帰り道

私は暗い森にいる。もうずいぶんと長い間、私をここを彷徨い続けていた。


身体には傷一つないのに、顔は青く目は窪み、カサカサに乾いた唇はすっかり色褪せている。


疲弊した私は立ち止まり辺りを見回すが、月の光さえ入らない森の中では何一つして見つけることはできない。あるのはどこまでも続く暗い森だけだ。


私はそれを知っていた。出口がないことを知っていながら、私はいつまでもこの森を歩き続けている…。


私は産まれた時のことは覚えていない。だが、私が始まった時のことは覚えている。私はその時布団に寝ていて、ただぼんやりと木でできた天井を見上げていた。近くに人は誰もおらず、その時の私は自分の名前も知らなかった。


何もわからないまま、私の初めての日は進んでいった。私は母に手を引かれて幼稚園へと向かい、私と同じような子供たちと一緒に遊んだ。


一緒に遊具で遊んだこと、かけっこをしたことを覚えている。とても楽しかった。思い出すと胸がほんのりと暖かくなる。私はその人たちと一緒に走り回ることが本当に好きだった。


だがその暖かさをくれた人たちのことを、私はまるで思い出せない…。


昔の私は私を取り巻く世界に対して、あまりにも興味がなかった。私が始まったばかりの世界には、幼稚園と家と近所のスーパーと床屋さん、ただそれだけしかない。私はスーパーの先には何があるかとか、たまにやってくる親戚の人は私とどんな関係の人なのだろうと疑問を持たなかった。その疑問を解くことで世界を広げようなんて、まるで考えずに生きていた。


私の欲はただ毎日を楽しく暮らすことだけにあって、それは満たされていたのだ。多くの友達は私と一緒に遊んでくれたし、大人たちはみんな私に優しい。私の始まりの世界は楽園だった。


私は楽園で、何も大事にすることがないまま日々を過ごした。そして大人になってから、あの頃がどれだけ貴重で取り戻せない大切なものだったのかを知った。


昔を振り返えれば、印象深い記憶はいつでも思い出せる。かけっこをした記憶、川で泳いだ記憶、虫を追いかけ回した記憶、カードで遊んだ記憶、今でも鮮明に思い出せる。でも、誰とそれをしたのかがまるで思い出せない。


始まりの日と同じだ。私の印象深い記憶の中には、親しかったはずの人が出てこない。大切な友達だったはずなのに、私の過去にはその人たちの顔が一つも出てこない。ただ『楽しかった』記憶だけがある。今に繋がる何かは何も浮かんでこない。


結果だけがあり、それに繋がる導がない記憶はとても空虚だ。今の私を形成してくれた人たちのことを、私は思いだせない。あの頃大切だった人たちを私はいつのまにか忘れ、思い出す喜びと感謝を無くしてしまった。


悔しくて歯噛みする。過去が変えられないのは知っている。こうやって取り戻せない物を思っても、何も変わりはしない。


だけど、振り返ってみたかった。自分がどんな人たちと共にここまでやってきたのか…。


暗闇に目を凝らすと、喜びしかない楽園が見える。ああ、私はそこから来たはずだったのに、どうしてそこに至る道を忘れてしまったのだろう。


今はもうなくなった、暖かい場所へと帰りたい。追い出された子供のようにとぼとぼと歩きながら、私の心へ私は問う。


帰り道はどこにある?


導となるものをパン屑1つ残してこなかった私に、かけられる言葉は何もない。


真っ暗な森の中、私はただ暗闇を覗き込む。

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