2章5話 茜と楽


「茜さんは、楽さんのどういうところが大好きなんですか?」


 詩音くんが、物凄く純粋な瞳でそう聞いてくるのを、私は火が出そうな頬を押さえて聞いた。


 今日はバイトも無くて、それでいて大学も5コマ目までしかなかったから早い帰り道。ちらほらと登下校中の小学生を見て、楽と帰っていたことを思い出していた時だったから、その後ろ姿を見て、はっとしてしまった。


 よく見たら決して似ていないのに、何故か、詩音くんのことを、楽に重ねてしまう自分がいて。その感覚は、私に当時の記憶と、今の感情を少し思い起こさせる。

 そして、声をかけた詩音くんと歩き出した後に、少し飛ばしてくる車から引き寄せると詩音くんがふっと固まって、目をまんまるにしてこちらを見ているのに気付いた。


(…………あ)


 そういえばそうだった。そして、今何を考えていたかというと。

 急に回り始めた頭で焦り始めると共に、詩音くんがまずいことをした、というような青ざめた表情を浮かべて何かを言おうとしているのが見えた。


 いけない、そう思って咄嗟に出た言葉は反射的なものだったけれど、冗談交じりの言葉は、詩音くんをほっとさせることが出来たようでほっとして。

 そして、咄嗟の自分を褒めながらそのまま口を滑らせて墓穴を掘った結果がいまだ。


「……そうだねぇ、楽には秘密だよ?」


 そう言いながら、私は初めて久我山楽を認識した頃のことを、先程ふとしたことで思い返していた苦さと甘さの記憶をたどる。



 今思い出しても、小学生当時、私はとても太っていた。

 従兄弟の千夏ちゃんがモデルにスカウトされる程の美少女だったのに比べて、血の繋がりはあるはずの私は、食べるのと寝るのが好きだった生活通りにぽっちゃりした目立たない女の子だったのだ。


 とはいえ、同じくらいの体型の子はいたし、友人もいて、平和に過ごしていた。

 それが驚くほど小さな事で崩れたのは小学校三年生の頃のこと。


 その日は、前日の夜は、親戚の人たちが来て夜遅くまで起きていたからか寝坊して朝ご飯を食べられなかった日だった。育ち盛りだった私は、早く給食が来ないかなと思ってそわそわしていたのを覚えてる。


 でも、そんな風に思えていたのはその時まで。授業中のことだった、静かだった教室にお腹の音が響いたのは。それは自分でもびっくりするほどの音で、咄嗟にあたりを見渡すと、皆こっちを向いていて、次の瞬間教室中が笑いに包まれたほどだった。


 恥ずかしくて恥ずかしくて、今でもあの時のことを思い出すと、逃げ出したくなる。太っているから大食いなんだよな、待てないのかよ、みたいなからかいが飛んで、その時の担任だった男の先生も笑いながら嗜める程度で、休み時間になってもそのざわつきは収まっていなかった。


 いつもの友達は、遠くから見てるだけで助けてくれなかったし、からかってきてるのは、クラスでも人気のある男の子だった。すごい嫌だったのに、嫌だと言えなくて、へらって笑顔作って、泣きたいのに泣けなくて。

 でも、この記憶を忘れないのは、辛かったからばかりじゃない。


 後ろの席にいた、それまでほとんど喋ったこともなかった男の子が、私をかばうように前に立って言ったのだ。


『なぁ、くだらないことで笑いものにするの、やめとけよ』


 私も、そしてからかってきていた男の子も、教室の皆も、そんなことを誰かが言うとは思っていなくて、ぽかんとして、一瞬時が止まったかと思った。


『あ……? なんだよ久我山急に。わかった、お前南野のこと好きなんだろ?』


 それに、その男の子が乱された調子を取り戻すかのようにそんなことを口走って。


『…………はぁ。なぁ、お前らはさ、腹減ってしんどかったこととか、ねぇのかよ?』


『は?』


『食わなきゃ腹が減って、腹が減ったら鳴ることだってあんだよ……俺は、腹が減るのはしんどいし、そんなことを馬鹿にするやつは最低だと思ってるだけだよ。腹減ったやつにすることは、笑いものにするんじゃなくて食いもんをやることじゃねぇのかよ』


 その男の子。楽の何かへの怒りや諦めが混ざったような吐き捨てるような口調は、漫画のような颯爽としたヒーローではないけれど、間違いなくその時の私の心を救ってくれたのだった。



 ◇◆



「なんだか、すごい楽さんらしいですね」


 ゆっくりと歩きながら話を聞いていて、お兄さんとお姉さんでしかない楽さんや茜さんが僕と同じくらいの小学生であったことが新鮮だった。

 でも、その中でも楽さんの様子は少し想像した僕がそう言うと。


「あはは、だよね」


 茜さんがくすくすと笑った。


「まぁそんな感じで、教室はそれでなんか白けた空気みたいになってね。私の周りから人がいなくなると同時に遠巻きの友達が謝るようにしてやってきてからは、当の楽は席に戻って話しかけてくることはなかったんだけど」


「だけど?」


「でも、ね。その後次の授業が始まる少し前に、そっと私に飴をくれたの。持ってきてるの内緒だぞって」


 ひひ、ちょっとキザじゃない? と茜さんは言う。からかうような口調で、でもとても嬉しそうに。


「嬉しかったんですね、わかる気がします」


 そういう、困ってる時の、内緒の優しさは、とても嬉しいのは知ってる。


「今思うと少し笑っちゃうんだけれど、その時の私はもう胸が一杯になっちゃってね。ま、大事に大事にしてたら、その飴は食べる前にドロドロにとけちゃったっていうオチもあるわけだけど」


 茜さんは今度は照れるように笑って。


「正直、誰よりもかっこよかったんだ。無愛想だし、適当なとこはほんと適当だし、顔もイケメンって感じじゃないのも今でもそのまんまだけど。私の中ではね、楽はずっと頼りになって、自分の足で立とうとしてて、かっこいいまま」


 そう言った。そして茜さんは、バレたら恥ずかしいから内緒だよ、といって口元に人差し指をやる。

 僕はもちろん、と首を縦に振る。でも、頷きながら疑問も口をついて出た。


「内緒なままなんですか? 楽さん、喜んでくれそうなのに」


「……まぁ、色々あるのよね」


「色々、ですか?」


 そんな話をしながら歩いている間に、家が見えてきた。家の前までくると、何だかとても美味しそうな匂いがしてくるから、楽さんがもう帰ってきているのだとわかった。

 その匂いに茜さんも気づいたのか、ふふっと笑って、話はここまで、というふうにして、ばいばいをする。本当は、まだ少しだけ話を聞きたい気もしたけれど、それよりも僕には言っておきたいことがあって。


「茜さん」


「ん? どうしたの?」


「えっと、うまくいえないんですけれど、ありがとうございます」


 僕がそう言うと、茜さんは少し目を見開いて、頭をよしよしと撫でてくれた。

 口に出してわかったのだけれど、何だか、好きだと思う人を好きだと言ってくれる人がいると、嬉しいんだなと。そんなことを、思ったのだった。

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