自分を認めることについて
私は私のことを良い人間だと思っている。意図的に、そう思い続けている。そうしなければ自分の身体をズタズタにしたいという欲望に、負けそうになるからだ。
自身に欠陥があることを知りながら、それでも自分は良い人間だと認めることはとても大変なことだ。絶えず襲いかかってくる自罰精神に常に反論し、自分を肯定する材料を見つけなければならない。
私にとって自罰は、なによりも簡単で好んで行えるものである。自分がした行動の正否を全て知っているのだから、粗は見つけ放題で、何がいけなかったのかもすぐにわかる。ああすればよかった、なぜこうしなかったと自分を問い詰め、苦しめていくことほど簡単で楽なものはない。
数学の問題のようなものだ。間違えた答えを修正するには、式のどの部分を間違えていたか知るだけでいい。違うのは数学は式を治せば完全な回答が出来上がるが、私はそれでは治らないということだ。式の間違いを延々と指摘しても、私はむしろより酷く、誤った方向へと変化していく。
その行動には生産性がまるでない。ただ自身を憂鬱にし、自分の行動に自信を持てないようにして堕落させるだけだ。自罰こそ何よりも人を駄目にする行いだと、私は思う。
私がするべきは自認だ。欠点と過ちを全て認めて、その上で自身を肯定する。細かな粗を払いのけ、自分を守り、自分を大切にすることは、襲いかかってくる嵐に何日も耐えるかのような苦行だ。
だがそれでもやらなければならない。自分を大切にし、守ることができるのは自分以外誰もいないからだ。
世界には自分を傷つけてくる人がたくさんいる。だがそれを庇ってくれる人もいる。そんな人たちでも自傷を庇うことはできない。
それは精神的なことだけではなく、肉体的なことにも言える。
リストカットと呼ばれる、刃物を使った自傷行為がある。ナイフなどで手首を切りつけ血を流す行為は、当然ながら自身の身体に消えない傷を残す。
自分で自分の肉体を傷つけることもまた、何よりも簡単で、楽になれる行いだ。誰から見ても分かる形で自分を傷つけることで、自分の罪が許されたような気になり、気持ちは軽くなる。だがそれをしたところで状況は何も良くはならない。気持ちは再び参ってくるし、周囲から浴びせられるのは理解できないものに対する恐怖だ。
あの行為による楽を知っているものは、実際にそれを行なったことがある者だけだろう。明確に言葉にしなくても、あれがどれだけ気持ちを楽にしてくれるかはやったことがある者なら知っている。
だがそれに溺れてはならない。やったことを責める必要はないが、それ以上自分を傷つけてはならない。血を流しても膿を吐き出せるだけで、根本的な治療はできないからだ。
私を守り、勇気づけ、しっかりと前を向かせる。そうしてずっと前を向き、嵐を止める方法を探すのだ。
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