第22話 君という存在

 暗闇の中に引きこもりどれくらいの月日が経ったのだろうか。扉の外から母の心配そうな声が聞こえてきたのをおぼろげに覚えているくらいだ。もうすべてがどうでもよかった。抜け殻のような体は何も求めず空っぽだ。

 このまま闇に同化し消え去るのかなと負の世界に入り浸っているとインターホンのチャイム音が響いてきた。出迎えた母の声が微かに聞こえ玄関の扉が閉め切られると僕は再び虚無の世界へと身を潜ませる。しかし完全に闇に落ちることはなく、コンコンと無機質な音に呼び止められる。少し間を開けてから今度ははっきりとした母の声が静かな世界に響いた。


「大輔、あなたにお客さんよ」


 今は誰にも会いたくなかったし、そのお客さんとやらにどんな顔をして対面したらいいのかも分からない。帰ってくれと言いたかったがずっと言葉を発していなかった口からは息だけがこぼれた。返答がないことを見越していた母はおかまいなしにと言葉を続ける。


「携帯も見てないんでしょ。川崎さんと氷室君が何回心配して来てくれてると思ってるの」


 母の口からよく知るクラスメイトの名が告げられた。そして今回が初めてではないといった言い回しをする。僕はスマホを手に取り電源をつける。暗闇に引きこもってから二日が経過していた。画面上には川崎さんからのメッセージ通知が大量に表示されている。ロックを解除しアプリを開くと氷室君や大西君からもメッセージが来ていた。逃げ出したあの日から三人とも毎日メッセージを送ってくれていた。

 暗闇に一筋の光が差し込む。画面を指でなぞるたびに目頭が熱くなる。闇はいまだ僕を覆いつくしているが何をしなければいけないのか、どこに向かうべきなのかはっきりと見えた気がする。

 立ち上がり震える足を真っ暗な世界の出口へと向ける。光が射し、一人ではないことを知った。それでも恐怖心は膨れ上がる。ここで一歩踏み出さなければ本当に腐ってしまうと分かっていても外に出ることにはいまだ躊躇いがあった。出口に手をかけ立ち止まり最後の一歩を踏み出せないでいると、ふと海辺に佇む川崎さんの姿が脳裏をよぎった。いつか見た彼女が変わらぬ微笑みを向け手を差し伸べる。彼女とした約束を胸に僕は闇の世界を抜け出した。

 数日ぶりに部屋を出て初めて目にしたのは母の姿だった。顔はやつれどれだけ心配をかけてしまのかがうかがえ胸が締め付けられる。扉を開け対面したままで言葉も出てこず申し訳なさから目を逸らそうとした直前に母は顔を綻ばせた。


「ひどい顔ね、シャワーでも浴びてからリビングにいらっしゃい」


 母は何も聞かず人様に会える容姿ではない僕に忠告してからリビングの方へと引き返していった。心配ばかりかける息子でごめんなさいと胸の内で謝罪しリビングとは反対方向の洗面台の方へと足を進ませる。

 鏡に映る姿はひどいものだった。髪は不規則に跳ね上がり、開かれた目は虚ろで何も口にしていないためか少し瘦せこけたように見える。鏡の中にいるのは自分自身にもかかわらず、おかしく見えて乾いた笑い声がこぼし苦笑いを浮かべた。服を脱ぎ捨て最後にもう一度だけ鏡に映る人物を見つめてからシャワーを浴びた。

 髪を乾かし新しい服に着替えてから鏡を見るとつい先ほど映し出されていた酷い有様の自分自身はいなくなっていた。多少は血色のいい顔つきとなり、目にも生気が戻っている。しかしこれで大団円というわけにはいかない。ここからが本当の試練で前へと進むために踏み出さなくてはいけない最初の一歩だ。

 リビングの扉を開けるのは自分の部屋の扉を開けることよりも怖いものだった。扉に手をかけたまま震え止まってしまった手をもう片方の手で覆い、この先で待つ二人に伝えることがあるだろうと強く言い聞かせる。

 カーテンが開け放たれた窓からは暖かさに満ちた光が射しこみ扉を開けてすぐ、あまりの眩しさに視界が奪われる。再び視界が開けるとソファーに腰かけている川崎さんと氷室君が安堵の笑みを浮かべこちらに視線を向けていた。

 二人の顔を見た瞬間ぐちゃぐちゃな感情が込み上げてきた。何度も向けられたことがある笑みに安心感を覚えつつも、心のどこかではいまだに引き返したいと願っている。鉛がつけられたかのように重たい足をゆっくりと一歩一歩踏み出し二人が待つソファーへと向かった。

 ソファーまではなんとかたどり着き腰を下ろしたが二人の顔を直視することは出来ず俯き、川崎さんたちもすぐに口を開くことはなかった。何とも言えない沈黙が流れ互いにタイミングを窺っていると食器がぶつかる甲高く透き通った音色がリビングに響き渡る。視線を上げるとテーブルの上に紅茶が注がれたティーカップが置かれていた。カップを置いた母はすでに中身が底をつこうとしていた二人に確認を取りおかわりの紅茶を継ぐ。


「それじゃあ母さんはちょっと出かけてくるから」


 おかわりを注ぎ紅茶が残るポットを机に置くと母はリビングから姿を消した。玄関の扉がバタンと閉まると再び三人となったリビングは静寂に包まれた。


「いきなり押しかけちゃってごめんね」


 今度はすぐに明るい声で慎重に川崎さんが口を開いた。数日誰とも話さずにいたためか言葉が思うように出てこず僕は首だけを振る。視線を上向け向き合うと彼女はホッとするように一息つくと隣で紅茶を飲む氷室君に何か言いなさいよと促した。


「会えてよかった」


 氷室君らしい感情の起伏がまったくない落ちついた声が耳に入る。久しぶりに聞く二人の声は何も変わっておらずこの上ない安心感が身を包んだ。自分は一人ではないと家にまで駆けつけてくれた二人の存在がひしひしと伝えてくれる。目頭が熱くなりとっさに下を向く。


「ありがとう。心配かけてごめん」


 感謝と謝罪が口を衝いて出た。目元を拭い顔を上げると朗らかな笑みを湛えうなずく川崎さんと氷室君の姿があった。必死に堪えていた感情が次から次へと湧き上がり目から零れてしまう。感情のコントロールが出来なくなった僕を二人は温かく見守ってくれていた。

 溢れんばかりの感情から落ち着きを取り戻すと、手付かずだったカップを持ち上げ紅茶を流し込んだ。一息つくと僕のために来てくれた二人には包み隠さずに伝えなければいけないことがあると自ら数年前の幸せな日々から絶望の日が訪れるまでの出来事を語り始めた。

 


 

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