第17話 挨拶

 恋が寝てから、俺はしばらく恋の寝顔を見ていた。

 当然、手も繋いだままだ。

 目からは寝顔、手からは体温。こんな役得を易々手放すわけが無い。

 本当に俺には勿体無いぐらいの可愛い彼女のなら尚更だ。

 普段は凛々しく立ち回ってるのに、ふとした時に可愛くテンパるし、いつもはハスキーな声で格好良いのに、甘えてくる時は柔らかな声で擦り寄って来る。

 これを意識的にやってるなら魔性だし、無意識でやってるなら真性の魔性だ。

 どっちにしても、俺は恋にやられてしまっている。

 俺は恋の汗で濡れる髪をすくい上げる。

 閉じられた切れ長の目が、綺麗な顔立ちをより際立たせる。

 美人だ。初めて恋を見た母さんが、慌てていた理由を改めて理解する。

 そして、同時に思う。

 俺は本当にこの美しい女性に、正しさを貫いていると言えるのだろうか、と。

 俺と恋が初めて会った日から、ずっと恋に隠していることがある。

 それは、恋が俺を助けなければ負い目など感じ無かったことだし、逆に恋に助けられたからと負い目を感じることでも無い。

 あの日、恋はきっと恋自身の思いがあって俺を助けたんだと思う。

 であるなら、あのヤンキー男達につっかかった恋は、自分の思いを発奮したにすぎない。

 だが、それでも隠し事をしているのは事実だし、最初からこれを隠さないでいれば、恋をあの危険に巻き込むことは無かったと思う。

 でも、それは、

「恋」

 恋との関係が構築され無かった未来でもある。

 今となってはそれは、非常に虚しい世界だ。

 こんなに可愛く、綺麗で、真っ直ぐな女性と一緒にいることができない世界など、虚しいと言わずになんだと言うんだ。

 恋は黙っていることを許してくれるだろうか。

 恋と共に過ごす中で、きっとそれはいつかバレることだと思う。

 その時、恋は怒るだろうか。

 その時、恋は許してくれるだろうか。

 その時、恋は一緒にいてくれるだろうか。

 色々と思うことがある。それでも俺は、今の恋と過ごす毎日がたまらなく楽しく、とてつもなく大事なんだ。

 だから、恋には気負わないで欲しい。

 恋が俺に逆上して落ち込むことなど無い。

 恋がふっかけた喧嘩に俺を巻き込んで、自己嫌悪に陥ることなど無い。

 俺も、恋に隠しごとがあるんだから。

「ん…徹…」

 ふと、寝言で俺の名前を呼ぶ。

 どんな夢を見ているんだろう。

 恋の夢に出てくる自分は、恋を幸せにしてやれてるのだろうか。

 俺は、恋を本当に幸せにしてやれてるだろうか。

「好きだ、恋」

 今一度、自分の気持ちを口にする。

 幸せにしてやれるかじゃない。絶対に幸せにする。

 ただそれだけのことだ。

 ふと時計を見上げると、恋の寝顔を一時間も眺めてしたらしい。

 時計の短針が秒針ばりの瞬間移動を見せつけてきたので、少し名残惜しいが、俺は恋の手を解いて階下に行こうと腰を上げる。

 直後、また恋に捕まる。

「恋、起きたのか」

 恋に視線を落とす。

 寝ている。恋はまだ寝ている。

 再度、手を解こうとする。

 今度は離れない。

「恋。起きてるだろ」

 だが恋は反応しない。なんなら、口から涎を垂らし始めている。

 彼女は、寝ている。

 可愛い。こんな気の抜けきった顔を見せてくる恋に、また脳が歓喜のあまりに震え出す。

 そうか。恋は求めてくれるのか。

 もしくはそれは自意識過剰で、本当のところは抱き枕的な何かとして、俺の手を握っておきたい程度の気持ちなのかもしれない。

 でも、もうどっちでもいい。

 彼女は俺を欲してくれてる。

 この事実だけで、気持ちの軽重なんて関係ない。

 愛しい彼女の驚異的な察知能力に驚愕しながら、彼女の覚醒を待つ。

 どうせ時間は潰せる。

 目の前にいる涎を垂らした女神が、俺に飽きさせる時間を与えてくれないのだから。



「んぁ……」

 それからもう一時間後。恋はゆっくり目を開ける。

「起きたか」

 俺は恋に声をかけて、彼女の覚醒を確認する。

「徹…?なんで徹が……」

 そこまで言いかけて、恋は辺りを見渡す。

「そっか、アタシ徹の家に来て…」

 現状の再確認が終わったところで、恋は慌てて自分の口を拭う。

「あ、アタシ、涎…!」

「もう枕、洗わないで使おうか」

「デリカシー!」

 思いっきり枕を顔面に投擲してくる恋。

 可愛い。

「顔色、良くなったな」

 引き始めの風邪だったのだろう。

 薬もよく効いたようで、恋はいつもの健康的な白さを取り戻していた。

「お、おかげさまで」

 恋は少し気恥しそうに、俺を睨みながら顔を半分布団で隠している。

 まだ涎の跡を気にしてるのか。愛い奴め。

「どうする。汗もかいただろうし、風呂はいってくか」

「それは、ありがたいけど」

 言い淀む恋。

 今度は何を気にしてるんだ。

「徹のお母さん、帰ってきてるんだろ?声、

聞こえたんだ」

「そうだな」

「なら、その、徹のお母さんに、挨拶しないと、だろ」

 俺の彼女として、ということだろうか。

「恋、それなんだが」

 体温計を取りに行った時に、友人であると紹介したことを恋に告げる。

 恋は少し複雑そうな顔をする。

「アタシ、まだ徹の彼女になれてないのか」

「違う。そうじゃない」

 またネガティブな気持ちを垂れ流し始めたので、すぐに否定する。

「今の母さんに恋が俺の彼女だなんて紹介したら、卒倒するか、今すぐ俺を引きずって恋の家に土下座しに行くと思う」

「え、どういうこと」

 至極真っ当なご意見だ。

「卒倒するのは現実を受け入れられなくて」

「待って。その時点でおかしくないか」

「母さん、恋が綺麗すぎて俺に釣り合うと思ってないんだ」

 恐らく卒倒するのも、土下座しに行くのも根底にその意識があるからだろう。

 それを聞いた恋は、うっすらと笑顔を浮かべた。

 なぜだ。空気が急に凍った気がする。

「徹。やっぱり挨拶するよ」

「お、おう。そう、するか」

 気圧されて恋の意見を了承してしまう。

 さっきまで寝入っていて、所々乱れてしまった身だしなみを恋が整えている内に、俺は下で夕飯の支度をする母さんに話を通しに行く。

「母さん」

「あら。もうお友達は起きたの?」

「あ、ああ。それで、母さんに挨拶したいって言うから、少し話聞いてくれないか」

態々わざわざ律儀ねぇ。あんな綺麗で礼儀正しいなんて、アンタ、あの子彼女にしちゃいなさいよ」

 その言葉、忘れるなよ母さん。

「はは…まぁ、とりあえず呼んでくるよ」

「あらあら、緊張しちゃうわねぇ」

 ほほほ、なんて笑う母さんを尻目に、部屋まで恋を呼びに行く。

 母さん、まだ俺AED買えてないから心臓を止めるのだけは勘弁してくれよ。

「恋、行こう」

「ああ」

 恋はいつもの凛々しい出で立ちだった。

 顔はやる気に満ち満ちている。

 格好良いと思うと同時に、冷ややかな汗が背中を伝う。

 変なことにだけはしないでくれよ。

 二人で階段を下りて、リビングで待つ母さんの元に向かう。

 さあ、いざ邂逅だ。

「母さん。この子、俺の同級生の椿つばき れん

 リビングに入りながら、流れるように紹介する。

 母さんは台所でお茶の用意をしていた。

「お薬、ありがとうございました。おかげですっかり良くなりました」

 俺に続く形で、恋がもらった風邪薬の礼を述べる。

「い、いいのよ。元気が何よりなんだから」

 凛とした態度の恋に、母さんは緊張した様子で言葉を返す。

 場馴れしてるかつ、やる気に満ちている恋はこの場を支配している。

 母さんも悪い意味で緊張しているのではなく、単純に恋の美麗さに呑まれているだけだろう。

「今、お茶出すわね」

「すいません、ありがとうございます」

 ここで遠慮しないで、礼を述べた上でしっかり好意に甘える恋。

 流石、戦闘状態の恋は冴えている。

「それで、お義母様にご挨拶をしたくて、お邪魔させていただいたのですが」

「お、お義母様だなんて。もっと砕けた感じで呼んでくれても」

「いえ。徹君の彼女として、挨拶させていただきたいので」

 火砲が、鳴った。

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