3.「きたねえガイジン」


「ぐぅっ……!」


 ドカッ、バキッ、ガツッ、という打撃音が、深夜のコインパーキングで大きく響く。利用者の多いターミナル駅の近く、居酒屋などの飲食店が立ち並ぶ繁華街の裏手から坂道を少し上った、人気のない場所だ。


「おまえさ、俺の財布盗ったんだろー?」


「……げほっ、……さ、いふ、ひろった……かえす、から……」


「あぁ? 拾った? おまえが盗ったってことになってんだけどぉ!? ドロボーサンにはお仕置きがいるよなぁ!?」


 耳をつんざくような怒鳴り声を上げ、大柄な男は更にミゲルの右肩に蹴りを入れた。短く切られた髪、スポーツブランドの服、真っ白なスニーカー、一見すればスポーツ好きの爽やかな好青年という出で立ちだ。


 男は痛めつけられて動けなくなっているミゲルのそばにしゃがみ込み、上着のポケットを探った。


「……お、あったあった。さーて、中身は……はぁ? 何だよこれ、少なっ!」


 ぎゃははという下品な笑い声が、ミゲルの耳に入る。男の手にある自分の財布の中には、千円札が三枚と少しの硬貨しか入っていない。確かに少ないかもしれないが、労働して得た報酬をそんな風に馬鹿にされるのは、暴力を振るわれたことより腹が立つ。


 しかし、ミゲルには反論する余裕などない。顔や腹、足などを殴られたり蹴られたりして体に力が入らず、声を出せるかどうかも疑問だ。日本は治安がいい国のはずなのに、こんな目に遭うとは。しかも人通りのない場所では、誰も助けになど来てくれない。絶望的な状況……の、はずだった。


「ミゲル!」


 誰かがこちらに走ってくる音が聞こえる。聞き覚えのあるスニーカーの足音、聞き覚えのある声。幻聴だろうか。彼がこんなところに来るわけがないのだ。彼はクールで、普段は大きな声なんか出さない。家は反対方向で――


「ミゲル! 大丈夫か!?」


「……ト、ル……?」


 やはり、徹の声だった。アルバイトをしている店でミゲルにかけてくれる、いつもの、だけどいつもより大きな声。


「ミゲル! 死んでないだろうな!? 生きてるか!?」


「トール……ぼく、いき、てる……」


「こんな時まで『ル』は巻き舌かよ、怒るぞ!」


 いつものやる気のない表情はどこへいったのか、必死の形相でミゲルを心配し、しゃがみこむ。上着越しなのに、自身の右腕に置かれた手は柔らかく、温かく感じられる。徹の「怒るぞ」はただの口癖で、本当に怒られたことはない。彼がいるなら大丈夫だ、もう安心だと、ミゲルの目に涙が浮かぶ。


「……トール、どうし、て……」


「ああ、生きてるなら黙ってろ。血は飲み込むなよ、吐き出しとけ」


 ミゲルに窃盗の罪をなすりつけようとしていた男を、徹が見やった。男はただニヤニヤするだけで逃げようとはしていない。


「なになにー? ボク、コイツに財布盗られそうになったんだけどぉ?」


 一瞬だけ男に鋭い視線を向け、徹は土下座の体勢になった。


「……すみません、でした」


「あれ、オニーサン、ずいぶん弱っちいね。なーんか喧嘩慣れしてそうに見えたけどー? どーする? 喧嘩しちゃう?」


「いえ。申し訳ありませんでした」


「トール、ゴメ……」


「いいんだ、大丈夫だ。……ええと、その、すみませんでした」


 謝った方が負けたわけではないという徹の言葉が、ミゲルの脳内に蘇る。きっと徹には何か考えがある、それを自分が邪魔してはいけないと、懸命に痛む体を引きずり、徹と同じ姿勢になった。


「もうしわけありませんでした」


「……ミゲル、おまえはしなくていい」


「トール、おしえてくれた。ぼくもあやまる」


「おまえら何しゃべくってんの? 俺の財布盗ったやつかばうとか、オニーサン、何様?」


 そう言いながら、大柄な男が徹の左脇腹を二度、蹴りつける。「ぐふっ」と声が出て倒れ込みそうになるが、土下座の姿勢のままそれをこらえ、「申し訳ありません」と、徹はまた謝罪の言葉を口にした。


「おまえそれしかしゃべれねえの? 壊れた機械かよ」


 脇腹の痛みをこらえる徹の頭に、過去の出来事が蘇ってきた。まだ中学生で、粋がっていて、他校の生徒が睨みつけてきたなどという大したことのない理由で暴力に明け暮れていたあの頃。謝ったら負けだと思っていた、あの頃。


「……もうしわけありません。トール、ける、やめてください」


 ミゲルがふたたび謝り、徹をかばう。


「いいから、俺は平気だから……ミゲル、自分のこと考えろ」


 徹の祖父は、補導された孫を警察署に迎えにくると必ず警察官たちに「申し訳ありませんでした」と頭を下げて謝っていた。その時の徹には、それが意味のないことに思えた。どうせ何回謝ったって、自分はまた悪さをするのに、と。そんなことを考えてしまう自分が、そんな自分を爪弾きにしようとする学校が、世間が、嫌だった。何もかもが、嫌だった。祖父以外は。


「へぇ、うるわしい友情ってか? 俺が一番嫌いなやつじゃん」


 ぎゃははははと高らかに笑い声を上げると、男は徹の背中を、ドカッと音を立てて思い切り踏みつけた。


「うっ……!」


「な、おまえ本当は喧嘩強いんだろ? そんなツラしてるもんなぁ。こっちがやってばっかでもつまんねえからさ、かかって来いよ」


 男が足に力を入れ、徹の背中を踏みにじる。ミゲルが「やめて」と言いかけたが、徹は「いい、から」と、それを制した。


「俺に、まかせ……」


「るっせえんだよ! そんなきたねえガイジンなんざほっとけっつーの!」


 「きたねえガイジン」という言葉が放たれた瞬間、地面についている徹の手がぴくりと動いた。それを見逃さず、男は更に言葉を連ねる。


「どうせ不法入国とかいうやつなんだろ。おまえら何で繋がってんの? クスリ? 何かヤバいことやってんだよな? だったらさ、そんなやつ放って……いや、違うか……こうすればいいんだな」


 はっ、と一笑いし、男はミゲルの背中に強烈なかかと落としを入れた。ミゲルはうめき声を上げ、倒れ込む。


「やめろ!」


「えー、オニーサンが遊んでくれないからなんだけどー?」


 徹がミゲルの体の上に被さり、理不尽な攻撃から彼を守ろうとする。


「げほっ、ごほっ、トール……」


「黙ってろ、俺の言うこと聞け。警察には通報してある。このまま耐えろ」


「まーたおしゃべりか。おまえら仲いーねー。何しゃべってんの? 俺にも聞かせてくんね?」


 男は、ミゲルに被さる格好のままの徹に自分の顔を近付け、徹が上を向いた瞬間、ぺっと唾を吐き出した。頬に生暖かい粘液が付着した気持ち悪さを感じるが、徹は視線を落とし、地面を見つめたまま黙っている。


「……オニーサン、いくら気が長い俺で……」


 徹を見下ろす男の言葉が終わらないうちに、ドタドタと誰かが走ってくる音が聞こえる。どうやら一人ではないようだ。はっと男がその音の方を見ると、紺色の制服をきっちり着た警察官が二名、駆けつけるところだった。 


「警察です。通報したのは?」


「あ、やっと来た……通報、俺……です」


「怪我は?」


「俺より、こいつ……ミゲルを」


 ほっとした表情の徹が、ミゲルから体を離す。体中が痛み、少し動くだけで悲鳴を上げそうになるが、ミゲルは何とか耐えて咳き込みながらも「たたかれた、けられた」と言うことができた。


「……誰に?」


「この、大きい人」


「違う! 俺はこいつに財布を盗まれて……」


「財布って、今きみが持ってるやつ?」


「……財布……、あ、これは、その……」


「ま、あとは警察署で聞くから。三人ともね」


 こうして、徹とミゲルは警察署へ行くことになった。

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