第3話 杉浦という女
昨日の夜は大変だった。主に杉浦のせいで。
なぜか料理を食べ終わったあとに、杉浦がジョッキ一杯のビールを一口、たった一口飲んだ。とたんに彼女の顔が真っ赤になりひっくり返った。そのまま目を回し爆睡。彼女はどうやら異常なほどアルコールに弱いようだった。
だから最後にビールを飲んだのか。倒れるとわかっているなら、ビールなんかを飲むんじゃないよ……。
酩酊し気持ちよさそうに寝ている美女を、深夜のファミレスに放置しておくこともできず、京介は仕方なく自宅に連れて帰ることにした。
杉浦の家の住所がわかれば送って行こうと思ったが、あいにくわからない。調べるために杉浦の手荷物を勝手に漁るのも、変な誤解の原因になるからやめた。
自宅までおんぶして連れて帰る。想像以上におぶった杉浦の体重が軽くてびっくりした。食べた物はどこに消えたのか?
杉浦を京介が普段使っているベッドへ寝かせて、京介はフローリングの床にバスタオルをしいて眠った。
朝、京介が起きたとき、杉浦はまだ幸せそうな寝顔を浮かべて眠っている。学校へ補習に行くため、杉浦へメモと合鍵、インスタントのしじみ汁を置いて出てきた。
補習が終わった今は、もう昼過ぎだ。さすがに杉浦は起きて、帰ってしまっただろう。
もう少し話したかった。変な人だけど嫌な感じはなかった。命の恩人であるという部分を引いても彼女は善人だと思う。不思議な人だ。
京介の家は、アパートの二階にある。鍵を開けようとしたら、なぜか鍵が閉まった。おや? っと思う。杉浦が鍵をかけ忘れたのかもしれない。
おっちょこちょいな人だ。だけど、杉浦さんらしいな、と苦笑い。
重い扉を開けて、家に入る。重い扉が閉まると外界の音がシャットアウトされる。桜花の心音をモニターする心電計の音だけが聞こえた。息を吐く。疲れた。
「おかえりー。補習お疲れー」
誰かいるとは思っていなかった京介は「うわ!」と悲鳴をあげた。靴を脱ぐのすらもどかしく、土足のまま自身の部屋へ向かった。
そこには杉浦がさも当然のように、京介のベッドに寝転んで本を読んでいた。クーラーで室温を十八度にして、布団にくるまっている。最高に贅沢な夏の過ごし方。アイスがあれば、なおよろしい。……そうではない。
京介は尋ねる。無意識に大声になっていた。
「杉浦さん! な、何しているんですか?」
「えー。底辺くんを待ってたの」
「なんで……ですか?」
「……なんでだろう。わかんなーい。くしし」
杉浦は心底不思議そうに呟き、考えるのが面倒くさくなったのか、投げやりに言って笑う。
まだ酔いが抜けないのかな? と思ったがシラフのときもこんな感じだった。
「ウソウソ。今日、教会に賞金を取りに行くでしょ。あたしが一緒に行った方が話が早いから待ってたんよ」
「はぁ。それは……ありがとうございます」
京介はまったく、とため息を吐く。杉浦にまた会えて嬉しかったのは黙っておこう。
靴を脱いで玄関へ持って行く。ついで、桜花の部屋へ様子を見るために入る。
桜花は簡易な白いベッドの上で眠っていた。医者から桜花の容態について「崩壊の一歩手前でつま先立ちで我慢している」と言われた。詩的な表現で医者らしくないなと感想を抱いた。
桜花の胸からは心電計のケーブルが伸びていて、片腕には栄養の点滴が刺されていた。
十歳にしては周りの子供より背が高かった桜花。今は魂が抜けており、肉体の成長速度は止まっている。それでも、一年前より少し小さくなったように見えるが、体重は変わっていない。
僕の背が高くなったから、小さく見えるのかな?
それでも桜花の顔色が良いのは救いだ。幸せな夢をみているのだろう、微笑んでいるようにみえる。
「その子が妹の桜花ちゃん?」
いつの間にか背後に立った杉浦が尋ねてきた。杉浦のほうを見ず、桜花に視線を固定したまま答えた。
「ええ。火車に魂を盗られてから今日まで眠ったままの、僕の妹です」
「そっか。確か一年くらい前に魂を盗られたんだよね?」
「そうです。思えばあっという間ですね。桜花ちゃんには変化があまりないですけど」
「うーむ、一年か……。ちゃんと怪異除けのお守りつけてる?」
「教会が売っているヤツですよね。つけてます。つけないと教会から医療面での援助が受けられないので。桜花ちゃんに関する費用の中で、怪異除けのお守りが一番かかっていますよ。はは……」
「怪異除けのお守りと怪異祓いが、教会の収入源だからねぇ。足元見やがって感じ。プンスコ!」
「昨日の怪異の賞金も、怪異除けのお守り代で大半は消えちゃいます。本当にプンスコです」
京介は乾いた笑を浮かべ、杉浦の方へ視線を向けた。彼女の格好を見て、京介は息をのむ。
杉浦は京介のTシャツを着ていた。杉浦にとって京介のTシャツはサイズが大きい。
大きいといっても、彼女の健康的でムチっとした太ももがかろうじて隠れる程度の大きさだ。
なんというか、太ももが、その上の見ちゃいけなモノまでもが見えそうで見えないのが、とても……とても扇状的だ。
「お風呂勝手に借りたから。あと底辺くんのトランクスとTシャツも借りてるよー。ごめんねぇ」
「トランクス……ですか」
「そう。短パンの代わりにトランクスを使ってるの」
杉浦はTシャツをめくる。咄嗟に顔を手で覆う京介。気にしたようすもなく、杉浦はドルフィンパンツのようにしてはいているトランクスを見せる。やたらとドヤ顔なのが気になった。それ以上に、彼女のおへそまで見えてしまい、京介は声にならない声を漏らす。
落ち着け……。あれは見てはいけないモノじゃない。あれは僕のトランクスだ。慌てるな……。
新しく買った洋服を見せつけるように、杉浦はその場で一回りした。
なんだかとても良い香りがする。普段使っている安物のボディーソープも、杉浦が使用すると夢のような香りを振りまくようだ。
「即興にしては中々のリラックスコーデじゃね?」
杉浦が京介の顔を覗き込むようにして見上げる。今は三つ編みを結っていない。サラサラの髪からも良い香りがする。特売日に買ったシャンプーなのに、使う人が異なれば高級品になるのか?
ドギマギする。心臓が激しく脈打つ。
「あ、あう……」
「変な声出して、どーしたの?」
「な、なんでもないです……」
「なんでもないならイイけどさー。あ、そうだ。底辺くん。住所教えてくんにゃい。おなしゃす!」
「スマホのアプリで調べればイイじゃないですか」
「あたしガラケーなの。しかも結構古めのさ」
杉浦は年季の入ったガラケーを京介に見せた。赤色の国産メーカーのガラケー。もう巷では見ることができない過去の遺物だ。
杉浦の物持ちの良さに感心しつつ、京介は住所を教える。彼女は慣れた手つきで、ガラケーを操作し一通のメールを送信した。
「よし、送信完了。教会が開くのは十八時からだから、ギリギリまでダラダラしようぜ」
杉浦は背伸びをする。彼女の豊かな胸が強調され、京介は慌てて振り返った。その服で背伸びをするのは男子高校生には刺激的すぎる……。
うー。とはいえ……変な目で、杉浦さんを見てしまう自分がたまらなく嫌だ。こんなわけわからない感情は初めてだ。いったい何だっていうんだ。
「底辺くん。トランプでもしよっか。ん、顔真っ赤だよ。大丈夫?」
「……はい」
十六時頃。
二人は本を読んだり、お話をしたりしていたが、最終的に京介は疲れからかベッドの横で布団に包まり眠ってしまう。連日夜明け近くまでひきこさんを探しまわっていたせいで寝不足だった。睡眠を体が求めていたようだ。杉浦はベッドで本を読みつつ、京介の買ってきたアイスを食べてゴロゴロして本を読んでいた。
家のチャイムがなった。京介は起きる。杉浦が出ようとしたが、服装が扇状的だからと、京介が代わりに玄関まで向かう。
誰かしら? と玄関を開けると見覚えのある白髪の老紳士が立っていた。
この人、確か教会の偉い人だ。強大な怪異が出現したときに、一回だけ教会で見た記憶がある。名前は……知らない。あまり興味がないから知る由もない。そんな人が、なんで僕の家に来たんだ?
老紳士は京介が玄関にあらわれたのがよほど予想外だったのか、わずかに驚いた顔をした。すぐに穏やかな笑みを浮かべ尋ねる。
「ここに杉浦様はいらっしゃいますか?」
足音をたてて廊下を駆けてやってきた杉浦は「およ、西村さんじゃん……」と言い、お腹をポリポリと掻く。
「杉浦様。お着替えをお持ちいたしました。装備とご用命の物も用意してあります」
杉浦は西村からかなり大きなスーツケースを受け取る。
「暑いのに雑用頼んじゃって申し訳ないっすね。ありがとうございます」
西村は「仕事ですから」と穏やかに答える。
二人を見ていた京介に、杉浦は西村の紹介をした。
「あ、この人は西村喜作さん。教会の偉い人。元怪異祓いで、今はあたしらのサポートをしてくれるの。だから仲良くなると良いよ。で、こっちが……」
「猫町京介様ですね」
「なんで、僕の名前を」
「教会で七回すれ違ったことがございますので、お顔と共にお名前も覚えてしまいました」
そんなことも覚えているのか。僕は一回しか見てないと思っていたのに。それにしても、すごい記憶力だ。
「ふふ、記憶力だけが取り柄でございます」
西村は穏やかな笑みをつくる。
杉浦は一度奥に引っ込み、昨日着用していたスーツ一式と狙撃銃の入ったボストンバッグを持って戻って来た。
「スーツはいつも通りクリーニングをお願いします。あと、こっちは昨日使った狙撃銃。清掃と調整はしたんだけど、お清めまではできなかったから、教会のほうでお願いします。念のために、ですけどね」
分解した狙撃銃が入っているボストンバッグを西村へ渡した。そして、杉浦はニヤリと笑い、西村へ尋ねる。
「それで、あたしの着替えを持ってくるなんて雑用を西村さんがやるってことはぁ……、厄介な怪異を祓うお仕事ですね?」
「車はすでにまわしてあります。ご依頼の要件は車内で」
「くしし。いいよ~って言いたいけど、条件が一つありまーす」
「可能な限り」
杉浦が条件をつけるのに慣れているのか、西村は慌てた風はない。落ち着きを崩さなかった。
「条件はこの子。底辺くんも連れて行きたいんだけど、どうかしらん?」
杉浦は無関心を貫いていた京介の肩に腕を回し、肩を組み抱き寄せると、親指で顔を指さした。西村は京介をチラリと見る。
京介は作り笑顔を浮かべ、軽く小首を傾げた。自分は杉浦の策略とは無関係ですアピールをする。
杉浦がなぜ自分みたいな足手まといを、嬉々として依頼に巻き込もうとしている理由がわからなかった。
西村からは、どのような感情も読み取ることができない。感情の揺らぎすら殺すことができるのは、相当なプロフェッショナルだ。
「この子、ひきこさんとタイマンはって生き延びてるの。ヤバくない? だから、足手まといにはならないよ。それは本当に保証する」
「よくご無事で……」
少し間を置き、西村が質問する。
「足は……、猫町様は足が速いほうですか?」
「陸上部だったのでそれなりには」
「スタミナは?」
「一般人よりはあります」
自慢じゃないが僕は足が速い。陸上部だったから。それに、胸に封印された物のせいで無限に近いスタミナもある。
「……では、お二人とも準備をお願いいたします」
「ちょちょちょ、待ってください。賞金が絡まない怪異祓いなんて僕は嫌ですよ」
「だってー。底辺くんが嫌ならあたしもやらねー」
いい感じに杉浦に利用されている。まるで京介が嫌がったから仕事をキャンセルしているようだ。杉浦がそこまで考えて行動しているわけではないからタチが悪い。
西村は胸ポケットからスマホを取り出し、数字を入力していく。
「言い値でお支払いします、と言いたいところですが、賞金額はこちらでいかがですか?」
渋々スマホの画面に視線を落とす。桁が少しおかしい。視線が西村とスマホの画面を二、三往復する。西村は涼しい顔だ。
ん、マジ? 桁がおかしい! ひきこさんも桁がおかしかったが、今回も桁がおかしい! これだけあれば、桜花ちゃんのお守りを買って、貯金もすることができるぞ!
「やります。ぜひやらしてください。頑張ります! 杉浦さんやりますよ!」
「はーい。じゃああたしもやるぜ」
杉浦さんは手をあげる。とても元気に手をあげた。西村は頷くと言った。
「では、準備をお願いいたします」
「ガッテン! おっと、そうだ。底辺くん、底辺くん。透けてないレジ袋ってある? 悪りいんだけど、一枚もらっていいかしら」
「ありますよ。さっきアイスを買ってきたときにもらったコンビニの袋があります」
「うーん、うん。完璧完璧。センキュー」
「袋なんて何に使うんですか?」
「使用済みの下着を入れるのに使うんだけど」
「……あ、下着ですか。すみません……変なこと訊いてしまって……」
あまりそういうことをあけすけに言うのは、やめてほしい。女性なのだから恥じらいを持って……。いや、別に下着をコンビニ袋にしまう話なんかに恥じらいは必要ない。
なんで僕は杉浦さんが身に付けた下着の話題で恥ずかしいって思うんだ。やめろ考えるな。杉浦さんの下着姿を想像するな! 馬鹿!
うぅ。憧れはなくなりつつあるが、杉浦さんをそういう目で見るんじゃない! 軟派者が!
「なに難しい顔を……そうか。わかったぞ! 底辺くん……いる感じ?」
「……はぁ? え、何を?」
「あ、あたしの使用済みの下着……いる感じかなぁと思いまして。今、なんか難しい顔して妄想してたから……すぐ使う感じ?」
とんでもないことを言い出す杉浦に、京介は強く断言し答えた。
「いりませんし、使いません! なに馬鹿なこと言ってるんですか」
京介の答えを聞き、杉浦は安堵のため息を吐く。西村は無感情に京介を見ていた。
「もー。一夜を共にした仲だからさぁ、やだー。もー!」
「変なこと言わないでください! もう早く着替えてきてくださいよぉ」
「じゃあ着替えてくるからぁ……」
「覗きませんよ!」
「何も言ってないじゃん。底辺くんのエッチィ」
「ぐぬぬ」
杉浦は「きゃー」と悲鳴をあげながら、京介の部屋へ消えていった。室内にいると無限にからかわれる。外で待っていよう。
京介は手早く用意をするが、途中で手が止まった。
ナイフが折れたんだった。新しいのにしなきゃ……。途中で買えばいいか。
外へ出る。
日は傾き始めているが、日差しはまだ刺すように痛い。昼間より涼しくなったとはいえ、まだ蒸し暑くとても不愉快だ。隣に西村が立っていた。汗ひとつかいていない。初老を迎えて暴力沙汰とは程遠そうな穏やかな雰囲気だが、彼の肉体は間違いなく鍛えられている。
単純な殴り合いなら京介なんかより強いだろう。
そんなことより、杉浦の身支度が終わるまで暇だった。西村と話さないと場が持たない。そうは思うが話題が浮かばない。
ほぼ初対面の人と何を話せばいい? 何か面白い話題はないだろうか……。共通の話題に出来そうな話は怪異祓いの仕事のことか、杉浦さんの話だけ。慎重に会話の間合いを詰めていきたい。
「猫町様と杉浦様は一夜を共に?」
話しの間合いを読まず、西村が訊ねてきた。ジャブの応酬や呼吸の読みあいを無視して、初手顔面ストレートパンチのような質問に吹き出した。意識が飛びそうになる。
この人、かなり剛腕だな。下手に答えると杉浦さんへの風評被害が起きかねない。慎重に事実だけを答えなければ。
「昨日、ひきこさんに殺されそうだったところを助けてもらったんです。そのあと、酔っぱらった杉浦さんを一晩介抱していました。あの人の家がどこだか知らないし。そしたら変に懐かれちゃって……」
「杉浦様はアルコールに弱いのに飲みたがりますからな。それで一晩介抱……。懐かれてもしかたありませんな」
西村の言い方からして、彼も何度かアルコールを飲んだ杉浦に迷惑をかけられたのだろう。彼へ親近感が少しわく。杉浦知子被害者の会結成か?
「もう一つ、なぜあなた様は杉浦様や他の方々に底辺くん、と呼ばれているのですか?」
教会の偉い人にまで、僕の不名誉な二つ名が知れ渡っているのか。なんか複雑だ。
「僕はいつも人面犬とか弱っちい怪異しか相手にせず、お金のためだけに底辺の怪異を祓っているんです。他の意識高い系の怪異祓いから見ると、僕の怪異祓いとしての意識が低い底辺くんなんです。多分、杉浦さんは怪異祓いとして僕を認めていないから、からかいもかねて底辺くんと呼ぶのではないでしょうか」
「ふむ」
「でも、人面犬を祓うのが金策には一番効率的だと思います。実際そうでしたし」
もう一つ、底辺の怪異を相手にする理由はある。胸に封印された力のせいだ。いつ熱暴走を起こすかわからない危険な力。この忌々しい力は怖いから、あまり使いたくない。
西村はその理由を多分知っているだろう。だけど、そこまで西村を信用できていない京介は、理由は口にしないでいた。
「なるほど。……ですが、昨日はひきこさんを相手にした。あれは賞金額が高い上級の怪異でしたが。心境の変化でもありましたか?」
「新しく入ってきている怪異祓いが真似するから止めてくれと、底辺怪異狩りを教会側から注意されたんです。なので賞金額が一番高かったひきこさんを狙いました」
「教会が注意……?」
西村は不審げに呟いた。
ドアノブをひねる音が聞こえ、視線を扉へ向ける。三つボタンのネイビーカラーのスーツを着た杉浦が顔を出した。革靴を履いているようで、両肩に垂れた三つ編みのおさげが軽く揺れる。香水をふりかけたのかとてもいい香りがした。
「くしし。西村さんもバカだなぁって思わない? 底辺くんって考え方がちょっと極端だよねぇ」
「いいじゃないですか、別に。あのナイフが折れさえしなければひきこさんは祓えました」
「どうだかねぇ。ヤケクソになってもよくないよ。ねぇ西村さん。おや、あの車かな? 暑いからあたしは先に車へ行ってんね。戸締りよろぴく〜」
杉浦はさっさと階段へ向かって行った。
「暑いなら、わざわざスーツにベストなんて着なければいいのに……時代はクールビズですよ!」
「うるせー。最高に可愛いだろ! クールビズなんて知るかー」
振り返りもせず、杉浦は悪態をついた。
「まったく。西村さんもそう思いませんか?」
杉浦の背中に向け彼女への愚痴を怒鳴ったあと、京介は小声で西村へ尋ねた。杉浦に振り回されている彼なら自身の愚痴を共有できると思ったからだ。
「そうですな」
やたらと嬉しそうな顔をする西村に、京介は不審げな視線を向ける。視線に気がついた西村はニコリと心底嬉しそうな顔をした。
「あそこまで浮かれている杉浦様を見るのは、一年ぶりです。つい表情が緩んでしまいました」
「いつもあんな感じじゃないんですか?」
「まさかまさか。いつも仕事の依頼をすると不機嫌に……」
「西村さーん。鍵を……車の鍵開けて。暑い。溶けるぅぅ。とろけちゃう」
アパートの階段下から悲壮感たっぷりの声色で、杉浦が叫んだ。階段を手でバンバン叩くのはやめてもらいたい。西村の話の続きも気になるが、杉浦があげる騒音をどうにかしなければならない。京介は西村に道を譲る。
「続きはまたお話しいたします」
西村は京介の肩をぽんと叩き、杉浦のもとへ向かって行った。
バカみたいな杉浦の声が聞こえる。
杉浦さんが不機嫌だって? 気のせいじゃないのか? 不機嫌の理由はどうせたいしたことないものだろうけど。でも、不機嫌な杉浦さんか……、少し見てみたいような、見たくないような。
「底辺くーん。早く来てよー。置いてくよー! 置いてかないけどー!」
「あ、はーい」
京介は一度家へ入り、桜花へ「いってきます」と言った。桜花から返事はない。
家の鍵をかけて、階段を下りていく。何がそんなに嬉しいのか、嬉しそうな顔をした杉浦が階段の下で待っていた。
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