無色透明
おひとりキャラバン隊
無色透明
「何色に見えますか?」
男の声が、そう言った。
いったい誰に訊いているのだろう。
少なくとも私じゃないはず。
だって、私は生まれた時から盲目で、色の事など何も知らないもの。
けれど、隣で母が私の腕を軽く2回引いて、
「
と言っているという事は、この質問は私に投げかけられたものなのだろう。
私の腕を軽く2回引くのは、母が私に話しかける時の合図だ。
「何色って聞かれても…、分かりません」
私には、そう答える事しか出来なかった。
ここは都内の大学病院らしく、時々母が病気になると通っているらしい。
何やら「いい先生に出会えたから、聡子に紹介したくて」と言っていた母に連れられるままにここまで来たが、部屋に入るなり、周囲の反響音が無くなってしまった。
私は目が見えない代わりに、耳から多くの情報を得ている。
屋外に居ても、堅い壁や地面があれば、反響音で空間の形が把握出来るし、静かな場所では自分の舌を鳴らして反響音を作り、空間の把握を行っている。
けれど、この部屋は反響音が無くて、自分の居場所を見失いそうになる。
壁や天井が吸音材か何かで出来ているのだろうか。
母の腕に掴まっているから平静でいられるものの、ここまで反響音がしないと不安のあまりパニックになりかねない。
そんな中で、正面から聞こえてきた男の声は、
「何色に見えますか?」
と言う。
これまでに盲学校で学んだ事の中に、「色」についての授業はあった。
そこでは「赤いバラ」と聞いて、実際にバラを手で触って形を覚え、何となく「赤い」という色を音声情報や点字による文字として記憶するという感じだった。
水道の水に触れた時は、「無色透明」だと教わった。
お風呂のお湯も「無色透明」だという。
あの心地よいお湯が「無色透明」で、手を洗って清潔にしてくれる水道の水も「無色透明」だという。
だから私は、あの心地良い気分にしてくれる「無色透明」という色が好きなのだと思う。
じゃあ、いつも眼前にあるこのぼやけた景色の「色」を表わすとするならば、これは一体「何色」なのだろう…
「分かりません」
と私はもう一度答えた。
「そうですか…」
と男の声がして、机の上のノートか何かにペンを走らせている音が聞こえる。
「では、これは何色ですか?」
と男の声がして、今度はカチっと小さな音がして、景色が少し明るくなった。
明暗は分かる。
盲目にも色々あるのだろうが、私には暗闇が分かるのだ。
しかし、「何色ですか?」と問われても、やはり私には答えられない。
「明るくなりましたが…、色は分かりません」
私が答えると、男は身じろぎでもしたのか衣擦れの音がして、
「明るくなったんですね? それは良かった」
と、少し嬉しそうに言った。
何が良かったのだろうか。
私には分からないが、明暗が分かる事が私にとって重要なのは確かだ。
「では、目を瞑って下さい」
と男が言った。
私は素直に瞼を閉じて、
すると、再びカチっと小さな音がして、瞼を閉じて暗闇だった景色が、いつもと違う「色」を見せた。
知っている。昼前に学校の運動場で目を瞑り、太陽を探した時の色だ。
「これは、赤い色ですよね?」
私の身体を巡る血液の色が、太陽の光を受けて見せる色だと聞いた事がある。
「その通りです。素晴らしいですね」
男はそう言うと、またノートか何かにペンを走らせている様だ。
「お母さん、聡子さんは人工視力とのマッチングに問題は無い様です」
男は母にそう言った。
「本当ですか? …良かった!」
と母が胸を撫で下ろすのが分かった。
「聡子、この病院で開発実験中の装置で、視力を得られるかも知れないんだって! 聡子なら、その装置が試せるんだって!」
嬉しそうな母の声に、私も少し心が踊るのが分かった。
そうか、私は目が見える様になるかも知れないのか。
「そう…、目が見えるっていうのが、どんな感じなのかは想像出来ないけど…」
私が言葉を探しながら一呼吸おくと、一瞬の静寂に包まれる。
それは、反響音の無いこの空間に飲み込まれる様な感覚だった。
この恐怖にも似た感覚は、私の嫌いなものだ。
私は自分の身体を抱くように肩を寄せると、
「目が見える様になると、その恐怖から開放されるんだよ?」
男の声がそう言った。
目が見えるという事。
視界が拓けるという事。
空間に「色」が付くという事。
そして、音が聞こえない事が怖く無くなるという事?
あ、そう言えば…
ふと、思い付くと、私は口を開いていた。
「私…、目が見える様になりたいです。そして…」
「そして?」
と男が続きを促す。
「そして…、見てみたいものがあります」
「ふむ、何を見たいのかな?」
そう訊く男の声は、少しはしゃいでいる様にも聞こえた。
「一番見てみたいもの…」
私はお風呂で身体を温めている気持ちになりながら、脳裏にその心地良さを思い描きながら言った。
「私が一番見たいのは、『無色透明』です」
私がはっきりとそう答えると、誰かが息を飲むのが聞こえた。
「無色…透明?」
男はそう呟いた。
私は大きく頷いた。
私は「無色透明」を見てみたい。
お風呂のお湯や、空気も無色透明らしいし、私の頬にあたる心地良い春風も確か「無色透明」だった筈。
いつも私の傍に居て、いつも私に触れていて、いつも沢山の情報をくれる存在。
それは「音」であり「風」であり「空気の振動」だった。
私の身体を清潔に保ち、私を心地よくしてくれるお湯も「無色透明」。
ならば私はそれらを見てみたい。
いつも私を私として認識させてくれる「無色透明」が、どんな姿なのかを確かめたい。
「はい。無色透明です」
私はもう一度、はっきりとそう言ったのだった。
無色透明 おひとりキャラバン隊 @gakushi1076
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