第29話 幕間⑧
怖い。徹がああなってしまったことというより、あの生き物自体に恐怖を感じている。
アタシの知っている生き物じゃない。
「どこ見てんだてめぇ!」
放置してた男が痺れを切らして、アタシの喉を抑えつける。
うるせえ。
肩が外れていない方の手で男の鼻っ柱をぶっ潰す。
男は鼻を押さえながらよろける。
男の腰が浮いた。
アタシは全力で男の股間を膝で蹴り上げた。
「う"っ」
変な呻き声をあげると、男はさらによろけながら、橋の下から逃げようと駆け出した。
「待てコラ!」
アタシから逃げられると思ってんのか。
第一、徹にすら触れられてない胸を弄んだ罪はこんなもんじゃ済まない。
男を追おうと立ち上がった瞬間、コンクリートの坂下から、赤色の稲妻が走った。
徹だ。血を撒き散らしながら、男の髪を掴んで、そのまま反転して地面に叩きつけようとする。
「いてっ!待ってく」
懇願した男を無視して、刮目した徹は地面に強くその男の頭を叩きつけてバウンドさせる。
あれは、割れたのでは。
いくら土手の土部分とはいえ、踏み固められた地面だ。
坂で上手く力が伝わらなかったことを加味しても、あれは割れたと思うぐらいに豪快なバウンドだった。
鼻から血が噴出する男の頭を再度掴むと、また高さをつけようと持ち上げる徹。
「や、やめて!」
流石にもう一回はまずいと、思わず声をあげてしまう。
殺すつもりだったけど、本当に死なれると流石に目覚めが悪い。
その瞬間、徹の目がハッとすると、また眠そうな雰囲気を取り戻して、辺りを見渡している。
その時に気付く。
徹の腹に突き立つそれを。
「恋、怪我は」
「そんなのどうでもいい!」
徹の元に駆け寄る。
どうすればいい。
こんな凶器が出てくる喧嘩は初めてだ。
腹に、ナイフが刺さるような喧嘩はしたことがないんだ。
混乱する頭でとにかく救急車だと結論を出して、急いで携帯を引っ張り出して救急車を呼ぶ。
その間、徹を土手に寝かせて救急車を待つ。
確か重篤な怪我をした時は、下手に動かさない方が良かったはずだ。
ナイフもそのままの方が、傷を開かせなくて良かったはず。
ダメだ。どれも予測の域を出なくて、正しい行動がわからない。
全部うろ覚えの知識で、何も正解がわからない。
どうしよう。これで徹が死んでしまったら。
そんなことを考えてたらまた涙が零れてくる。
嫌だ。死ぬな。絶対に死ぬな。
神様。本当になんでもあげるから、徹だけは死なせないでくれ。
アタシが代わりに死んでもいいから、徹の命だけは取らないでくれ。
そんな願いを強く捧げながら、到着した救急車でアタシ達は病院に運ばれた。
当然、徹は手術室に連れてかれた。
ナイフが刺さった腹もそうだが、警棒らしきもので殴られすぎた後頭部も危険な状態だった。
手術室の前にある椅子に座っていると、徹のお義母さんが病院に到着する。
「お義母さん…」
「恋ちゃん。徹に付き添ってくれてありがとうね」
罵るのでもなく、泣きはらすのでもなく、お義母さんは笑ってアタシにそんな声をかけてくれた。
「ちがっ、これは、アタシが」
「少しだけ、あの子の昔の話をしてもいい?」
全ての罪を告白しようとしたが、お義母さんの静謐な雰囲気に遮られて、アタシは何も言うことができなくなってしまった。
アタシとお義母さんは並んで、手術室の前のベンチに座る。
「あの子ね、昔、お父さんに鍛えられてたの」
曰く、それは灘家に伝わる特別な筋トレのようなものだと言う。
濁してはいるが、そんな生易しいものでは無いだろう。きっと血の滲むような苛烈さをはらんだ、トンデモ訓練が行われていたに違いない。
何度か徹と抱き合った時にそれは感じていた。
何もしていないとは思えないほどにしっかりした体。
当時は普通に鍛えてるんだなぁ、ぐらいに感じていたが、家に伝わるぐらいの秘法だ。普通の鍛え方だなんて考える方が今は難しい。
「ある程度、徹の体ができた時にね、お父さん、徹を連れて試合にでかけちゃったの」
お義母さんの声に詰まりが出てくる。
ここからが、お義母さんの聞いて欲しい話なんだ。
「その試合でね、まだ体のコントロールが上手く利かなかった徹がね」
一呼吸置いて、お義母さんが続ける。
「相手の人を、殺めてしまったの」
昼間の病院の廊下は騒がしく、その声が響くことは無かった。
あくまでアタシと、お義母さん。二人だけに聞こえる声だった。
「もちろん、それは事故として処理されたわ。実際、徹の攻撃の当たり所が悪くて、亡くなってしまったのも事実だわ」
お義母さんは続ける。
「誰も責めなかったの。こんな言い方をしてはアレだけど、相手の方は天涯孤独だったし、あまり評判も良くなかったから」
そう語るお義母さんの言葉に、妙な引っ掛かりを感じる。
偶然の死。
悪評の高い相手。
それを責めない周囲。
まるで、最初から、殺害することが目的だったような。
「恋ちゃん」
お義母さんがアタシを見据える。
「今が最後よ。恋ちゃんはまだ背負わない選択ができるわ」
その目は、とても優しかった。
離れていいのよ。誰もそれを責めないわ。
そう、その目は語っていた。
「お義母さん」
だからアタシは答える。
例えどんな闇が徹について回っていても、アタシはもう戻れない。
アタシ、
徹がいないと、
「アタシ、徹がいないと死んじゃいますから」
これ以外に、回答は無い。
「徹も、アタシがいないと死んじゃうそうです」
ついでに言っておく。
アタシ達は、もう呪われた人間だから。
壊れた人間達が、互いを求めた結果だから。
「だから、アタシ達は一緒に生きていきます」
だから、もういいでしょ。
アタシがいて、徹がいて、後はもうどうでもいいでしょ。
もう何回願ったかわからないけど、また願っておこう。
アタシから、徹を奪わないで欲しい。
お義母さんは泣きながら笑った。
「そう………あの子、本当に良い子とお付き合いさせてもらってるのね」
その感想もどうかとは思うけど、アタシの執着から目を背ければ、確かに美談に感じる。
「恋ちゃん」
「はい」
「これからも、あの子をよろしくね」
「…お義母さん、アタシからもお話して、いいですか」
アタシは今回の事の顛末を、なるべく
正直な話、今回の件は全てアタシが起点になってる。
徹を殴った奴も、カツアゲした奴も、全てアタシが殴ったことが始まりだ。
そして、徹が瀕死になっているのもアタシを守った結果だ。
アタシが余計なことをしなければ、アタシが全てを被っていれば、徹は今も無事に生活していたはずだ。
それを、全てお義母さんに伝えた。
「…本当に申し訳ありませんでした」
「いいのよ」
それを一言。たった一言でお義母さんは済ませた。
この人はこういう言い方をする。
考えてないんじゃない。ちゃんと理解した上で相手を許せる人なんだ。
「正しいことしたのは恋ちゃん達だもの。おかしいのは彼らよ。恋ちゃん達が悪い要素なんて何も無いわ」
それはそうだが、アタシが関わらなければ、と思わずにはいられない。
「恋ちゃん。貴方は人を助けたのよ。恋ちゃんがその人達を助けなければ、もっと酷いことになっていたのだから」
この人は、本当に優しい。
徹には辛辣だけど、それもまた、徹が過去を気にしないように冗談めかしているだけだ。
母親とは、こんなにも他人を
「だから、改めてあの子を、よろしくね」
「……はい」
アタシのその言葉と同時に、手術室のランプが消える。
その後、先生は「手術が終わりました。患者さんは無事ですよ」とにこやかに伝えてくれた。
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