第9話 呪い

 結局、妹さんに払わせる訳にはいかないので、割り勘で決着を付けて、店内から出る。

『こんな姉さんですけど、仲良くしてあげてください』

 と、微笑ましく言われたが、こちらは初喧嘩を初見の彼女の家族に見られて、汗顔の至りだ。

 騒がしくしてすみませんでした、と頭を下げたが、妹さんからは『また来て、幸せそうな姉さんを見せてくださいね』と懐の広いお言葉をいただいて、恥をさらに上塗りさせていただいたのだった。

 さて、そんなこんなでカフェから出たものの、恋さんは先を歩いて表情を見せてくれない。

 喧嘩に関しては妹さんによって冷水をかけられ沈静化した形になったため、それほど気にしている様子は無いように思うが、内心では怒りが逆巻いているのかもしれない。

「恋さん」

 この状況は流石に不本意だ。

 なんとか立て直そうと、恋さんに声をかける。

 だが、恋さんはその足を止めてはくれない。

「そのままでいい。聞いてくれ」

 恋さんの背後から声をかけ続ける。

「さっきは悪かった。初めてのデートで舞い上がってたんだ」

 出会って四日、付き合って二日しかないこの超短期間で、あまりに可愛らしい表情を見すぎたせいか、余計な欲を出してしまったことは否めない。

「男らしさを出さないといけない場面というのに呑まれてしまったのも、自分にも甲斐性があることを見せないといけないという使命感に駆られたのも否定できない」

 恋さんの足は止まらない。

「恋さんの言う通りだ。これからも一緒にいたいと思っているのだから、恋さんの弱みを作るようなことはするべきじゃなかった」

 恋さんは言ってくれた。『これから一緒にいる』と。いるかもしれない、ではなく、いる、と。

 俺はその想いを受け止め、大事に守っていかなくてはいけなかったのだ。

「今度から気を付ける。今後も同じように思うことがあれば言って欲しい。だから、」

 だから、

「こっちを、向いてくれないか」

 俺は店を出てからずっと、あの綺麗で、多彩な表情を見せてくれる顔を見れていないことに絶望を感じていた。

 このまま別れてしまうのではないだろうか、そんな恐ろしいことが起きてしまう可能性があると、頭の片隅で最大級の恐怖が鎌首をもたげていた。

 それは嫌だ。なんとしても彼女だけは手離したくない。

 せめて、せめて彼女の立場を回復させるまでは、あの幸福を味わわせて欲しい。

 そんな稚拙な願いが届いたのだろうか。

 恋さんは足を止めた。

 気付けば俺達を囲んでいた建物群は後方にあって、あの河川敷に流れる川が足元でさらさらと流れる、橋の上にいた。

 あまりに必死だったせいか、周りの全ての音すら聞こえていなかった。

 立ち止まった恋さんは振り返らない。

 左耳にぶら下がる銀色の小さな十字架が、風が強く吹く橋の上で激しく揺れて、今にも吹き飛んでしまいそうだ。

「徹」

 その時、凛としたハスキーな声が自分の耳を撫でる。

「アタシ、熱くなりやすいんだ」

 風が切る音より、車が掻き鳴らす雑音より、その声はしっかりと聴こえている。

「馬鹿なんだ。いくら勉強しても、色んなことを分かった気になっても、これは治らないんだ」

 その声は、凛としていながら、怯えていた。

「それがアンタを傷付けるって気付いてたのに、止められなかったんだ」

 ふるり、と黒いポニーテールが揺れる。

「今まで何回もこんなことしてきた。その時には「ああ、悪かったな」程度にしか思わなかった。なのに、」

 涙を目に湛えた彼女が、こちらに振り返る。

「今、アタシは怖い」

 不安から溢れ出るその雫が、強い彼女の弱い部分として、夕陽の光を受けて輝く。

「これからも同じようなことを繰り返して、段々アンタに嫌われていくのが簡単に想像出来て、最後を迎えるのが、本気で怖いんだ」

 切れ長の目から溢れた雫が、頬を伝って一筋の線をえがく。

 そして、彼女は言う。

「頼むよ、徹。別れてくれ」

 凛とした声は、確かな熱量を持っていた。

 嘘や冗談なんかではない。

 誰かに言わされているわけでもない。

 試している、わけでもない。

 彼女は本気で、そう言った。

「今ならまだ間に合う。ちょっとの間見れた夢だったって思える」

 彼女の独白は止まらない。

「でも、これからも一緒にいたら、別れの時が来たら、アタシは本当に壊れる」

 次第に彼女の唇が震えだす。その時を想像したのだろうか。

「自分勝手なのは分かってる。それでも、アタシは怖いんだ」

 震える唇で自嘲する。

「徹。頼むよ。アタシを、アタシのままでいさせてくれ」

 泣きながら、彼女は笑った。

「アンタを傷付けながらのうのうと生きるような、恥知らずにさせないでくれ」

 俺を傷付けたくないと、そう言った。

「…こんなカッコ悪い話聞いてくれてありがとな。本当に最後に一言だけ」

 ずっ、と鼻をすすると、涙でくしゃくしゃになった顔で、あの凛々しい声で言った。

「ありがとう。こんなアタシを好きになってくれて」

 その瞬間、俺は恋さんの手を掴んでいた。

「徹?」

「言いたいことはそれで全部か」

「え?」

「思うことがあれば全部言って欲しい。俺はさっきそう言ったはずだ」

「そ、そうだよ。アンタにはもう十分幸せにしてもらっ」

「そうか。じゃあ今度は俺の番だな」

「た、ターン制だったのか!?」

 どうして自分だけ思いの丈を述べられると思ったのか。

 俺は朴念仁だ。人のことなどいちいち気にしてられない人間が、さっきまでずっと聞き手にまわっていたんだぞ。

 それぐらい、恋さんのことが知りたいんだ。

 それぐらい、恋さんの話が聞きたいんだ。

 それぐらい、恋さんのことが好きなんだ。

「まず一番重要で、一番衝撃的な話からしよう」

「な、なんだ。やっぱり遊びだったとでも言ってくれるのか」

 涙で腫れた切れ長の目が、キュッと睨みつけるように細まる。

 どうしてそうなるんだ。そんなこと言ったら、俺の初恋が逃げてしまうだろうが。

「俺はな、恋さん」

 ごくり。れんさんの唾を飲む音がしっかりと聞こえる。

 本来ならこんな騒々しい場所で、聞こえるはずの無い音だ。

 本当にこの人の、一挙手一投足が好きなんだな、俺。

 そして、キメ顔をして俺は言った。

「呪いの装備なんだ」

 車の走り去る音が嫌に響く。

 鴉の鳴く声が遠く響く。

 そして、大ゴケした独特の空気が脳に響く。

 恋さんはきょとんとした顔をしながら、かくんと横に傾けた。

「え?」

 しっかりしろ俺。タダで転んでたまるか。

「しかも、現代の教会に呪いを解く神父はいないんだ」

「ちょ、ちょっと、何の話だい」

「知らないか?呪いの装備」

「あ、あれだろ?装備したら外せないっていう」

 そう。某有名RPGでおなじみのアレだ。

「知ってるじゃないか」

「いや、知ってるけど、あれは装備品だろう?アンタはむしろ装備を付ける側だろ」

「ほう。なかなか良いツッコミだ」

「ふざけてんのか?」

 物凄くシリアスだった空気が、俺のせいでもう滅茶苦茶だ。

 だが、これでいい。

「ふざけてない。俺は装備した人間を一生離さない」

 さっきも言ったが呪いの装備を外す手段は無いのだ。

 この世には、魔法のような奇跡は無い。

 この世には、異世界のような便利道具はない。

 この世には、重苦しい現実があるだけだ。

「もう恋さん、いや、恋と俺は離れたくても離れられないんだよ」

「そんな勝手、許されると」

「許されるさ。だって、」

 恋の腕を掴む手と逆の手で、そっと恋の涙の跡を拭う。

 恋はびくりと体を強ばらせたが、それを甘んじて受ける。

 拒絶は、無い。

「お互い、忘れることなんてできないんだから」

 片方が忘れようとしても、片方が忘れられないんじゃない。

 両方とも忘れようとしても、両方とも忘れられないんだ。

 それが呪い、格好をつけて言うならば、これが恋という呪いなのだから。

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