金貨を投げる者

この世の中で最も価値がないものは金である。


なぜなら金は何かの代用品でしかないからだ。食料、住居、娯楽といった人間の生活に関わってくる全ての代用品でしかない。それらを買うために金が使えないとなれば、誰がこんな紙束をまるで宝物であるかのように、大事に懐へと隠すだろう?


逆に世の中で最も価値がある物を、私は心だと考える。それらは自分のものであれ他人のものであれ替えが効かず、代用しようがない。世界にたった一つの物であり、それぞれがかけがえのない鮮やかな色を放つ。ダイヤモンドでさえこの輝きには勝てない。


ここで一つ疑問が生じる。心がこもった金に価値はあるのか?


借金に塗れ生活が成り立たず、挙句に殺人の罪を犯し、帰る家さえなくした青年がいるとしよう。この青年は誰が見ても惨憺たる様子だ。服には埃や糸屑がつき放題で靴には穴が空いている。手は常に震えていて、足取りもおぼつかない。目には隈がくっきりと青黒く浮かび、地面へと向いた瞳には一切の光がなかった。


まともに歩道すら歩けず、夢遊病患者のように道路の真ん中へと移動することさえある。こんな青年は多くの人から嫌悪の視線を向けられる。青年もそれに気づき、次第に端へ端へと自身を追いやり誰の目にもつかない場所へと蹲る。


このような状態になった人間にも、手を差し伸べてくれる人はいる。言葉であれ食糧であれ、心に余裕のある人間は青年の境遇に同情し、何かしらの品を渡すだろう。


これがもし、金だったとしよう。1日だけだが食糧に困らない程度の金をもらったとして、青年にとってこの金は価値があるものだろうか。


金を渡した人はこの金に心を込めたはずだ。かけがえのない『慈愛』の心を持って、この貧しい青年が今日1日を生き延びられるようにと願い、お金を渡したのだろう。


だがこの青年にとってこの金は、本当にただの金だ。その金と共にある『慈愛』が彼には見えていない。ただこれを使えば食料が手に入り餓死の不安に襲われることなく、床につけることを知るだけだ。


ただそれだけだ。次の日になればまた空腹に襲われるし、自身の境遇に対する苛立ちや不安は決して消え去ることはない。彼に『慈愛』を差し出した誰かの心を、青年は決して汲み取ることができないのだ。


生活に疲れ、罪に犯された心にはいかなるものも潤いを与えることはない。誰かの優しさや気遣い、愛といったものにもし気づいたとしても、それを受け取ることができない。


彼も貧しくなる前は、愛のように暖かい心を何よりも好んでいたはずだ。互いを励まし手を交わすことが、何よりも喜びだっただろう。だが一度枯れ切った心はを潤す物をまるで毒であるかのように恐れ、接触を断とうとする。


故に金を受け取っても、青年は決してそれを使いはしない。それが自身へ向けられた愛だと知っていても、私には意味をなさないと虚しさを覚え、川へ躊躇なく金貨を投げ込むだろう。


枯れた心を元に戻してくれる何かを求めながら、彼は今日も薄暗い路地を歩く。

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