第32話 アスファルトの上

 新鮮な空気を吸いたくてすぐに入口から少し離れた場所で大きく深呼吸した。新たな空気を循環させると袋からペットボトルを取り出し蓋を開ける。炭酸が含まれたジュースを流し込むとしゅわしゅわとした刺激の後に爽快感が残った。


「久しぶりだな深田」


 気分を入れ替えていると名前を呼ばれ声を聞いた瞬間、体は身を強張らせてしまう。


「どうして高屋くんがここに」


 忘れたくても忘れられない声の主の名を振り返るよりも早く口にした。変わらぬ嫌な笑みを浮かべた高屋君と対面するが今は過去のトラウマよりも強い感情が膨れ上がっている。


「どうしてって、家の近所なんだから普通にいるだろ。なめてんのか」


 ここが中学校の校区内で同じ学校に通っていた彼がいることも今日じゃなければ何も思わなかっただろう。しかし今日だけは彼が現れるはずがないのだ。氷室君は柳さんは男性とバイクに二人乗りし事故にあったと言った。その男性の名前こそ明かされなかったが僕は乗っていたのが彼氏である高屋君だと思い込んだ。というか彼以外にはありえない。

 だというのに柳さんと同じ病院にいるはずの高屋君は目の前に立っている。夢でも何でもないまぎれもない現実だ。いっそのこと柳さんが事故にあったこともすべて夢であればいいのに。


「柳さんが事故にあったって……」


 震える口で確かめるように聞いた。現れるはずのない人物に思考が乱されている。


「ああ、お前も知ってたのか。もしかして俺も一緒に事故ったとか考えちゃった」


 勘違いを嘲笑うような嬉々とした言葉が返って来た。柳さんとの関係性を考慮すれば真っ先に思い当たる人物だとは思うのだが。とにかく細かいことはどうでもいい。そんなことよりも聞かなければいけないことがたくさんある。

 一緒に乗っていた男性は誰なのか。君は柳さんの彼氏ではなかったのか。そしてなにより気掛かりなのがどうして事故のことを知っていながら病院へと駆け付けていないのか。怒りにも似た感情が湧きあがり問い詰めようとしたところでまた匂いの強い香水が鼻をついた。


「綾人お待たせ」


 高屋くんの名を親し気に甘い声で呼びながら僕の隣りを金髪の女性が通り過ぎた。新たな人物の登場に頭の処理が追いつかない。親し気に名を呼ぶだけにとどまらず金髪の女性は高屋君に抱き着いた。抱き着かれた高屋君も彼女がいるというのに引きはがす素振りも見せず受け入れている。


「綾人、こいつなに」


 抱き着かれながらも視線を僕に飛ばす高屋君に不信感を抱いた金髪の女性がこちらを一瞥し尋ねた。その疑問に対してはこちらこそあなたは誰なんだと聞きたい。


「中学のときの犬」


 ほとんど回答になってない紹介がぞんざいにされた。しかし金髪の女性は思い当たる節があったのか手を叩き僕が誰だか理解したといった様子だ。


「へえぇ、柳はこいつのいじめをやめてもらうために綾人と付き合ったんだ」


 金髪の女性が話し終わると明らかに機嫌が悪くなった様子の高屋くんが舌打ちをした。彼の剣幕が険しくなったことなど些細なことで、それより僕のいじめをやめてもらうために柳さんが高屋君と付き合ったとはどういうことだと引っ掛かった。近寄りがたい雰囲気を纏う高屋君だが、彼女の発言だけは聞き捨てならず聞き返す。


「今のどういうこと」


 金髪女性が嘘を言っているようには見えず、明らかに態度を変えた高屋くんの目を 真っ直ぐ見つめた。彼はなかなか口を開かず珍しく黙った。僕は一歩も引かず糾弾する姿勢を崩さない。


「どうもこうもそのままだけど。あんたは自分の彼女を犠牲に放り捨てる

最低男って意味」


 高屋君が口を割るのを待ったが、またも口を開いたのは金髪の女性だった。彼女はすぐ隣でどんどん機嫌を悪くする高屋君にも臆さずべらべらと語る。


「ちがう、僕は柳さんを犠牲になんてしていない。むしろ彼女を……」


 彼女を守ろうとしたんだ。そう言い返す前に僕の声は薄汚い笑い声に遮られてしまった。なにがそんなにおかしいのか笑い続ける女性。


「さすがの私も柳に同情するわ。こんなやつのためにねえ、可哀そう。素直に綾人に気を許していれば私にとられることもなかったかもしれないのに。そしたら今日だって……」


「ちょっと黙れ」


 意気揚々と話し続ける金髪女性にさすがに我慢の限界がきたのだろう。彼女は話の途中で高屋君に冷たい言葉を吐き捨てられ突き飛ばされた。これには僕も自業自得だと床に尻もちをついた金髪の女性には目もくれず、ほとんど話は出たと本人に直接確かめる。


「今の話は全部本当のこと」


「もしそうだったとしたら」


 いつもの嘲笑うような見下した笑みを纏いなおすと彼は問いに問で返してきた。この期に及んでもはぐらかそうとする姿勢が気に入らない。


「本当なら約束が違う。柳さんには手を出さないと約束したじゃないか」


「確かにしたぜ深田。でもよぉ、柳の方から頼み込んで来たんだから俺から手を出したわけじゃないぜ」


「そんなのはただのへ理屈だ。それに君から手を出していないって証拠もない」


「おいおい勘弁してくれよ。俺は柳がお前へのいじめをやめるよう頼み込んできたから聞いてやったんだ。俺と付き合う条件付きでな感謝してほしいくらいだぜ」


 耳障りな笑い声が語り終えた口から発せられる。柳さんが僕のために自ら頼み込んだなどありえない。彼女を守ろうとしたはずが、守られていたのが僕だったなどあってはならない。こんなやつのせいで、無力な僕のせいで。怒り、嫌悪、憎悪様々な感情が入り交じり自分を制御するのもままならない。息も思考もなにもかもが乱れ始めるのを必死に落ち着かせようと口をつぐんでいると彼はさらに饒舌に口を開いた。


「今日だってよ和真のやつがバイクの免許取ったから女乗せて走りたいっていうから俺は善意で結衣を貸してやったんだ。俺はみんなの願いを叶えているだけ。なんなら聞いてみるか本人に、って今は寝たっきりだけなぁ」

 

 必死に押さえつけようとしていたのに僕はもう我慢の限界だった。何が善意だ、何が願いを叶えているだ。何より我慢ならなかったのは貸してやったと柳さんをモノのように扱う口ぶりだった。


「ふざけるな」


 体は目の前の人物だけは許すなと訴えかけ僕は拳を抱え飛び掛かった。殴り合いの喧嘩などしたこともなく勢いだけの拳は無残にも空を切り、重たい反撃を一発頂戴してしまう。殴られたお腹を押さえながら硬いアスファルトの上に崩れ落ちた。


「調子に乗ってんじゃね雑魚が」


 口ほどにもないと彼は吐き捨てこの場を去ろうとした。僕は待てと去り行く高屋君に手を伸ばしながら訴えかけた。お腹のダメージにより立ち上がれず這いずるしかない。しかし彼の歩みが止まることはなく姿は見えなくなってしまった。唖然と静かに座り込んでいた金髪女性も遅れて彼の後を追い、敗北者となった僕だけが冷たいアスファルトの上に取り残される。固く握りしめた拳はいまだ戦意を保っているのに、その拳は自分の弱さを恨むように地面へと叩きつけることしか出来なかった。

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