〇二三 幼少のみぎり
セミの声、日差し、陽炎。
夢の中でトカクは庭園にいた。
本皇城の洋風の庭ではない、昴離宮の和風の庭だ。トカク達が幼い頃は、まだ式典などを古都東府・昴離宮の方で執り行っていた。
トカクは夢の中で小さな子どもの姿になっていた。
幼い頃の思い出を夢に見ている。しかし、トカク自身がこれを夢だと気付くことはない。
庭を歩き進めていくと、石灯籠の影でウハクがうずくまっていた。それを見つけて、トカクは安堵する。
そうだ、ボクはウハクを探しにきたのだ。
『ウハク、どうしたんだ?』
『おにいさま』
ひっく、ひっくとしゃくりあげながらウハクが振り返った。大きな瞳を涙でうるませて、くしゃくしゃの顔でトカクを見上げる。
トカクはしゃがんで視線の高さを合わせてやり、その涙をハンカチでぬぐった。
『目をこすったら赤くなる。痛いだろ、やめなさい』
『…………』
ぽろぽろと雫を落としながら、ウハクはうつむく。
それからつぶやいた。
『トカクおにいさまは、どうして、そんなにやさしいのだ?』
『? 普通だろ』
『みんな、わたくしは皇帝にふさわしくないと叱る。わたくしが、ものおぼえが悪くて、しっかりしていないから。……よき皇帝になれない皇女に、やさしくされる価値はない』
『六歳の子どもが、皇帝にふさわしいもんか。みんな、ウハクの成長に期待しているんだよ。そんな間に受けなくていい』
『わたくしは、おにいさまと比べておとっている』
トカクは黙るしかなかった。事実としてトカクは、何においてもウハクより良い成績を取っていたからだ。
だけど。
『だけどウハク、皇帝の器というものは、歴史を暗記してるとか計算が早いとか、楽器が上手に弾けるとか、そんなことで測れないんだよ』
『じゃあ何で測るのだ』
『人間性だよ。心の気高さ、うつくしさだ。歴史は専門家に、計算は学者に、楽器は奏者に任せるがいい。皇帝の仕事ってのは、そういうことじゃないんだ』
『…………』
『ウハクは絶対にすばらしい皇帝になると、ボクは思っているよ』
『だけど、おにいさまの方がすばらしい皇帝になれるはずだ』
ウハクは舌足らずに言い募る。
『わたくしとトカクおにいさまが、男と女、逆だったらと、みな思っている。今からでも、取り替えられたらって。…………』
『…………』
『わたくしもそう思う。わたくしはわたくしがイヤだ。お兄様に劣っていると思うたび、恥ずかしくて消えてしまいたくなる』
『気にすることではない』
絶望したように光を失っているウハクの目を見つめ、トカクは、だけど、と切り返した。
『だけど、ウハクがどうしても気になるなら、ボクは今度から、ウハクより少し劣るよう振る舞うことにするよ』
それは皇子の責務を放棄することになるが、トカクにはウハクの方が大切だった。
『な? それで、もう泣かなくていい』
炎天下だ。トカクはおもむろにウハクの頭に帽子をかぶせてやる。
ウハクは兄の発言に、ぎょっと目を剥いて言葉を失った。まじまじとトカクの顔を見て、それが本気か探ってくる。
『…………』
『さあ。こんなところにいたら暑さで倒れてしまうよ、日陰に行こう』
トカクはウハクを立ち上がらせると手をひいた。厨房へ連れて行って、水を飲ませてやりたい。
しばらく歩いていると、ウハクは足を止め「トカクおにいさま」と真剣な声で呼びかけた。
『わたくしは、おにいさまに、わたくしのために自分をおとしめるようなことを、してほしくない』
『…………。でも、ボクと比べられると、ウハクは苦しいんだろう?』
『それでも、あってはならない』
ウハクはトカクの目を見て言った。
『おにいさまは、おにいさまにできることを、すべてやらなくてはだめだ』
『…………』
『わたくしの不出来のせいで、兄をいやしめる以上の苦しみはない。それに比べたら、きっと何にでも耐えられる。我慢する。おにいさまは今まで通りでいてほしい』
『わかった』
トカクはうなずく。
『本当に苦しくなったなら、いつでも言うといい。ボクはいつでも姫君、あなたの味方だ』
『ありがとう』
ウハクは涙をぬぐって。
『それから、おにいさま。これからはわたくしに、もっと厳しくしてくれ』
『きびしく?』
『おにいさまが自分にしているように、わたくしをきびしく律してほしい。わたくしは、この国の頂点に立つに足る人間になりたい』
『なりたい? 不足しているところなど、今だってひとつもないよ』
『……おにいさま、厳しくしてくれ』
甘やかさないでほしい。
その言葉を受け取って、トカクは考えた末に……了承した。
『拝命いたしました、殿下』
『ありがとう……』
『では、さっそくだが姫君、あなたは健康管理がなっていない。こんな暑い中ひとりで外に出て、帽子もかぶらずいるなんて、暑さで倒れたらどうするんだ。自分の身すら守れない者に、国を守れるか?』
『わかった』
『どれほど苦しく己を打ち捨てたいような気持ちになった時でも、自分の体調の面倒ぐらいは見られるようになりなさい。大抵のことはそうだ。自分でやれることは多い方がいい』
『わかった』
トカクの小言に、ウハクはひとつひとつうなずいていく。
庭を歩きながら、ウハクは言った。
『おにいさま。わたくしは、これからもくじけたり、泣き言を言ったりするだろうけど、どうか厳しく叱って、わたくしを手放さないでね』
つないだ手に力が込められる。
『わたくしは、おにいさまに大切にしてもらうに足るひとになりたい』
『やはりウハクは皇帝にふさわしい』
『え?』
『ウハクの気高さは、そういうところだよ。きっと将来、ウハクがこの国を、もっとよくしてくれる』
ウハクはひとりで国を背負うのだから、そのウハクはボクが背負おう。トカクはそう心に決めていた。
トカクは国のためじゃなく、ウハクのために生きているようなものだった。
はっ、と。
目を覚ました瞬間、トカクは自分が寝過ぎたと体感で分かった。
「……何時だ!?」
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