〇四六 用水路
「…………。…………?」
トカクは脳内でユウヅツの言葉を咀嚼した。そして。
「……前世の記憶を思い出す前のおまえは、男爵や夫人、兄達と仲良くしたかった。けど、前世の記憶を思い出して、そんな気もなくなった……。でいいよな?」
「……そうです」
「……じゃあ……」
トカクは首をかしげた。分からなかったからだ。
「……何を迷うことがあるんだ?」
その問いに、ユウヅツは答えた。
「……もし、『俺』は生まれ変わったわけではなく、ユウヅツ・ユヅリハの肉体に乗り移っただけだったとしたら」
それを確かめる方法はないが。
「……家族仲の構築という、ユウヅツがあれほど望んでいたことを、俺が勝手に破棄するのが、……そんなこと、したらダメなんじゃないかと」
ユウヅツの懸念はこれだった。
夕也の記憶を取り戻すまで、ユウヅツは父親に愛されたいと望んでいたし、義母達に認められたくて仕方なかった。十二歳までのユウヅツの世界にはそれしかなかったと言っていいくらいだ。
そういう気持ちは夕也の記憶を得たことで消えた。
消してしまったことに、罪悪感がある。
「義理立て……みたいなもので……。……向こうから縁を切られるのは、仕方ないと思えますけど。……自分から縁を切るとなると、……ちょっと……」
「…………」
それきりユウヅツは黙った。
トカクはそれを聞いて、考えて、考えて……やっぱり思った。
「……だから、ボクが代わりに断ち切ってやるって言ってるよな?」
「そんなことをしていただく必要はありません」
「必要のあるなしはボクが決めることだ」
トカクは立ち上がった。
「さっさと除籍届を出しに行くぞ。あれだって時間がかかるんだから……」
「俺の話を聞いてくださいよ!」
「聞いただろ」
「なぐさめて励ましてくださいよ!」
「甘えるな気色悪いっ」
「ギャッ」
ユウヅツは用水路の中に落とされた。
カッとなって、という手つきではなかった。コイツうるせーし水に濡らしてやるか、よしっ。と冷静に考えた上で行われた凶行だとユウヅツには分かった。
「え……?」
前世を含めたこれまでの人生で受けたことのない形の暴力に、ユウヅツは水に浸かりながら呆然とした。人をおとしめるのに、こんなやり方があったのかと感心する。
「あ、ありえないんですけど!!!!!」
「頭が冷えたら城に、」
トカクが言葉の途中で黙った。顔面に水を引っ掛けられたからだ。
もちろんユウヅツがやったことだ。
瞬間的につむった目をぱちっと開けて、トカクは水滴をポタポタしたたらせながらユウヅツを見た。
「…………」
「あ、あな、あなたが先にっ」
やってしまってからユウヅツは「やってしまった!」と思った。
最近は慣れてきてなんとなく気安くなっていたが、トカクはユウヅツごとき、どのように扱っても許される立場なのである。用水路どころか肥溜めに落とすくらいまでなら、ちょっとしたオイタで済むだろう。
しかし逆はない。
遠くからトカクを護衛している者達の視線がワッと自分に集まってきた気がして、ユウヅツは総毛立った。
いやそれよりまず、皇子殿下が激昂……。
「あはははは!」
破顔だった。
顔をくしゃくしゃにして笑いだしたトカクに、ユウヅツは呆気にとられる。
ケタケタ肩を揺らすトカクが、次の瞬間に真顔になって殴りかかってくるのを恐れてユウヅツは身を固くしていたのだが、いつまでもそんなことは起こらなかった。トカクはただおもしろくて仕方がないみたいに笑っている。
「ははは、はは、はーっ……、ふふふ……」
「…………」
「やるじゃん」
やるじゃん、とは。
ユウヅツが戸惑っていると、トカクはいまだ用水路の中にいたユウヅツに手を伸ばしてきた。
「ほら、出てこい」
「…………」
水を吸って重たくなっていた衣服を、よっこいせと持ち上げてユウヅツは用水路から這い出した。ぼたぼたぼたと水滴が落ちて、ユウヅツが立っている地面の色が変わっていく。
「……靴。足袋。袴。着物の裾ぉ……」
「洗濯はうちの洗濯係がやってるじゃないか。汚れが落ちなければ新しいのを買ってやる」
「そういう問題ではありません」
ユウヅツは水を吸った袴を雑巾のようにしぼる。
「……出立まで一月を切った今になって、このようなことになっているのは、俺の実家の不徳の致すところで、申し訳なく存じます」
「それはおまえのせいではない」
「……考えさせてくださいと言ってから五日なにも報告しなかったことは、すみません」
「うん」
トカクはうなずく。
そして。
「今、水をかけられた拍子に思い出したことがある。ウハクも……」
「? 妹君も……?」
「……妹も、おまえみたいに、ただ落ち込みたい時があって、そういう時に強引に動かそうとすると怒られた」
やるべきことが分かっているのに、自分の力では動けず、他人の言葉も聞けない。自分の心の整理がつくまで何もしたくない状態。そういうことがあった。
……まったく同じ状態におちいっているユウヅツが言えることではないが、次期皇帝の人となりとは思えないな、とユウヅツは考えた。
「そういう時、若様はどうしていたんですか」
「妹を急き立てつつ、待てるだけ待って、影で良いように取り計らった」
「…………」
「だからといって、おまえに妹と同じ扱いをしてやる道理はないんだが」
ちょっと思い出したよ、とトカクはつぶやいた。
「…………」
「とりあえず暗くなってきたから帰ろうぜ」
「……そうですね……」
二人は城へ向かって歩き出した。
その途中で、城の方角からリゥリゥが歩いてきたのが見えた。
自分の家に帰る退勤途中か、奇遇だなぁとユウヅツが手を振る。それに気づくとリゥリゥは、まっすぐにトカク達の前に駆けてきて止まった。
「おー、ちょうど会えて幸運ある」
「? どうかされたんですかリゥリゥさん」
「ユウヅツ、おまえ早く戻った方がよろし。おまえに客が来てる」
「客?」
自慢じゃないがユウヅツに訪ねてくれるような友人はいない。客とは誰のことだ。
トカクが「客って誰だよ?」と問いかけると、リゥリゥは城の方角を指して答えた。
「ユヅリハ男爵――ユウヅツの父親が来たある」
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