忘却賛美

人には忘却という機能がある。私はこの忘却を生きていく上で欠かせない『友』だと考えている。


人が忘れるほとんどのものは、嫌な思い出や普段使っていない知識になる。それらを私たちは自分でも気づかないうちに、忘却の彼方へと押しやってしまう。なくなったわけではないので、不意に何かがきっかけで思い出すこともあるが、それも一瞬だ。意図的に覚えようとしない限り、ほんの一瞬だけ湧きだした記憶はまた私の奥深くへと潜り込み、家主の害になるまいと身を潜める。


もし仮にこの機能が人間に備わっていなくて、あらゆる記憶が好き勝手に心の泉に湧き出してきたらどうなるだろう?鋭い痛みともに溢れ出る赤い血の色、雨に濡れ凍えた時の冷たい水の色、深い絶望の黒色。何十種類もの色が泉に噴き出せば、私はあっという間にそれらに塗り潰されて、まともに息さえ吸えなくなるだろう。


穏やかな泉を濁流へと変えるのは、痛みともに覚えた罪だ。そして罪に苦しめられずに生きている人などおらず、誰からも尊敬される聖人ですら(生まれた時から神の子だったものは別にして)人である以上、道理を知らずに恥ずべきことをした過去がある。


私は昔、暗い罪に溺れる生き方をした。失敗した記憶を何度も反芻し憂鬱となり、人が傷つけられているのを見過ごす怠惰な日々を送り、周囲への反感を糧に嫉妬と憤怒を自分の中で生み出し、懸命に育て上げている。そんな自分で自分を締め上げるような、苦しみに満ちた日々を生きたのだ。


そして罪に溺れる日々が過ぎた後も、罪を犯した記憶が残った。それを何年もの間思い返した私の心はだんだんと枯れていき、次第に私はどんなに綺麗な物や人を見ても、感情が揺れなくなった。


そんな無感情になっていた私を救ってくれたのが、忘却だった。


彼は罪という濁流を鎮め、溺れ苦しむ私を波が届かない場所まで引き上げてくれた。彼は私が暖かい花園に向かう時は静かに見守り、誰かから針で刺された時は何も言わずに手を差し伸べてくれる。彼はどんな時でも私と共にあり、私を救ってくれたのだ。故にこそ、私は忘却を愛する。


忘却は大いなる愛を持った私の友だ。そしてこの友の愛は時を経るにつれ強くなっていく。私の体が弱り身寄りもいなくなった頃に、彼はますます活発に動きだし、私が苦しまずにこの世から去れるよう尽力する。


その尽力が故に、大切な記憶さえ彼は私から奪ってしまう。母や友と言った大切な思い出を奪われれば、私は酷く悲しむだろう。だが忘却はこの悲しみさえ奪い、それ以上の憂いを与えない。彼は誰よりも優しい強奪者なのだ。


強奪者である彼を恐れる気持ちはもちろんある。だが、それがなんだ?彼がいなければ私は生きていくことさえできなかったに違いないのに、私はそんな彼に何も返してあげることができない。それなら大切な記憶の一つを、恐れとともに彼へ受け渡すことになんの躊躇いがあるだろう。


忘却よ、私はあなたにいつも感謝している。あなたは優しく愛に満ちたものだ。それだけでも素晴らしいのに、あなたは熱い愛や冷たい痛みと違い、人の意識に決して残らず去っていく慎ましさすら持っている。あなたはその気になれば、誰よりもその存在を誇示し、今『愛』が勝ち得ている玉座さえ奪うことができるだろうに…。


あなたはそれをしない。あなたが奪うのは私だけだ。


私の友よ。私からあなたにあげられるものは、弱りきった身体と罪に苦しむ心だけだ。それでもいいなら好きなだけ喰らってくれ。あなたのその強奪が、私には心地いい。

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