第30話

 玄関の扉を開けた瞬間バターの香りがキッチンの方から漏れ出しており鼻を満たした。川崎さんが来たことを告げると顔を綻ばせた母がリビング扉を開け現れる。早くあがってと母は川崎さんが靴を脱ぎ終えると急かすようにリビングへと連れて行った。僕のお客さんなんですけどとはしゃぐ母を見送り、傘を畳んでからリビングへと向かう。

 リビング内は玄関よりも甘い香りが強く広がっており、テーブルの上には焼きあがったクッキーたちが並べられていた。母に促され着席した川崎さんは宝石を眺めるかのように目を輝かせ感嘆の声を上げている。できれば目を閉じてもらってサプライズ感覚でお披露目したかったが、嬉しそうに笑う姿を見れただけで満足だった。

 出来立てのうちに食べようとお茶会はすぐに始まり、川崎さんは写真を一枚とってからお菓子へと手を伸ばした。クッキーとカヌレどちらから手に取るかなと見守っていたのだが選ばれたのは母作のカヌレだった。やはり流行には勝てないかと次にクッキーが食べられることを祈る。


「初めてカヌレ食べたんですけど美味しいです」

 

 川崎さんは母の方へと向き直り感想を伝えた。流行とかには敏感そうな川崎さんは初めてと口にし、こんな身近に頼もしい同士がいたと謎に安心してしまう。僕も形も知らなかった小さな山のような焼き菓子を手に取り一口齧った。外はカリっとしているのに中はふわっとした不思議な食感に流行の片鱗を感じる。一個が小さくこれは何個でも食べられそうだ。

 恐るべしカヌレとクッキーの存在が危ういことを懸念したが、川崎さんの手が再びカヌレに伸びることはなくクッキーが選ばれた。駅から家までの道中クッキー作りについて熱弁してしまっていたのでうすうす感づかれているとは思うが、僕の手作りであることを告げる。

 川崎さんは微笑みを一つ浮かべると何も言わずアヒル型のクッキーを口にした。レシピ通りに作ったとはいえ不安は拭い切れずどうか美味しくあってくれと味の感想を待つ。


「美味しい。私が作るよりも美味しいよ」


 数回の咀嚼の後カヌレに負けず劣らずの反応を川崎さんは見せ絶賛してくれた。すべてはレシピのおかげなので言いすぎだよと、ましては彼女以上なんてことはあり得ないと嬉しく思いつつも謙遜する。川崎さんが丸めたハンバーグは一度食べたことがあるが、次は一からの手作りを口にしてみたい。

 裏目的であった告白の審議を確かめることなど忘れ、優雅なお茶会にうつつを抜かしていた。お皿に並べられた焼き菓子をあっという間に間食してしまい、母が追加の第二弾を取りに立ち上がりキッチンへと向かう。

 母が離れたタイミングで頭を切り替え、探りを入れるようになおかつ怪しまれないように話を切り出そうとしたのだが電子音により遮られてしまった。


「氷室からだ、どうしたんだろう」


 鳴り響くスマホを手に取った川崎さんは一言断りを入れると窓際へと向かい電話に出た。氷室君の名前を聞いた瞬間、冷や汗があふれ出てきた。彼とは今日のお茶会についてまだなにも口裏合わせをしておらず、誘っていないことがバレてしまったら非常によろしくない事態となってしまう。

 明るい声で電話に出た川崎さんだったが、声のトーンはだんだんと落ちていき数回の相槌を返してそのまま通話は終わった。声から良くない気配を感じ取っていたが、振り向いた川崎さんの青ざめた表情を見て確信した。


「結衣……ちゃんが……病院に……運ばれたって」


 誘っていないことがバレるなどという事態よりもはるかに最悪な事態に唖然としてしまう。途切れ途切れの言葉で言い切った川崎さんは一目散に駆け付けたいといった様子だが、僕と柳さんの過去を知ったからか戸惑っているようにも見えた。

 確かに僕自身躊躇いはあったが目の前の女性をこんなときまで気遣わせてしまっていることが何よりも許容できず、行こうと自ら立ち上がった。川崎さんはすぐさま鞄を手にし、僕たちはリビングを後にし玄関へ。


「待って。送って行ってあげる」


 靴を履き替え家を出ようとしたところで、緊急事態を察した母に病院まで車を出してあげると呼び止められた。三人で家を出て車に乗り込むと、川崎さんは病院の住所を母に伝える。病院は家からさほど遠くない場所にあり車であればすぐに到着できそうだ。静かな車内では打ち付ける雨音だけが鮮明に僕の耳の中へと聞こえてきた。

 

 

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