第4話 愛の交わりと別れ
「あー、お腹が痛い」
気持ちが、声に出てしまう。
給湯室で水を注いだコップで鎮痛剤を飲むと、腕時計を見て、次に飲める薬の時間を確認した。
背後からマグカップを持つた、同僚女性に声をかけられた。
「お腹痛いって、聞こえましたよ。女の子の日ですか?」
「そうなのよ」
「あたしなんてPMSかも知れない。生理が来る前は、ものすごーくイライラしてしょうがないもん。でもさ今月は、会社の雰囲気も穏やかで、超ヒステリックにならなくて済みそうだわ」
マグカップを洗いながら、給湯室にぶら下げてある、ふきんでカップをふきながら笑っている。
確かに、社内の雰囲気は穏やかだ。
「請け負っている現場数、順調だもんね。社内中がピリピリしていると、本当に切れそうで、手汗出る気分になるよねぇ」
勤務している会社は、男性社員の数のほうが多いが、決して女性社員も、少ないわけではなかった。
大昔、就職先を選ぶときは、大工になろうと思っていたけれど、今の会社に採用され入社すると、様々な資格が取得できる。
だから、この会社に就職した。
今では、電気設備系の資格取得もした。
今後も、取れる資格にチャレンジして行くつもりだ。ただ、宅建の資格取得は私には難しく、未だにチャレンジ中だった。
仕事が始まれば、男女の性別などは、全く関係はないが、生理日だけは、本当に厄介だ。
でも、毎日が楽しい。
仕事に恵まれ、なによりも愛する主人もいる。
後は、子供を授かるだけ。
家事、育児、仕事を背負い頑張って行く自信は 、私にはある。
そう思ってはいるが、そして今すぐ妊娠を望んでいるわけではないけど、生理が始まると、やっぱりがっかりする気持ちがあった。
まだ、先はある。
気落ちする必要なんて、ないわ。
作業服のポケットから、日焼け止めクリームを取り、首周りと両手の甲に塗り込むと外へでた。
まるで夏のような暑さだ。
握る車のハンドルも、朝にもかかわらず、早くも熱くなっていた。
社用車の、冷房は入れずに運転席の窓を開け、現場へ向かった。
冷房に慣れると、外仕事の現場作業は、私にはきつく感じてしまう。
仕事開始時間の30分前には、今請け負っている現場に到着した。
この時間のあいだにも、危険な場所はないか、目を皿のようにして、確認是正して歩く。
車置き場から、ドアを閉める音が、何度も聞こえるようになった。
請け負い建築物の、左側にいた私は、腕時計をみて、集まって来た従業員や職人に朝の挨拶をする。
「陣内さん、おはようございます。今日もいろいろとよろしくお願いします」
「おはよー、森ちゃん。今日は、暑くなりそうだなぁ」
今でこそ、親しげに会話をしてくれてはいるが、初対面の頃は、気難しい人で、朝の挨拶すら声をかけにくい雰囲気の人だった。
毎朝、欠かさずに行う朝礼。
陣内さんから受け取っていた、危険予知活動の紙面を、私が指名した人に、読み上げてもらう。
今日は、猛暑日になりそうだ。
まだ夏は先なのに、ここは、少し強面の陣内さんから、直々に喝を入れる気持ちを願い、書面の読み上げをお願いした。
陣内さんの、しわがれ声で声量のある読み上げは、朝の犬の散歩をしている年配のご婦人が、足を止めるほどの迫力だ。
陣内さんに続いて、私からは、今日1日の作業内容の説明をしてから、最後に、現場作業員の顔を見つめると「今日も1日、ご安全に!」
陣内さんの影響を受け、私もいつもより大声でいった。
続いて現場にいる作業員全員が「ご安全に!」と返答する。
やはり、大声だった。
現場監督として、今手がけている雑居ビルの図面と、カメラは常に身につけている。
仮設設備や足場施工の前後、使用していく材料を、綿密に写真撮影していく。
撮影漏れなどは、けっしてあってはならない。
それにしても、しゃがむ、立ち上がる、階段を上がるその度に、私のお腹は痛む。
忌々しい痛みだけど、しょうがないことだ。
さっき飲んだ薬では、痛みを取り除くのには足らないのか。
午前中の休憩時間には、また鎮痛剤を飲まなくては、やり過ごせない。
太陽に照らされた資材が、目に眩しく、その光を見ていると、頭もずきずきと痛みだしてきた。
そろそろ、空気が体に入るファン付のベストを着用したほうが、いいのかもしれない。
今日みたいな天候の日は、仮設事務所も含めて、まるで滝行をしたかのように、汗でびっしょりになるのだ。
もっと日焼け止めクリームを、厚塗りしておけばよかった。
陽射しを長時間浴びるのは、肌が痛くてしょうがない。
でも、そんな苦行に似た状況でも、私はこの仕事が好きだった。
喜びを感じることも、多々ある。
施工を手掛けた施設に、人々がたくさん集まり、賑わっていると、嬉しくなるのだ。
胸が、キュンとする。
その建物の仕組みや、裏側の細かい仕組みも、私の頭の中には入っている。
まるで、好きな人の全てを知っているような優越感だ。
そして、自分が手掛けた建物が増えるのは、楽しい。きっとこれは、現場に携わる人たち全員が、思うことであろう。
「森ちゃん、そろそろ休憩時間か?」
陣内さんに聞かれて頷く。
手慣れた作業員たちも、各持ち場を離れて、仮設事務所付近へ、集まってきた。
「いやー、今日の気温には参るなぁ。予報では30度近くまで行くらしいぜ」陣内さんは、大きな水筒を口にして、煙草を吸い始めた。
「森ちゃん、お菓子持ってきたんだが、食べるかい?」
側にいた作業員が、お菓子をくれた 。
チョコレートが、サンドされているクッキーだ。
気温の高さでチョコが溶け、それはそれで美味しかった。
薬を飲みたいから、何か食べれるのは助かる。
大昔の現場では、このような、やりとりはできなかった。
作業員の皆んなに、仲間として認められている。
ひよこからスタートだった私の成長も、長い期間に渡って、見守っていてくれただろう。
「暑いし、ヤローばかりでさらに蒸し暑く感じるけど、森ちゃんがいると、現場が明るくなっていいよなぁ」
私の周りにいた男性作業員も、それぞれの休憩スタイルだったが、その言葉を聞いて、笑って頷いていた。
私も30歳は軽く超えているのに、そう皆に思われているのが嬉しかった。
陣内さんが「この現場が始まるころに連れていた、子分はどうしたんだ?」
「子分って」私は笑った。
「退職しましたよ」
「そうかぁ。森ちゃんも大変だな。教えても直ぐに辞められたんじゃぁよ。いろはの、い位の仕事内容知ったくらいで辞めてくなんてなぁ」
まぁ、それはそうだろうけど、今ではこうして和気あいあいと全員で会話も弾むが、現場の人間関係に慣れるのも、大変な仕事のうちの1つだ。
その部分は、新入社員には自分の人間力で、どうにかしてもらわなければならない。
この会社を辞めて行く原因が、コミニケーションとは限らないが。
日中は暑いとはいえ、日暮れは涼しい。
今日の作業は終わり、現場の見周りを慎重に行う。
材料の確認をして、不足しそうな物は、発注するためにメモをとる。
現場の清掃を終えると、近くにある自動販売機から、冷えたカフェオレを買い、社用車に乗り、会社へ戻るため運転した。
この時間は、安心する。
職人からもらった、お菓子を食べ、カフェオレを飲む。
至福の一時。
信号待ちで車を停止していると、道脇を高校生の男子たちが群れて歩いている。
何か楽しい話しでもしているのか、笑いあって私の車のわきを通り過ぎていく。
笑顔を見せてくれて、心地よい光景だ。
自分の机に着くと、今手がけている現場の図面を広げて、数量拾いの計算を改めて確認した。
現場でメモをとっているので、材料の把握は確実に行うことができる。
作成してあった、安全書類を最後に見直す。
これは私のルーティンでもあって、今日の現場にいた人たち全員の、コピーしておいた免許証、緊急時の連絡先を1人ひとり見ていった。
そして、今日の作業の様子を1人ひとりの顔を思い浮かべながら思い出す。
「森ちゃん」
呼ばれて振り向くと、上司のなかでも苦手な1人が手招きしている。
現場に出て、口の中に虫でも入るのか、苦虫を噛み潰したような顔ばかりを、社員に見せる苦手な人だった 。
そんな虫がいるなら、私にも、お教え願いたい。
同じように、口の中に虫を入れ噛み潰して、会話をしてあげたい。
なんなら卓上に、苦虫を盛った皿を置いて、上司と差し向かい食べながら会話しても構わない気分だ。
昆虫食も、そこそこ認知度が、今の時代にはあるわけだし。
そうでもしなければ、この人と打ち解けることってあるのかな。
勤続年数も、私はそこそこだが、この上司には気を使うばかりで、さっさと帰宅すればよかったな。
「なんでしょうか?」
「今の現場、かなり順調だな」
「ええ、天候にも恵まれてますし」
積雪のある冬季は、現場作業前に、除雪作業から始まる。
作業中の積雪も、現場では、影響がないともいえない。
「森ちゃんに、明日、青葉台の設備修理を頼みたい。今日の現場は、私が明日行くから」
「青葉台ですか。片道で6時間かかる、あの青葉台ですか?」
強調して、片道の時間まで言ってみた。
「週末で、道も混むかもしれないが、なるべく早く行ってくれ」
言ってくる本人に、あなたがいけば!とも言えないのが平社員の辛いところだ。
青葉台の現場には携わっていない、この上司に言ったところで、面倒なことにしか展開はしないだろうけども。
直ぐに返事をせずに、上司の顔を見つめた。
ありったけの疲労感を、全身から、自分の顔の表情に集中してだした 。
「青葉台からの帰り道、作業内容と道程の具合を見て、ビジネスホテルに宿泊して帰ってきてもらっても構わない。領収書を経理部に出してくれ。以上だ」
これで、私の休日は無しになったが、修理を依頼してきた現場へ行くのは、重要だ。
青葉台の店舗も、営業に差し障りがあったら、困るのはわかっているし、早急に駆けつけるのも、我社の信頼関係に繋がる。
我社に来客もいる場合があるので、建物名ではなく、住所で現場名を話すことが多いが、青葉台は、クリニックだ。
ここは依頼者の設計要望とコスト面、納期で、職人たちともめた建築物でもある。
依頼者と職人の間で、板挟みになったうえに、何度もくり返される図面の修正にも手こずった。
そして、突然現場を依頼者が見に来ることもあるので、質問や説明に時間を取られて、慌てることもあった。事前に、来ることの連絡が欲しいものだ。
そんな、青葉台だった。
帰宅途中に、セルフのガソリンスタンドによって、社用車に満たんに給油した。
給油口を取り出す自分の右手を見る。
人差し指の上から、指の付け根までが痒い。
いまではカサカサの皮膚になっていたが、そうなる前には、小さなプツプツが皮膚に出てきて、痒くてたまらなかった。
現場作業で、手についてしまう塗料が原因だったけど、皮膚科に受診するのが面倒くさくて、市販品のハンドクリームを、あれこれ試していた。
有名な、青い缶のクリームを塗り込めて、ここまでの状態になった。
「ただいまー」
マンションの玄関内から声をかけると、小さい声が「おかえり」と聞こえる。
寝室のほうからだ。
ドアを開けると、主人が部屋着のズボンに、右足を入れて着替えている最中だった。
それでも構わずに、私は主人を抱きしめた。
よろけて、ベッドへ倒れる。
「明日、片道6時間の現場へ修理に行くことになったんだよぉ」
主人の匂いをかぎ、顔を上げて表情をみる。
安心する。
この顔をみると。
そして、甘えたくなる気持ちになる。
「いつもながら、大変だな」
片足だけのズボン姿。
私が、左足にもズボンを履かせてあげる。
「生理と片頭痛で、調子わるかったぁ」
「体の調子が悪いのは、辛いな。しかもこの季節、寒暖差もあるからな」
「寒暖差かぁ。場合に寄っては帰り道、ビジネスホテルに泊まってもいいって、上司にいわれたけど、泊まらずに帰ってくるからね。あなたは週末、なにして過ごすの?」
「決めてないけど、天気が良さそうだから、ランクルをピカピカに洗車して掃除したいな」
「毎回、ほぼそんな感じじゃない。私、たまにランクルに嫉妬するわ」
ハハハって笑ってくれた、主人の声が嬉しい。
私は、部屋着と下着をクローゼットから取り出すと「お風呂に入ってから、夕飯作るね」
風呂場へ行く妻の後ろ姿を見て、俺は寝室の天井をじっと見た。
朝起きたら、ベッドには1人だった。
サイドテーブルを見ると、時間は9時半。
やけに寝たもんだな。
洗面所へ行ってから、ダイニングに行くと、ハムエッグの朝食が置いてあった。
朝早く出勤しただろうに、朝飯の用意までしてくれたのか。
妻の手料理をありがたく食べ、食後の皿の後片付けをした。
リビングルームのカーテンを少し開き、外を覗き込むように、顔だけ出した。
晴れてるな。
天気予報通りだ。
もしも雨ならば、このままベッドへ戻ろうかとも思っていたが、Tシャツにカーゴパンツを履いて、Gジャンを持って外へ出た。
このまま洗車場へ向かいたいが、車を洗うための道具が大分消耗していた。
車用品店か、ホームセンターか、どちらにいこうか。
車のエンジンをかけると、近場のホームセンターへ、向かった。
まだ午前中なのに、陽射しも強いが、気温も高い。
この時間帯で、26度かぁ。
車のハンドル裏にある、走行距離数の上に、表示されている温度計をみた。
昨日もかなり暑かったけど、今日は何度まで気温があがるやら。
ホームセンター内に入ると直ぐに、テントやキャンプ用品のディスプレイが、楽しげに設置されていた。
見ているこっちも、ワクワクする。
テントの側に置かれたパンフレットを見ると、昔と違って、今は随分簡単にテントを設置できることがわかる。
星空の下で、焚き火を見ている時間は、素敵だろうな。
テント内に入り、置かれているベッドマットの硬さも手で触ってみた。
これも昔のものと違って、キュッキュッとマットレス表面から、気に触る音がでない。
マットレスくらいは、買うか。
俺の車に積んでおいて、最近流行りの、車中泊ってのもやってみたい。
想像は膨らむが、本来の目的であった、カー用品の陳列棚へ行った。
必用な物をカゴに入れて、1番端のレジの会計待ちに並んでいると、右奥に観葉植物コーナがある。
レジ待ちの行列から外れると、長細い水入れに、立て並べられている花をみた。花の名前には全く疎いが、この花の名前は、知っていた。
かすみ草だ。
ピンク色の花が、真ん中に1本だけ混ぜられていて、そのピンクの花は、花の周りが、別のビニールで保護されていた。
裕子に、似合いそうな花だな。
俺は、ストーカーみたいな行動を、何度やったかな。
裕子の仕事終わりから、乗る電車までの、僅かな距離を、一定の間隔をあけて歩く。
一度も振り返ってくてたことはなかった。
裕子が乗る電車を見送って、そして自分も家に帰った。
このかすみ草、裕子の住んでいる、アパートのドアに置いておきたい。
花を見て、喜んでくれたら、それで嬉しい。
買い物カゴの中に、かすみ草を入れ、ふたたび会計待ちの列に並んだ。
かすかに冷房のきいていた店内から外へ出ると、さらに気温の上昇を体感する。洗車場へ行っているうちに、かすみ草が枯れてしまわないだろうか。
このかわいい花の状態で、ドアの前に、置いておきたかった。
先にK市へ行ってから、車の洗車を行おう。
週末の日中は、映画館のある百貨店前の道は、混んでいた。
立体駐車場へ入る車と、直進したい車が、混ざっているためだ。
俺は直進したい。
ノロノロと車を前進させていると、片側一車線の逆の道から、スクーターに乗って走り去って行く、裕子の姿を見た。
バイクの運転をしているから、当たり前だろうけど、前方しか見ず、無表情な顔をしていた。
俺は、混んでいる道から外れるために、ウインカーをつけ、反対車線へ車を曲がらせた。
こっちの道は、全く空いている。
ガソリンスタンドで、スクーターに、給油している裕子を見つけた。
車で裕子を追跡し、様子を見ている自分は、まるでホシを追う刑事か。
ストーカーからは、昇格したのか。俺のモチベーションは。
内心そう思いながらも、車の後部座席に置いておいた、かすみ草の花束を掴んだ。
裕子のアパートのドアの前に置いておく計画だったが、本人をみつけて、ここまで来てしまった。
計画は変更だ。
多少、勇気は必要だが。この臆する自分の性格は、チャンや人生の岐路を時には無視してしまう。
選ぶ道が正解なのかは、進んでみなければ、分からない。
中学生のころの、自分の気持ちを、告白できなかったのも一つの選択の失敗事例だ。
バラード曲が、聴けない病なんだ。
どこか、俺は変なんだ。
行動を、おこしてしまえ。
裕子の後ろ姿は、もうヘルメットを被り、スクーターを走らせようとしている。
車のウインカーをつけて、運転席から降り、裕子の元へ走って行った。
ガソリンスタンドから出るために、左右確認している裕子と目が合った。
俺を見て、驚いている。
「こんな場所で、渡すのも変な話だけど」
裕子に、かすみ草を手渡した。
「え、お花?ありがとう」
突然の状況だったが、裕子は花束を受け取ってくれた。
「でも、なんで?」
そう聞いてくるのが、普通だろう。
俺は、ホームセンターへ買い物へ行ってからの話を、説明した。
「花束をプレゼントされるのって、初めてで、うれしいよ。森くん」
裕子は、スクーターの前に付いているカゴに、花束を入れた。
じゃぁ、と言ってこのまま去るのも去られるのも寂しく感じる。
「あのさ、天気もいいし、どこかに行かない?裕子が予定がなかったらだけど」
「予定は何もないけど、でもスクーター、どうしよう」
「一度、アパートへ戻ろうよ」
裕子は頷いた。
「それじゃあ、私の後ろに車で、ついてきてくれる?」
「わかった」
それはもう、得意としているかもしれないと、心の中で思いながら、苦笑してしまった。
アパートへ向う道は、裏道とでもいうのか、住宅地を右に左に何度も曲がり、裕子が住むアパートの前の道へ出た。
今の道、俺覚えられたかな。
渋滞を避けるショートカットの道だろうけど、住宅地というのは、だいたい似ていて特徴がない。
スクーターを駐めた裕子が運転席へ近寄ってきた。
「お花を部屋に置いてから、戻ってくるね」
「うん、ゆっくりで、いいからね。俺、一服しているから」
「わかった」
アパートの部屋に入った裕子は、花を飾るために、花瓶になりそうな物を探したが、風呂場にある洗面器を取り敢えず、代用として使うことにした。
フィルムを剥がすと、花の優しい匂いがする。
真ん中に、1本だけあるピンク色のガーベラ。
花弁を保護するフィルムを取るか迷ったが、花瓶を購入するまで、そのままでいてもらうことにした。
水の入った白い洗面器に、根本の輪ゴムを外し、花を円形に並べ、居間のテーブルの上に置いた。
「輪ゴムで、キツキツだったけど、開放された気分でしょう?」
可愛らしい花に、問いかけると、出かける準備をする。
いつもの黒いリュックサックに、煙草とライターを追加するだけだけど。
「森くん、お待たせ」
「うん」
車の助手席を開けて、裕子が、ランクルに乗り込むのを手伝う。
同窓会のときの、スーツのスカートと違って、今日は黒いフレアースカートだから、車の乗り上がりは、楽だった。
「車の冷房、気持ちいい」
今日の気温では、ヘルメットにスクーターでは、暑かっただろう。
冷房の風向きを、裕子にあたるように、向きを変える。
「待っている間に、直ぐそこの自販機で缶コーヒー、買っておいたよ」
「ありがとう」
プルタブを開けて、裕子に手渡した。
「どこか、行きたいなって場所はある?」
「うーん、観たい映画は、見ちゃったし…」
笑ってしまった。
映画館ってここから、徒歩で行ける距離だよね。
「せっかく天気もいい事だし、少しだけ遠出しても、いいかな?山と海だったら、どっちに行きたい?」
「え、遠出、できるの?」
裕子は俺の顔をじっと見てから「海がいいな」といった。
ここからだと、海まで2時間くらいか。
手前の海から、すぐ奥に岩が点在と立ち並び、風光明媚な、観光地へ向うことに決めた。
混み合う市街地の道を抜け出ると、カーブの多い、山や川が見える道を走る。
「木の葉っぱが、光を受けて、ピカピカしててキレイね。助手席の私からじゃぁ、川の景色が見れなくて残念だけど」
「帰り道には、見れるよ」
曲がり道には、コンクリートで覆われた、岩が突き出ているところもある。
カーブの多い道が続く。
「もう、お昼過ぎたけど、裕子お腹すいてる?」
「うん」
はっきりと言うのだな。
やや天然系なのを、忘れてたっけ。俺は、ニヤつく口元をすぼめて、笑いをこらえた。
「この辺だと、コンビニか、海辺の飲食店まで空腹を我慢していくかのどちらかかな」
「トイレにも行きたいから、コンビニに、よりたいけど、森くんは飲食店で食べたいの?」
「俺は、裕子の選ぶほうでいいんだ」
1時間程、車で走って、コンビニに到着した。
なかなか店のない道のためか、このコンビニには、イートインコーナーが合った。
トイレから出て来るのを
雑誌を眺めながら待っていた。
手をハンカチで拭いた裕子が「まだ買ってなかったの?」
「あ、一緒に選ぼうかと思ってた」
冷えたドリンクが収納されている前に、置かれた買い物カゴを俺がもつ。
裕子は、オレンジジュースとフルーツと生クリームの入った、サンドイッチを選ぶ。
「これ、すごくおいしいのよね。置いてある店と、ない店があるけど」と嬉しそうだ。
俺は、冷えたお茶と、おにぎり3個を選ぶ。
レジへ行くと「別会計で、お願いします」裕子は店員に言う。
「これくらい、おごるのに」
「友達なんだから、割り勘が、当然でしょう?」
裕子に友達と言われて、心がチクッと痛んだ。
コンビニのイートインコーナーで、店前の広い駐車場の奥に見える森を、見ながら、遅い昼食を食べた。
「うーん、やっぱり、コレおいしい」
裕子は、ゆっくりと食べている。
俺は3個のおにぎりは、食べ終わっていた。
コンビニの外に出ると、設置してある灰皿に立ち寄り、煙草に火をつけると、隣りに立った裕子も、煙草を吸い始めた。
「煙草、始めたんだ」
「そうなの。森くんの影響大ね」
「なに吸ってるの?」
お互いの煙草を、1本交換した。
メンソール系の、軽い味だ。
俺の吸っているのは、もっと強い味の煙草だったが、もうむせることもなく、裕子は平気な顔で、煙草の煙をくゆらせていた。
風もなく、まっすぐ上へ行く煙。
「じゃあ、車へ行こう。もう直ぐで、海に着くから」
車内で、音楽をかけてみる。
バラード曲ばかりのCDだ。
音楽に耳を傾け、運転している。
なぜだか、今日は胸が痛くならない。
バラード曲聴けない病が、発症しなかった。
「裕子」
名前を呼びながら、左手を裕子の方へ伸ばした。
「手を、繋いでくれないか」
同窓会の合った日、煙草にむせた裕子の背中を触ってしまって、軽く裕子に飛び退られたが、手なら大丈夫なのではないかと思った。
裕子はそっと、手を乗せた。
「イヤじゃ、ない?」
「うん」
「海につくまで、できるだけ、手を繋いでいていい?」
「うん」
「肩は?肩に手を回してもいい?」
「わからない…」
「そっか」
3曲目のバラードが、切なくゆっくりとした曲を流す。
「あのね、中学生のときに母親の恋人に、性的な暴行を受けてたの。いつも押し倒されて…。そのせいで、男の人に対して、自然な触れ合いができないっていうか…。森くんが、キライだから、肩に手を回されるのが、イヤって意味じゃないの。大昔の出来事なのに、未だに、ビクつくなんて、私って変すぎるよね」
衝撃的な話しだった。
中学生時代の、毎日楽しそうに過ごしていた裕子の姿から、今、聞いた話しが結びつかない。
「その、裕子のお母さんの恋人って、まだ居るのか?」
「うん、今も用事で、実家に呼び出されて行くと、居たりする。帰り道に、気持ち悪くなってきて、吐きそうになったりもする」
トラウマってやつかな。
中学生時代から、こんにちまで、それを抱えていたのか。
「車、引き返して、そいつのことを、ぶちのめしに行こうか」
本気で、そう思った。
裕子が、俺の顔を見ている。
「元自衛隊で、今は造園業者やっている、巨漢なヤツよ。2人で挑みかかっても、勝てないかも。それに、森くんには関係ないことだし」
繋いでいた手を、強く握った。
「関係なくない!」
俺はきっぱりと言った。
車窓を眺めていた裕子は、黙っている。
「ライン、せっかく交換してくれたのに、消してしまってごめんな。アレは俺がやったことじゃないんだ。俺が、削除するわけないだろう?わかるだろう?裕子」
窓の外を見たまま「そうだったの」ぽつりと裕子が言う。
しばらく無言が続いた。
静かにバラード曲が、車の中を満たしている。
お互いの頭の中は、わからないけど、今、海へ着く。それ以外は、考えては、いけない。
バス停の側にある、無料の駐車場に車を駐めた。
もう、夕方に近い時間帯だ。
駐車場も空いていた。
土産物店、鮮魚店、飲食店は営業中だ。
「裕子、海鮮食べないか?ドライブをつき合わせたから、俺がおごるぜ」
裕子は飲食店の前に立ち「まだお腹すかないなぁ。森くんは、お腹空いたの?」
「食べれないほどじゃないけど、食事はもう少し後にするか」
ソフトクリームを2つ、土産物店で買うと、海辺へ歩いて行く。
左側には、松の木々が立ち並ぶ。
歩道には、所々に松ぼっくりが、落ちている。
小さな短いトンネルを歩くと海辺に出た。
「海の匂い、久しぶりに嗅いだわ」
「俺もだよ」
「この海岸は、小学生の旅行に来たとき以来だけど、変わってない気がする」
俺は、何度か来ている。
小学生以来と言う言葉にちょっと驚いた。
「そんなに遠くないのに、真子と来たりしなかったの?」
気温の高さで、ソフトクリームが、下へ下へと溶け落ちる。
「真子とは、就職してからもしょっちゅうあっていたけど、真子の家でDVD観たり、お互いに凝り固まった肩揉みしたり、出かけてもカラオケボックスくらいだったかなぁ。真子の部屋で寝そべって、ふくらはぎマッサージして貰っている最中に寝てしまって、次は私がマッサージする番だったのに、翌朝に歯ぎしりしていたとか、イビキかいていたとか、散々いわれたこともあったな。でも真子に彼氏が出来てから、あまり遊ばなくなったけどね」
裕子の歯ぎしりか、聞いてみたいものだな。
「だんだん年とると、そうなっちゃうよな。おれも似たようなもんだ」
ソフトクリームの、下の紙を剥がすと、裕子はスカートのポケットへ入れた。
とけて手に着いたアイスを海水で洗っている。
「この季節でも、海水は温かいのね」
続いて、俺も海水に手を浸した。
水中を見ると、石がゴロゴロと見える。
この海岸には、砂浜はない。
全面に見える石の山。
その隙間から、沖が見える。
「岩場に囲まれてて、ここだけプールみたい」
裕子は、脱いだ靴を片手に持ち、波打ち際を歩いている。
大きな波がこないから、慎重に歩けば、服を濡らす心配もなかった。
これから帰るであろう、家族連れとすれ違う。
小さな幼児が、お父さんとお母さんに手を繋がれて、時には腕を持ち上げられて、キャッキャッとはしゃいで笑っていた。
海辺の隅まで歩くと、ゴツゴツとした岩で到着だ。
「ねえ、この岩の裏ってどうなっているのか知ってる?」
「そこまで行ったことないなぁ」
「せっかく連れて来てもらったんだし、覗いてみてもいい?」
返事を返す前に、裕子は海水に足を入れ、岩の裏へ周った。
俺はカーゴパンツの裾を上に引き上げて、裕子の後に続いた。
岩裏に来てみても、対して変わりはなかった。
だが、斜めになっている、小岩があり、ゆっくり座ることは出来た。
岩に座った裕子は、カバンから煙草を出すと、海水に足を浸したまま一服する。
「夕方の海って、気持ちいいね。森くん誘ってくれてありがとう」にっこりと微笑んだ裕子が愛おしい。
「美しい景色ね。気持ちがとっても和む」
水平線の色が濃く見え、夕陽を反射している海は、何時までも、みていられそうだ。
裕子はカバンから、携帯灰皿を出すと「これも、森くんのマネ」肩をすくめて、にっこりとする。
「そろそろ、正規ルートへもどろうか」
裕子が、立ち上がった。
「裕子、手を繋いでくれ」
立ち上がった裕子の片手を握った。
そのまま俺の方へ、引っ張る。
引っ張られて、裕子が屈んだ。
もう一つの手も繋いだ。
「俺、裕子が好きだ。好きだったじゃなくて 、裕子が好きなんだ」
最後の言葉が言い終わらないうちに、気持ちが先走り、裕子にキスをしていた。
そのまま裕子を押し倒した。
裕子が震えているのに、気がついた。
パッと離れた。
「ごめんな。怖くさせて」
裕子は首を振る。
「私のほうこそ、ごめんね。いい歳してて、こんなありさまで」
裕子は、泣いていた。
「裕子は俺のこと、今も好き?」
裕子は頷いた。
「こんな俺だけど、裕子を抱きたいんだ。受け止めて欲しい」
裕子は俺を見て、しばらくしてから頷いた。
裕子を抱き寄せると、着ていたTシャツとスカートを脱がせた。
俺のGジャンを岩へ敷き、裕子を寝かせようと思ってたが、これではまた、怖がらせてしまうと考えなおした。
押し倒してはいけない。
怯えさせてしまう。
車の中で話してくれた、性的暴行が、蘇るのだろうか。
裕子を俺の体の上に乗せて、その顔を引き寄せて、またキスをした。
脱いだカーゴパンツは、Gジャンの横に投げた。
裕子のブラジャーを外し、胸に、口づけする。
少し震えているのがわかる。
「裕子、裕子に触れているのは、俺だけじゃないよ。海の水だって、裕子に触れている」
「うん」小さな声で返事をする。
「あのね、森くん。こんな歳で恥ずかしいんだけど、私、初めてなの」
「俺が、全部わかっているから、安心して」
俺の上に乗っている裕子と繋がったまま、浅瀬の海へ潜った。
海の中で、裕子の背中に触り、強く抱きしめる。
岩場へ上がり、濡れた髪の毛で、いつも隠れていた、おでこが出ている裕子が美しく見える。
そのおでこにもキスをし、失いたくない気持ちが湧き出て、また抱きしめる。
Gジャンの上に裕子を寝かせて、裕子の上から顔をみた。
「この体制だと、やっぱり怖いか?」
「大丈夫」
途中、震えているのに気がついて、裕子の上半身を起き上がらせた。
もう、空には星が出ている。
ハンカチで、丁寧に体を拭いてあげた裕子に、服を着せると、また抱き寄せて「愛」と言ったら、裕子からのキスで、続く言葉が遮断された。
「もう、なにもいわないで森くん。今日のことは今日のこと。もう私たちは、会わないほうが、きっといい。そういう恋もある。これ以上会ってたら、お互いに辛くなるだけだよ」
苦しい気持ちで、マンションの駐車場に、車を駐めた。
家へ入ると、妻は帰宅していた。
「こんな遅くまで、どうしたの?スマホも繋がらないし。どこまで行ってたの?」
寝室で、部屋着と下着を持つ俺に、妻は心配というよりは、怒った口調で聞いてきた。
何も隠し事をしないのが、2人のルールだ。
「好きな女を抱いてきた。相手は、きみがラインを削除した人だ。こんな俺とは離婚してくれて構わない」
俺は、突っ立っているままで言葉も出ない、妻の横を通り抜け、風呂場へ向かった。
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