、パニック障害だよ」
先生は目の前のパソコン画面に入力した薬の説明をして、2週間後にまた来て下さいねと私に言った。
私は頷いて、診察室を出た。
涙で目も鼻も赤くなっているだろう私の顔。
なるべく髪の毛で顔を隠して診察料金を払うと、2週間後の予約をして、初めて見るクリニックの診察券を医療事務から手渡された。
そして1番近くの、歩いて行ける調剤薬局の場所を教わると、外へ出た。
駐車場に駐めてあったスクーターへ戻ると、薬局で買った水で、頓服薬を飲んでみる。
数分後、自分の身体から、力が抜けるのが実感出来る。
逆に、こんなに体に、力を入れていたのかと驚く気持ちもあった。
メンタルクリニックは、長い坂道の途中にあったが、その坂道を下ると、予定していたホームセンターへ向かった。
今日は晴れていてくれて、助かる。
頓服薬を飲んだためだろうか。
口角が上に上がる。
きっと自分の顔面も、ガチガチだったに違いない。
今日の予定は済ませた。
アパートに戻り、部屋のテーブルに、透明な袋に入ってある藁を置いた。
今日、ホームセンターを2軒周り、一つだけ、売り場にあった藁だ。
60センチくらいの藁が、透明な袋のなかで、2つの束になって入っている。
これで600円くらい。
スクーターで帰宅するときは、両足で挟んで移動するのが、ちょっと大変だった。
同じホームセンターで、五寸釘を探したが、その名前では、数多くある釘売り場では見当たらなかった。
藁を床に置くと、スマホで五寸釘を調べるために検索をする。
五寸釘は、約15センチの釘のことか。
その長さで、釘売り場を見て歩くと、左側の大きめの釘売り場にあった。
右に行く程に、釘の大きさが小さくなるように、陳列されていた。
1袋に、4本入っている。
手の平に乗せると、私の手首から中指までは、ありそうな釘だ。
それを2袋、売り場カゴへ入れた。
ホームセンターのレジの人は、この買物商品を見て、何か思うだろうかと、お金を支払うときに、レジの人の顔を見たけど、何も表情には出さない。
まぁ、それが普通であり、余程のオカルト好きでなければ、ピンとも来ないだろう。
自室のテーブルに置いてあったぬいぐるみは、押入れにしまった。
そして藁の入った袋を開け、束ねられた左側の藁を取り出した。
袋を開封して持ち上げただけで、パラパラと屑藁が落ちる。
藁ってこんな匂いだっけ。
動物園を思いだした。
鼻を近付けて、よく匂いを嗅ぐと、畳の匂いのような気もする。
スマホの動画サイトで、藁人形の作成方法を閲覧した。
ごく単純な作りかただ。
だけど『この藁人形の作り方は、藁人形の販売業者など呪術者でも、この作り方で藁人形を作成している呪術者が多い方法となっています』と説明書きをしてあったので、この作りかたで作成することにした。
親指と人差し指で輪を作りその中に入る分量の藁を、藁束から引き抜く。
藁は櫛を通したように、ストレートに束められているわけではないから、もそもそとゆっくりと引き抜いた。
力加減次第では、途中で藁が切れてしまう。
手になる部分の藁を、最初に作る。
テーブルの上で、藁を立て端を揃えたが、藁の形状を見ると、太い部分から細くなっている部分がある。
このままでは、片手が細く頼りなく出来上がってしまう。
目分量で、両手が均等な太さになるように束ね直した。
藁の中に、細く乾燥し、3本に分かれた1つの茎に、黄土色の粒が12個付いているのを見つけた。
1つを茎から離して、爪で割ってみると、くすんだ色の米粒が出てきた。
残りの11個も、中身を出すと、同じような米粒だ。
然るべきところへ混ぜてもらえずに、こんなかたちで私の元へ来てしまったのね。
集団から閉め出されたような、哀れさを感じた。
ゴミとして捨てるのは、更に哀れな気がした。
除け者のようになってしまった稲穂には、なにか同情してしまう。
私はカバンの中からポーチを取って、12粒の米を紙で包み、しまった。
藁人形作りには、麻縄など自然の紐が適しているそうで、助言通り麻縄を使うことにした。
両端を巻き結びで結んで、最後は玉結びをする。
手を作ってみて、こんな形状に入っていた納豆があったなと、ふと思う。
手を作ったときの藁の分量より倍の量の藁を、両端の太さが均等になるように束ねて、頭になる部分の藁を紐で結び、人の漢字のような形になるように、束ねた藁を2つに開いたら、作っておいた手の藁を開いた部分に通した。そして通した藁の直ぐ下を、紐で結んでいく。
その下をまた2つに広げて、脚になる部位を1足に2ヶ所、等間隔になるように結ぶ。
左右の脚が紐で結び終えたら、頭部、両手、両足の必要のない部分の藁束をハサミで切る。
普通のハサミでは、切り進まない。
ハサミをキッチンバサミに変えて、藁束をカットするが、私には、かなり力が必要となった。
一気にカットしなければ、ボサボサの先端になると思われた。
何度かハサミを両手で持ち、力を加える。
高さ30センチ程の藁人形ができた。
これ以上太い人形を作るとしたら、カットはハサミでは無理だ。
斧とか、ナタとかあれば楽かもしれない。
購入した藁で、藁人形は、30センチくらいの物は4つ作ることが出来た。
カットされた藁クズも、大きめのコンビニ袋に結構な量で入っている。
テーブルは、鉛筆削り器の底に残っているような、黒い粉状のもので汚れていた。
藁って、ストローのように中心部分が丸くなっているとおもったけど、押しつぶされたのか、そんな形の物はなかった。
辺りに散らばった藁は 、さきイカでもこぼしたようなありさまだ。
ゴミ袋に入れた藁で、小さめな藁人形も何個かはできそうだったけど、地域指定のゴミ袋へ更に捨てた。
右手の中指の側面は、少し赤くなり痛んだ。
藁人形のカットには、軍手も必要かもしれない。
ハンマーや五徳、白装束、高下駄などは、通販サイトで購入して用意してある。
通販サイトでは、イベント用として、藁人形も売ってはいたが、人形だけは自分の手で作りたかった。
市販品では呪物としての効果が、期待できない気がしたからだ。
白粉、口紅、ロウソク、丸い鏡は100円ショップで購入済みだ。
押入れを開けると、それらが入っているダンボールを出して、作った藁人形を入れて、ガムテープでダンボールの上を塞いだ。
森くんからもらった耳の垂れたぬいぐるみは、藁クズの中に入れ、枯れたかすみ草を被せた。
ゴミ袋を玄関の側に置いた。
もう、このアパートとは、さよならだわ。
私は地元のM市にある、古い木造建築のアパートを借りていた。
部屋は今よりも狭くなるしエアコンも付いていない部屋だけど、もはやそんなことはどうでもよかった。
そのアパートに決めたのは、神社に近かったからだ。
数カ月に、同窓会で集まった、あの神社。
そして、そのアパートからだと、歩いてでも職場へ向かうことが出来る。
引越しのための断捨離は、かなりやった。
皿類から、まな板、包丁まで捨てた。
服もかなり捨てたけど、新たに買った服が1枚だけある。
Uネックの、白い前ボタンの長袖ワンピースだ。
古着屋で購入したけど、少しくたびれた服のほうが、心地良く着られるし、値段も700円だった。
もう、ダンボール2つとテレビ、布団を引越し業者に運んで貰うのを待つだけだ。
買い置きしていたパンを食べて、今日メンタルクリニックで処方された、向精神薬を飲んだ。
楽になれると思って飲んだ薬だったが、数分後に酷い頭痛がする。
こんな頭痛がするなら、明日も、この薬を飲むのは苦痛だ。
自分のカバンから鎮痛剤を取ると、それを直ぐに飲んだ。
ずきんずきん痛む頭、押入れから掛ふとんだけ引っ張り出して、その中に包まった。
手繰りよせたカバンから財布を出すと、臓器提供意思表示カードを財布のカード収納の1番上に目立つように浅く刺しておいた。
コンビニのレシートの裏の白面には、引越し先の住所と実家の住所、電話番号をボールペンで書いておいた。
今後何かあれば、アパートの荷物や残務処理は、母親が行うようにと。
私にとっては、いらない身体でも、必要としている人には役立ててもらいたい。
古着屋に陳列している商品を思い出す。
私が白のワンピースを購入した店では、色別にハンガーにぶら下げられた服が並んでいた。
白の服が欲しければ、白コーナーへ見に行けばいいだけだ。
それと同じような物だ。
私の身体の欲しい臓器があれば、好きに取り扱ってくれて構わない。
そして願わくば、私の身体から取り出された臓器だけは、幸せな人生をおくれる人に移植されてほしい。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます