「虹色」【KAC20247:色】

冬野ゆな

第1話

 地面に滲む色を恐ろしいと思ったことはあるだろうか。


 こどもの頃、実家の周辺はまだ開発が進んでいなかった。

 わたしが住んでいた場所は全国的にも名の知られたところではあったが、それは繁華街の話。実家のあった場所はいまだ古い住宅の残る地域で、そのくせ車だけはよく通っていた。そんな当時、よく地面にうっすらと流れる虹ができていることがあった。

 地面にできている虹などというと美しく感じるだろうが、わたしはこの地面の虹に対して妙に胸騒ぎを覚えていた。

 その正体は実のところ、車からなんらかの理由で流れ出たオイルであり、わずかばかりにできた油膜である。乾いてさえいればアスファルトが濃くなるだけだが、これが雨に濡れたアスファルトに滲むと、虹のように見えるのだ。オイル漏れというとなにか大変な事態が起きているように思うが、虹ができる程度なら、べつだん問題はないという。当時は車もまだ古いものがあったから、オイル漏れもよく起きていたのだろう。

 なんだたかだかオイルの跡ではないかと思われるだろうが、私はその不気味に流れる虹色を見ると、どこか恐ろしく感じるのである。絵や空の虹を見ても別になにも感じないどころか、綺麗だとすら思う。しかし無骨で素っ気のない色のコンクリートに滲んだ虹を見ると、言いようのない不快感と、深く抉られたような奇妙な違和感を覚えるのである。

 この現象は、わたしの生理的嫌悪感から来るものだと思っていた。人間というものは、毒や病を避けるために似たような現象に嫌悪感を覚えることがあるという。例えば規則的に並んだ同じ円形――集合体恐怖症は、それが湿疹などの皮膚病を想起し、本能的に避けようとするために起きるものだと聞いたことがある。それでなくても人によってはおもいもよらない感触や食感に嫌悪感を覚えることだってあるだろう。わたしのこれもそういうものだと思っていた。


「ふーん。珍しいですね」

 わたしの後輩たる青年はほんとうに、心の底からそう呟いていた。

「そうかな」

「あのオイル漏れ、昔は実家のまわりでよく見ましたけど、最近はそうでもないですねー」

「会社の近くじゃ確かに見ないな」

「なんだろうと思ってましたけど、好きとか嫌いとかいう感情は特になかったですし……」

 後輩は不可解というような顔でわたしを見る。

「なんかトラウマとかあるんじゃないですか、忘れてるようなやつ。オイル漏れした車に轢かれかけたとか」

「そんなものがあったら、とっくにもう聞かされてるはずだよ」

「そうですよねえ。あとは触っちゃって怒られたとか。まあでも、魚の鱗とかも色が気持ち悪いって人はいますからね」

 後輩はそう言って笑っていた。

 他の人にとってはそれくらいの感覚だろう。


 そんなある日のことだ。

 仕事を終えたわたしが帰路についていると、裏道の路地に車が泊まっているのに気付いた。バタンと音がして、だれかが乗り込んだ。エンジンが掛かったままだったようで、微かに音を出している。わたしが通り過ぎようとしていると、低い音をたてて、車が動き出した。向こうはこちらに気付いていないようだった。危ないなと思いながら、わたしは端の方で車が出ていくのを待った。車はそのまままっすぐに出発していき、わたしはまた歩き出した。

 そこで、さっきまで車があった下のアスファルトに虹が染みているのに気付いてギョッとした。

 虹はじんわりとアスファルトに染みて、不気味に輝いているようにすら見えた。あの染みだ。オイルの油膜でできた地面の虹。広がる色。

 思わず足をとめる。なぜだ。なぜこんなところに。さっきの車からオイルが漏れていたのか。思えばその場所は明るく照らされている。すぐそこにある自販機の横に電灯が設置されていた。あの光のせいだろうか。そんなことがありえるのか?

 虹はわたしを試すように、じんわりと広がっていた。

 歩けない。むりやりに足を動かそうとすると、どういうわけか虹の方へと足が動いた。色が目の前にある。アスファルトに滲んだ色が。地面に片膝をつき、吸い込まれるように指先を向けてしまう。汚いものだとわかっている。触れない方がいいとわかっている。それなのに。

「あ……」

 手に、ぬるりと。

 虹色が付着した。

 そんなバカな。

 こんなことがあるはずがない。オイルはあくまでオイル。雨ににじんだところに光が反射して虹色になっているだけだ。だから指先についたからといって虹色にはならない。そんなことは常識だ。けれども、虹色は指についた。まるで絵の具を乱雑にすべて混ぜたように、指先に移っている。

 それどころか自分の指先を侵していくように、指を伝って色付けていく。手が虹色に侵されていく。それこそ絵の具で悪戯でもされたように。肌の色が虹の色に侵食され、何色ともつかぬ色に変わっていく。

「う、わ」

 わたしはパニックになり、自分のスーツに指先をこすりつけた。濃い色のスーツに虹色がついたかどうかなんて気にしている暇はなかった。わたしは指に残る虹色を取り払うべく何度も指をスーツにこすりつけ、逃げるようにその場から離れた。

 きっとあれは油膜ではなく、誰か子供が落とした絵の具だったのだと思い込もうとした。けれども指先に着いた不快感はどれほど指を洗っても取れなかった。わたしは最後には虹色をこすりつけたスーツを一式、シャツと一緒にまとめて捨ててしまった。そこまでしなくては、あの虹色がまとわりついてくるような気がしたのだ。


 翌朝、指先は――とくに直接触れた指先は、光にかざすとうっすらと虹色が付着して見えた。わたしはげんなりとした。やはりあれは絵の具だったのだ。だから指先に色がついてしまったのだ。変にこすりつけたのも悪かったにちがいない。これはもう、油性ペンのように落ちていくのを待つしかない。

 だが、虹色は思った以上にしつこかった。なんど指を洗ってもだめだった。せっけん、中性洗剤、消毒用アルコール、すべてだめだった。もはや指先を見るたびにパニックになりかけた。

 その指で自分自身に触れることすら気分が悪くなりそうだった。だが実際はそうもいかない。何気なく髪に触ったり、どこかを掻いてしまうことなんてざらにある。そのたびにびくりとするように手を離す。そうして指を見るたびに、虹色が強調して見える気がした。わたしにしかこの虹色は見えないのだろうか。うっすらとした色合いは、影になっているところでは普通の指先に見える。だが光に当てたときだけに確かに虹色が染みこんで見えるのだ。

 なにが起きているのだろう。

 たかだかオイルでこんなことになるはずがない。

 もはや指で何を触ることもしたくない。なんとかネットで「オイル 色」だの「オイル 車」だので検索をかけたが、指先に色が移るなんて現象が出てくることはなかった。唯一、水たまりにそうした虹色が出来ていた場合はバクテリアの場合がある、ということはわかった。

「バクテリアか……」

 でも、もしバクテリアに触れていたとしても、こんなことがあるだろうか。刺青でもないのに。むしろ危険なバクテリアに触れていたとして、これほどに奇妙な虹色が肌についたままなんてことがあるのか。もしかして、未知の物質や自分の知らない何かなのではないか。そう思ったが、これ以上調べるにはそもそもの情報が足りなかった。


 色は何日経っても落ちなかった。

 それどころかますますわたしの肌に固着しているように思えた。虹色はいよいよもって掌に渦巻き、指先ではなくべったりと掌で触ったかと錯覚するくらいになっていた。それが手の甲や腕にまで続いて隠せなくなってくると、わたしは自分の腕を見ることすらできなくなった。

 このせいだろうか。

 だんだんと力が入らなくなり、疲労感に襲われるようになっていた。

「ああ……」

 手袋をして仕事に出勤するわけにもいかず、かといって病院もどこに行けばいいのかわからず、わたしはだれにもなにも言えずに家に引きこもった。

 この手の色さえなければ……。

 そのとき、わたしはハッとした。

 そういえばアスファルトに虹ができるのは、雨の日だけだ。あの日は朝から快晴で、夜も晴れていた。あそこは自販機の近くだったが、アスファルトもまったく濡れていなかった……。

 わたしは何に触れてしまったのだ?

 いったいこの身を色付けているこれはなんなのだ?

 急に恐ろしくなったわたしは、勢いよく手袋をとった。色が、意思があるように蠢いていた。水に流した絵の具のように、肌の下をうねうねと色が動いている。わたしの指先から、わたしの全身を目指して移動を続けている。

「ひっ……!」

 確信した。

 これはいきものだ。

 わたしの知らぬ、未知のいきもの。

 そう思ったとたんに、ぞわぞわと全身が泡立つような気がした。そのとき、相当にパニックになっていたのだろう。足をもつれさえながらキッチンに走ると、わたしは震える手で包丁を手にした。その手にも虹色が蠢いている。もう一方の片手でじわじわと侵食する色を食い止めるべく、包丁を振り下ろした。

 うまく力が入らず、手首に包丁が刺さっただけだった。

 だがそれだけで充分だった。

「あ、あ、あああ、あ……!」

 流れたのは赤い血ではなかった。オイルのような虹色の液体がうねうねと出てきた。

 そいつはぶよぶよとしたかたまりのようになって、キッチンテーブルにその身を横たえた。虹色のオイルめいた粘液がじわりと広がっていく。

 痛みをこらえながら、背後に逃げようと足を動かす。もつれて、そのまま尻餅をついた。

 テーブルで身を起こしたそいつが、わたしをとらえた。

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