第8話 サソイ
「すまない。別に見るつもりはなかったんだ。けれどロックがかかってなかったし、通知がいくつか来てたから偶々ね」
私は彼から受け取ったスマホの電源を入れると、確かに楓君からの通知が三件届いていた。お昼頃に私が送っていた文への返信だった。
「……これは、その…………」
何かうまく誤魔化せる方法はないか考えるが、考えれば考えるほど無言の時間が過ぎていく。
「フフ、その反応を見るにどうやら本当に彼氏みたいだね」
「えっ?」
彼……黒木さんは手で口元隠しながら微笑んだ。
「通知が見えたのは本当だけど、それが彼氏かどうかは正直分かってなくてね。楓って名前だと女の子の可能性もあるし」
「え、あっ……という事は……」
「うん。僕は本当に彼氏なのかは分かっていなかった。まぁ今の君の反応をみて確定した訳だけど」
「…………」
確かにそうだ。彼のメッセージアプリの登録名は本名のままの楓で登録してある。それに返信の文章も、
『ごめん今見た。了解』
『もう録画予約もしてるよ』
『真桜なら大丈夫。ファイト!』
と文だけなら彼氏か友人かどころか、男か女かもわからない。
それなら落ち着いて友人ですといえば通せたかもしれなかった。やっぱり私は嘘がうまくつけないみたいだ。
「……この事みんなに言いふらすんですか?」
「言いふらす? そんなくだらない事はしないよ。僕はむしろ、恋愛はすべきだと思っている」
「え……」
予想していなかった答えに私は驚く。確かにこの人ほどの成功者からすれば私の評判なんて関係ないのだろう。しかしそれなら何故私にわざわざ彼氏の話をしたのだろうか。
「愛を知らない者に、愛の歌が歌えると思うかい? 決してテクニックだけでは到達できない。真のアイドルにはね……」
「は、はぁ……私にはよくわからない……です」
「フフ、そうか。すまない、時間取らせてしまって。今度またゆっくりと話そう。またね西岡真桜さん」
黒木さんはそう言い残すと去っていった。今度またゆっくりと話そうって言ってたけど……どうもよくわからない人だ。やっぱりスターは変な人が多いのかな? どちらにせよあの人が楓君の事を口外しないと言ったのを信じるしかない。
「ふぅー、よし!」
私は軽く顔を叩き、収録に向けて気持ちを切り替えるのだった。
♢
数日後。
今日のレッスンと仕事を終え帰宅しようと歩いていると、隣に黒い高級そうな車が停まってきた。
「どうもこんばんは。真桜さん」
凄そうな車だななんて見ていると、窓が開き中から声をかけられた。相手はこの前スマホを拾ってくれた人、黒木レンさんだった。
「黒木さん……こんばんは」
「運転してると偶々君が見えてね。仕事帰り?」
「はい。黒木さんもですか?」
「まぁそんな所かな。そうだ、よかったらディナーでもいかないかい?」
黒木さんと食事……。今まで仕事以外では男の人と二人で食事などには行かないようにしていた。何か噂がたっても嫌だし、楓君にも悪いと思ったからだ。
だが、私に彼氏がいるのを知っている黒木さんなら変な事はしてこないだろう。それにスマホを拾ってもらった恩もあるので断りにくい。
「……はい、私でよければ」
「ありがとう。じゃあ隣に乗って」
私は黒木さんに案内され助手席に座る。内装も豪華で車に詳しくない私でも高級車なのだとわかる。
「真桜さん、お寿司は好き?」
「え、あ、はい。マグロとかタイとか好きです」
「ならよかった。いい所があるんだ、そこに行こう」
♢
「お待たせ致しました、本日のおすすめ握りでございます」
案内されたのはいかにも大物芸能人が行ってそうな個室のお寿司屋さんだった。
「すごい……美味しそう!」
「フフ、ここの寿司は最高だよ」
色鮮やかなネタはあの有名食レポの人じゃなくてもつい宝石箱と表現したくなる。
「さ、食べようか」
「はい。いただきます……んーっ!」
私は食べる順番とかわからないので、とりあえず好きなマグロのトロを口に運ぶ。すると、今まで味わったことのないとろけるような美味しいさが口の中に広がる。
「すごく、美味しいです!」
「それはよかった。で、本題なんだけど……僕はもうじき引退しようと思っているんだ」
「引退……ですか?」
黒木さんの所属するバンド、ローゼン・グラスは大人気でファンも多く、海外にも熱心なファンが多い。そんな彼が引退なんてどうしてだろう。
「そして僕プロデュースのアイドルグループを作ろうと思っている。まぁ所謂裏方に回ろうってこと」
なるほど、それが黒木さんの理由。確かに人気アイドルグループのプロデューサーには元アーティストの人も多い。
「そこで、そのメンバーに君が欲しいんだ」
「!! それって……」
「引き抜き、になるね。もちろん君の合意を得てからだけどね。……そしてその為の交渉材料も僕は用意している」
「交渉……材料?」
そう言うと、彼は残り少ないお茶を飲み干す。お茶を飲むだけの所作にも美しさを感じた。そしてふぅとため息を軽くついてから、私の目をじっと見つめ、口を開いた。
「僕のところに来てくれるのなら、君の彼氏も一緒に迎え入れようと思っている」
「楓君を? それはどういうことですか?」
「そのままの意味さ。今君はあまり彼氏と会えていないだろう?」
「……そう、ですけど」
確かに楓君とはあまり会えていない。仕事が忙しいのもあるが、元々遠距離なので余計会うことが難しい。それにウチの事務所では恋愛は禁止されているので誰かに見つかったら問題にもなってしまう。
「だからね、君の彼氏も雇ってあげるんだよ。君のマネージャーでも運転手でもなんでもいい」
「…………どうしてそこまでして私を? 私なんて歌もダンスもまだまだなのに」
私だけでなく、楓君までなんて。どうして彼はそんなにも私に執着するのだろう?
「あの日から君の動画をいくつか見せてもらった。そして感じたんだ。穢れのない君の純粋さと優しさを! ……すぐにとは言わない。彼氏クンの意見も聞かないとだしね。もし答えが決まったら連絡して欲しい」
「……はい」
私は黒木さんとメッセージアプリの連絡先を交換する。それ以降その話をすることはなかったが、私の中では黒木さんの誘いを受けるかどうかで頭がいっぱいだった。さっきまであんなに美味しかったお寿司はなんの味も感じなくなっていた。
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