〇九三 スケッチブック(回想3/7)
「姫様はそこにいてください!」
「ぁわわ……」
ユウヅツは流れていくスケッチブックを追い越し、落ちないギリギリまで水路に身を乗り出すと、グッと手を伸ばして、取った。
救出した。
「わあっ、よかったっ! ……いや違っ……危ないだろう! そんなことしなくていいっ」
「でも、もう取りました」
ユウヅツは濡れたスケッチブックを振って水を切り、着物の袖でぽんぽんと拭った。厚手の表紙だから、中身までは浸透していないと思いたいが……。
ウハクのいる方へ戻る。
「姫様、中身は無事でしょうか?」
「…………」
ウハクはスケッチブックを受け取ると、パラパラと中を見た。そして。
「……うん。乾いたら元通りになると思う。……ありがとう……」
「もったいないお言葉でございます」
「……二度も助けられてしまったな……」
ホッとした表情でスケッチブックを見つめるウハクに、ユウヅツは「取って来てよかった〜」と思った。
「…………、…………」
ふっ、とウハクが視線を上げた。ユウヅツの顔をいぶかしげに見つめる。
「……ユウヅツ・ユヅリハ、だよな」
「? はい」
「おまえ……わたくしが誰か、分かるのか」
「……あっ」
ユウヅツが、自分は「一年前に道案内した少女とウハクが同一人物と気付いていない」という設定でいたことを、今やっと思い出した。
「あ〜……」
「……学園では心当たりがなさそうにしていたが」
「あぁ〜……」
ユウヅツは、自分が我が身かわいさにしらばっくれていたことを白状した。
「……入学式の日は、覚えていないのかとガッカリしたものだが、……わたくしは変装していたし、仕方ないと思っていた」
「……お顔は一緒ですので……」
たしかにウハクは髪が黒くなっていたり、眼鏡をかけたり髪を帽子に仕舞ったりで印象がかなり違っており、別人のようではある。
では何故わかったかというと、単にユウヅツは人の顔を覚えるのが得意だった。
というか。
「姫様、まさか、また迷子ですか?」
「いや? 今日は迷っていない」
「……あの時といい今日といい、姫様は、どうして一人で街にいらっしゃるのでしょうか? 護衛や付き人の方は……」
「稀にわたくしの監視が甘い日があってな。その日は、割と簡単に抜け出せるのだよ」
大問題ではないか。ユウヅツは絶句する。
「お母様やお兄様が、わたくしのことを『大切なお姫様』として大切にしようとしても、その意思が末端まで届くとは限らない。わたくしの従者には、わたくしの安否をそこまで重視していない者もいるということだ。こうして出歩けるから都合がいい」
「……良くありませんよ……」
そういえば、ゲームで「ウハクはお忍びで城下に降りて……」みたいな一節があったかもしれない。
だが、お忍びと言っても護衛は付いていると勝手に思い込んでいた。まさか本当に単身でさまよっているなんて。
(危なすぎる……ゲームの世界でも同じだったのか……?)
「……従者がどうであれ、姫様自身が姫様の身を大事にして差し上げてください……。何かあってからでは遅いのですから……」
「…………」
ウハクは困った顔だった。
「どうか、次からは外出の際は護衛を付けてください」
「わたくし一人の外出で、とんでもない数の人間が動くのがイヤなのだ」
そ、そんな理由で……、だからって……。
ユウヅツはさらに苦言を呈したくなったが、相手が皇太女と思うと、それ以上うるさく言うのがはばかられた。
「……では、せめて、今日のところは俺が護衛の代わりをしてもよろしいでしょうか? このまま姫様を一人にして、何かあったらと思うと……」
「…………」
ウハクは一瞬だけちょっと嬉しそうにしたが、すぐに顔色をくもらせた。
「それは悪い。おまえのせっかくの休みの日に、わたくしのために働かせるのは。今日のところは、おとなしく帰るよ」
「俺はどうせ暇なので気にする必要はありませんよ?」
ユウヅツは先程までウハクが写生していた野草の近くへ寄った。
「こちらを描いていらっしゃいましたよね」
「描いていたが……」
「どうぞ!」
「…………」
ウハクはもじもじとスケッチブックを触り。
「……付き人、してもらってまで、描くような大層な絵ではないから……。いい……」
「……もしかして俺、お節介ですか? よく言われるんですよ」
「…………」
「まだ帰りたい気分ではないのではと思ったのですが……」
ウハクは鉛筆をカバンに仕舞った。
ユウヅツは考えていた。
(……ゲームと同じような会話をしたら、恋愛ルートに入ってしまったり、するのかな……。なら、ゲームになかったことをしていれば、お友達ルートに入れる……?)
可能性がある。
ゲームでは、休みの日に街でバッタリみたいなシナリオは無かったはずだ。つまり、これは良い流れではないか?
「おまえは」
とウハクが顔を上げた。
「この近くに住んでいるのか?」
「あ、えーと。ここから三十分ほどの場所に、父が家を借りてくれて、そこに」
「へえ……。学園の近くか?」
「いえ、栄えてるところは家賃が高価なので。病院の近くの建物を借りています。医学生などが暮らしていて……」
などとユウヅツが説明していると、ウハクは「行ってみたい」と言い出した。
「帝都はたまに歩くが、表通りばかりだ。一般階級の人間が住んでる場所は見る機会がない。庶民の暮らしを見たい」
「庶民の暮らしって……。いちおう華族なんですけど俺も……」
たしかに、本当なら華族の坊ちゃんが住むはずのない場所に押し込められてはいるが。
「病院の近くと言ったな。場所が分からない。連れて行ってくれ」
「……姫様はご存知ないかもしれませんが、病院って、あまり良いところではありませんよ?」
「そのくらい知っているよ」
むっ、とウハクが頬をふくらませた。
この世界における『病院』は、町の薬屋や診療所でどうにもならない重症患者の吹き溜まりという扱いだ。
というのも、この世界は薬学が発展しているので、『薬』だけで大抵の病気はなんとかなる。だから、薬が効かない、効く薬がないとなると、「何それ! やばい!」なのだ。
なので病院は、「子どもや妊婦、身体の弱い人間は、病気が伝染るから絶対に近付いてはいけない」とされている。いわんや皇太女殿下をや。
自然、土地が安く治安も悪い。
……考えてみると、実家の意向でその近隣に住まわされてるユウヅツの扱いはかなり悪い。ユウヅツ自身は身体が丈夫で、まったく気にしていなかったが。
「ここから徒歩で三十分ほどかかりますよ」
「かまわない」
「……大丈夫と思いますが……、俺から離れないでくださいね」
「わかった」
ウハクは表情を明るくした。平民の生活を見学できるのが楽しみらしい。
こちらです、と案内する。
「満足したら帰るから。すまないな。いずれ礼はしよう」
「あ、そうだ、お礼と言いますが」
ユウヅツは思い出した。
「姫様、舞踏会で俺にダンスを手ほどきしてくださったのは、もしかして道案内のお礼のつもりでしたか?」
「えっ」
「あれ、後から色々な方から、しかるべき振る舞いではないと注意を受けました。ああいうお礼なら、もうやめてください」
「ぁぅ……」
ウハクは、「べつにお礼というか……」「ダンスしたら楽しいかと……」ともごもご言った後、「ごめんなさい……」としょげた。
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