第3話 不遇
椿さんの無感情ながら、どこか寂しそうな雰囲気を感じ取りながら、俺は咀嚼してたパンを飲み込んだ。
「知ってるとは?」
「言葉のままだよ。アタシの『噂』、知ってんだろ」
椿さんの声に感情の色が混ざる。
緊張か、怒りか。
さっきより少しだけ冷たさが増した気がした。
「今朝、友人から聞いた」
ありのまま答える。嘘をつく必要は無いし、彼女も嘘は望んでいないだろう。
「今朝?この時期になって?」
彼女は自分が有名人であることを自覚しているようで、こんな時期になって自らのネガティブな噂を聞いた俺に、妙な不信感を持ったようだ。
「興味なかったから。嘘か本当かわからない噂なんてな」
紛れもない事実だ。昨日、彼女に助けられたことをきっかけに、初めてその噂に対してまともに耳を傾けたが、所詮、噂は噂に過ぎなかった、と言うのが素直な感想だ。
俺の答えに、椿さんは困惑したような表情をしていた。
「でも今のアンタは、アタシのこと知ったんだろ」
再度、質問してくる椿さんは、少し拒絶の色が見て取れる。
拒絶が怖いのに、拒絶されようとしに来てる。そんなちぐはぐな感情が、声の緊張として現れているような気がした。
傷付く前に突き放す。そんな不器用な事を彼女はしているのだ。
きっと、それはおそらく、今回だけではない。
「変わらないな。椿さんは昨日、俺を助けてくれた椿さん。それだけだ」
一体、彼女の何が気に食わなくて、そんな噂を流すのか。全く関係ない俺が、その噂に少し苛立たしさを覚えているぐらいだ。
「そ、そっか」
小さな声で嬉しそうに呟いた椿さんは、少し顔を俯かせて栄養補給スナックを齧る。
彼女には何の非も無いのに、居場所が剥奪されているのは納得がいかない。
彼女には学校に来て欲しい。
そんなことをぼんやりと思いながら空を見上げた。
雲が一つも無い晴天に対して、胸の
それから二、三ほど他愛も無い話をして俺と椿さんは屋上で別れた。
俺は他にやることも無いので教室に戻る。
椿さんはどこに向かったのか分からないが、教室はおそらく空気が悪いだろう。彼女なりの安息地に今は居てくれることを願う。
「お、徹。いいところに」
ふと廊下を歩いていると、用事を済ませたであろう理人が俺に声をかけてくる。
「どうした?」
「すまないが、少し手伝われてくれるか」
「ああ。何するんだ」
まだ用事は終わってなかったのか。
理人の手伝いは割と頻発する出来事で、時間を潰すにはうってつけの細かいものが多い。
「こいつを図書室の扉に貼ってきてくれ」
そう言って手渡してきたのは、『今月の入荷予定表』と書かれた、図書室に納品される図書の一覧だった。
「ついでに先月分も剥がしてもらっていいか」
今日はちょうど月末日。まぁ、何日か残っていてもこの表に執着する人物はそうはいない気がする。
「わかった。先月分が貼ってあった場所に貼ればいいんだな」
「そうだ。手間をかけさせてしまってすまんな」
理人はよく分からない場所でよく分からない行動をしているので、こういう雑事をよく分からない時にしている。
誰かに頼まれたことなのだとは思うのだが、なぜか俺以外の人間に話しかけられている様子は見ない。
謎の多い友人だが、そんな友人を助けてやるのもまた友人というもの。
余計な詮索は不要だ。
「OK。とりあえず行ってくる」
紙を持っていざ図書室へ向かう。
図書室に到着して、扉を確認する。外側には入荷予定表を見受けられないので、内側に回る。
ふと、その時に視界の端に気になる影を見かける。
椿さんだ。黒いポニーテールとカジュアルなパーカーが、他の生徒より強い存在感を示している。
彼女は文庫本を広げ、
元々人の少ない図書室だが、彼女の周りだけ異様に人が少ない気がする。
確かに図書室の基本原則、『図書室ではお静かに』を考えれば、教室にいるより周りから何か言われる機会は減るな、と思った。
さて、それはそれとして理人から依頼されていた、入荷予定表の張り替えを行うことにしよう。
作業を開始した直後、廊下から複数人の女子生徒が、
その中の一人が図書室に入った瞬間、その歩を止める。
「げ、椿だ」
苦虫でも噛み潰したような顔をしながら、すぐに図書室から出ようとする。
「どうしたの?」
「あの椿だよ。売りやってるって噂の」
「え、あの噂本当にだったんだ」
「らしいよ。別クラの友達が男と歩いてる椿、見たってさ」
「こわー。まぁ、股とか頭とか緩そうだもんね」
「イメチェンでも目指してんのかね。本なんて読んじゃってさ」
「今更遅いっしょ。そんなこと気にすんなら、最初から売りなんかやるなっての」
下衆な話題を振りまきながら、女子生徒達は図書室を離れていく。
さっきのやりとりに、胸の靄が一気に膨れ上がる。
売り?彼女のどこにそんなことが一目でわかる要素がある。
男と歩いてた?その関係性が誰かによるだろう。父親かもしれない。兄かもしれない。または親族のように親しい誰かかもしれない。そもそも、それを見たという証拠も無いのだ。人違いかもしれない。見間違いかもしれない。信憑性がその話には無い。
イメチェン?それが必要ならまず噂を否定するところから始めるだろ。そうじゃなくても、図書室には寝に来るような人間もいるのに、あんな真剣に本を読んでいるという事実に違和感は無いのか。
「っ」
彼女を知ったのは昨日だ。
だが、あの一日は彼女を知るのに十分だ。
体を売るならバイトをするだろう。
イメチェンをするぐらいなら、真正面切って戦うだろう。
噂を放置しているのは、最早、噂を消せる段階に無いからだ。
彼女は友達を作ることを諦めている。自ら拒絶しようとしてくるぐらいなのだから。
そうして、周りを傷付けないように生きている。
彼女は、必要以上に正しく生きているのだ。
悔しくなって、剥がした入荷予定表を握りつぶす。
紙のひしゃげる音が静かな図書室に響く。
「お、おい、アンタ」
ふと、後ろから声をかけられる。
椿さんだ。
「なんか、すごい顔してるぞ。大丈夫か?」
あんな噂を立てられても、この人は他人のことを心配している。
「そんなに紙に八つ当たりしたくなるぐらいその作業が嫌なのか。手伝うぞ」
そして、少し天然だ。
「ほら、新しいの貼るんだろ。押さえてやるから画鋲刺せって。アンタの方が身長高いんだから」
この人を、救いたい。
「よし。こんなもんだろ。今度から嫌な事は嫌って言った方がいいぞ」
不名誉な噂を放置してる貴方が言うな。
「お、もういい時間だな。それじゃ」
「椿さん」
「ん?」
「明日も俺は学校にいるから。昼は屋上にいるし、放課後は帰宅部だから暇だ」
「お、おう。そうか」
「だから、明日も」
今、自分がどんな表情をしているかよくわからない。
もしかしたら、脅しているような表情になっているかもしれない。
彼女には飲めない提案かもしれない。
それでも、伝えずにはいられなかった。
「学校に来て欲しい」
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