第8話 突然でもなく偶然でもなく

 さらに数百年が過ぎた。


 宇宙はまだある。太陽はまだある。地球はまだある。世界はまだある。人間たちはまだいる。犬たちは今日も吠える。猫たちは今日も爪を研ぐ。鳥たちは空の広さも知らずに風に乗り、土竜もぐらたちは大地の深さも知らずに穴を掘る。


 虫たちも微生物たちも変わらない。今日を生き、日々を過ごし、たまに死ぬ。


「地球さん、地球さん! ミツバチさんが遊びに来ていますよ!」


 女神様は花の蜜を集める働き者を見つけ、喜びに声をあげた。彼女はときどき俺の頬をつねって南米大陸に山脈を増やすような邪神のくせに、小さな生き物のことが大好きな慈愛の神なのである。


「女神様の大好きなスズメバチさんも遊びに来ているよ。あ、女神様の頭にまった」


「ええええ!? 嘘だ嘘だと言ってよ嘘じゃないと嘘が嘘で嘘だから……きゃあ!」


 慌ててクルクルと回った女神様は、足をもつれさせて転んでしまった。


「うん。嘘だからそんなに慌てなくて良いのに」


「地球さん……ひどい」


 体育座りをして不貞腐ふてくされる女神様。俺が「ごめん。女神様の可愛らしい反応が見たかったんだ」と言うと、ギチギチと強い眼光で睨まれてしまった。


「地球さんの馬鹿」


「ごめんてば。お詫びになにかするから許してよ」


「なんでも?」


「地球を真っ二つに割ったりしなければね」


 女神様は「ふふ、首のところをグルグルとひねれば、簡単に取り外しできそうですからね」と怖いことを言いながら、俺の背後へと移動した。


「なにをするの?」


「右回しと左回し、どっちが良いですか?」


「本気?」


「本気ですよ。本気で地球さんをドキドキさせてしまいます」


 後ろから抱きしめられた。


「地球さんは地球さんのくせに、人間の男の人みたいに、女の子に興奮するような変態さんですからね」


「それは違うよ、女神様」


「違うってなにがですか。海も陸も、ユーラシア大陸もアメリカ大陸も、南極も北極も、みんな揺れています。火山活動が活発になっています。こうして密着すると、まるで自分の心臓みたいに地球さんの鼓動を感じますよ、ドクンドクンって」


「女神様。俺がドキドキするのは、女の子に触れているからじゃない。女神様に触れているからだよ」


 首筋に吐息を感じる。心臓の鼓動がさらに早まり、地球全体を揺らしてしまう。何百年も一緒にいたところで、いまだにスキンシップに慣れない俺たちなのである。


「それにずるいよ。俺のことばっかり言うなんて。女神様だってドキドキしているじゃないか」


「ずるいんです、神様はいつだって」


「そうだよね」


「そうなんですよ──ところで、地球さん。がありますよね」



***



「こうやってぎゅーっとしていると分かります。分かってしまいました。答えてください、のですか?」


「なにを?」


「そうやって誤魔化そうとするなら、罰として頬をつねってしまいます」


「これ以上、南米大陸に山脈が増えたら、南米大陸が南米山脈になっちゃうよ」


「地球さん。冗談を言っている場合じゃないんです。いつから我慢していたのですか? 


 俺は誤魔化そうと考えて──でも無理だと気付いて、正直に答えた。


「たぶん……五年、いや五十年かな」


「五年と五十年じゃ全然違いますよ」


「気にしなくて大丈夫だよ。あと五万年くらいは我慢するから」


「我慢したらダメなんですよ、地球さん。我慢するほど良くないんです。たとえそれによってとしても」


「…………」


 破局噴火は、よくある火山噴火とは違い、地球規模の災害をもたらす大規模な噴火だ。


 それは数十万年に一度にしか起きなかったりと噴火サイクル自体はのんびりしているものの、一度の噴火でとてつもない量のマグマと火山灰を放出する。


 周辺の生き物たちはマグマに焼かれて死ぬだけでなく、有毒ガス、酸素濃度の低下などの理由で広範囲に死滅する。さらに舞い上がった火山灰は全世界の空を覆い、太陽光を遮断してしまい、地球全体の気温を低下させ、植物たちの光合成を阻害する。


 陸上生物も、海洋生物も、半数以上の種が絶滅する。現在の生態系の王である人類も滅ぶかもしれない。


「地球さんの義務ですよ。生理現象みたいなものです。我慢しすぎると本当にとんでもないことになってしまいます」


「女神様は……」


「なんですか、地球さん」


「女神様はつらくないの? だってこれを出してしまったら、みんな死んでしまう。ミツバチたちは花の蜜を集められなくなって死んでしまう。スズメバチたちは狩るべき獲物がいなくなって幼虫に餌を与えられなくなる。シカもウサギもキリンもゾウも餌である植物がいなくなって飢え死んでしまう。ライオンもオオカミもワニもクマもみんな餌である動物がいなくなって生きられなくなる。海の生き物たちだって海水温が低くなったり食べるものがなくなって死んでしまう。女神様の好きなものも、嫌いなものも、みんないなくなってしまう」


「地球さん」


「俺が我慢すれば防げる災厄なんだ。空から落ちてくる隕石はどうしようもないけど、噴火なら防げる」


「地球さん。地球さんは一つ大事ことを忘れていませんか?」


「大事なこと?」


「はい、私はこの地球でずっと過ごしてきたんですよ。破局噴火も、隕石衝突も、氷河期も、大陸変動も、大絶滅も、みんななんです」


「慣れているってこと?」


「慣れてはいません。慣れることはありません。慣れる必要もありません。だからつらくないかという質問には、つらいと答えます」


「だったら」


つらいから、地球さんにぎゅーっとしてしまいます。ずっとずっとぎゅーっとしてしまいます。地球さんが嫌がってもぎゅーっとし続けます。そうしてでも受け入れるしかないんですよ、地球の運命を。私たちの運命を。何度経験しても慣れることはできないけど、何度も経験しているから心構えはできています。だから私は大丈夫」


「俺は、でも、だって」


「地球さんも大丈夫。私がこうして支えてあげます。私も地球さんと一緒に世界を滅ぼします。悪い神様なんですよ、私は」


 突然と耳たぶを甘噛みされた。


「あ」


 その不意打ちに、限界寸前だった地球おれの我慢が崩壊する。


「あああ」


 北米のとある場所で爆発が起こった。地表を吹き飛ばし、マグマが吹き出した。


「ああああ……」


「地球さん」


「ああ……」


「地球さん、これでいいんです。これで良かったんです。こうするしかなかったんです」


 女神様の残酷で優しい言葉とともに、世界は壊れ始める。



***



 空を覆う灰色。火山灰が生み出した雲たちは、想定通りに世界中の空を覆っていた。


「地球さん。泣いて……いいですからね。雨が降ります。冷たくて、悲しい雨を降らせてください」


 俺はその一言で──


 こらえきれず、子供みたいに泣き始めた。めようもなく涙腺から涙があふれ、それと同時に灰色の空から大粒の雨が落ち始めた。

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