第2話

「…ルチカ?」


 クッキーの焼けた頃合いで、ルチカに報告しようと家を出たヴェラは、そこで初めてルチカが居なくなっていることに気がついた。

 一瞬どきりとしたが、ルチカのことだし大丈夫と自分を落ち着かせる。

 木に隠れて見えないのか?それとも背の高い草に埋もれてしまったのか?


 きっと彼女のことだから、かくれんぼでもしているのかどこかでお昼寝でもしているんだろう。

 そんなことを考えながら、ぐるりと家のそばを歩き彼女の姿を探す。


 いない


 どこにもいない


 胸が詰まるような感覚に襲われた。

 急いで家に駆け込む。

 体当たりするように戸を押し開けたヴェラは、情けない顔をしていた。


「ルチカが、いなくなっちゃった…」




 真っ先に浮かんだのは、攫われたのではないかという不安だった。

 いつどこで愛娘を狙っている者がいるかわからない。これまではただ見逃してもらっていただけかもしれない…。


 扉の前で立ち尽くすヴェラを押し退け、急いで花畑へと走った。

 中央にある木から花畑の隅々を見わたす。


 そして、気づいた。


「––– 魔物だわ…。魔物が、結界を超えてる」


 小さな小さな、魔力の残滓

 ヒルデがこの世で最も憎むその存在の、ごく僅かな魔力の残滓が残っていた。


 ––– 真っ直ぐ、森へ向かって



 しばらく歩いていると、濃い霧のようなものが行く先にあることに気づいた。

 ルチカが森を進んでいる間も、あの魚は導くように目線の先で青い光をちらつかせいた。


 いよいよ濃霧まで着いたルチカは、ゆっくりとそれに手を伸ばした。


 それは壁だった。

 温度も質感も持たない壁だった


 触れた感触がないのに確かに壁がある。触れているであろう指先は、どんなに力を込めても霧の中に進むことはない。

 しかし不思議なことに、あの青い魚はその壁の向こうで挑発するように身を踊らせている。そしてルチカの目の前でいとも簡単に壁をすり抜けると彼女の周りを泳ぎはじめた。


 そしてそれは見つけてしまった。

 彼女が身につけている赤い宝石のペンダントの存在を。


 次の瞬間

 それはルチカの首からペンダントを奪い取ってしまった。


「…っ、やめて!」


 咄嗟に手を伸ばすが、またもや手指の間をすり抜けていく。

 そのペンダントは、ルチカがヒルデからもらった何よりも大切なものだ。


「返して…!ルチカの宝物なの、かあさまとお揃いの大切なものなの!」

 必死に訴え、取り返そうと腕を振り回すが指先を掠ることすらできない。


 その時だった。


「ルチカ!」

 後方から聞こえた見知った声に振り返ったルチカは、バランスを崩してしまった。

 足がもつれ、体が傾く。


 そして、壁に触れた。



 一直線に森を走る。

 魔物の魔力を、ルチカの痕跡を追って。


 どこで間違ってしまったんだろうか。

 毎日、森へは行かないようにとルチカに伝えていたつもりだ。もちろん、結界に綻びがないように確認していたつもりだった。


 いや、つもりなだけだったのかもしれない。

 ただ一刻も早くルチカの元へ。彼女の無事を願うばかりだった。


「ルチカ!」


 鮮やかな赤色が目に入った瞬間、名前を呼んでいた。

 安堵、心の底から安堵した。

 私の愛娘は無事だ。結界もまだ超えていない。


 そうしてルチカの元へ駆け寄ろうとしたその時

 こちらを振り返ったルチカは、致命的にバランスを崩した。




 キィィィィィィィィィィィン…!!!!



 凄まじい音、突くような甲高い音が響いた。

 ルチカが触れたその場所から、ガラスのようにヒビが入り、壊れていく。濃い霧は瞬く間に破片となって散り、その破片も空気に溶けて消えた。


 結界に込められた魔力が光を放ちながら溶けてゆく。

 隠されていたその向こうは、どこまでも青い世界だった。


 この日の景色を、忘れることはないだろう。



 第一季、陽の時

 その日結界は崩壊した。

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Crimson さささのさ @Sasasanosa00

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