第6話

「へえ……俺がいつ、そのようなことを言ったのだ?」

「……………えっ!?」

 開け放してあった部屋の入口から聞こえた声に、乳母はもちろん、メイドも執事も、そして僕ですら驚きのあまり声を失った。


 まさか。こんな時間に、ここにいるはずがない。

 逆行以前の記憶でも、こんなことは起きなかったはずだ。

 それなのに、どうして。


「どうやら乳母殿の脳裏には、俺の知らぬ俺が居るらしいな?」

「ひっ………!」

 恐怖に引き攣った乳母らが振り返ったその先には、兄上が──ラトール・シュワルツ・ドラッヘシュロスが立っていたのである。

「ラ……ラトール様…ッッ」

「な、なぜ、ここに……ッ」

「俺がこの屋敷に居て何かおかしいか?」

 動揺する乳母らの間をするりと抜け、兄上は床に座り込んだ僕の前へ立った。そして、ニコリと優しい微笑みを浮かべて僕を見ていたが、乳母らに顔を向けるとその表情と気配は一変していた。

「フィーリウを叱っていたようだが、この子が大人3人がかりで罵られるほどのことをしたのか?」

 兄上の静かな問い掛けに、硬直していた乳母がハッとして、

「そ、そうなのでございます!!ラトール様、聞いてください!!」

 ついさっきまで青ざめていた顔に喜色を浮かべ、乳母はつらつらと僕の『罪』とやらをあげつらい始めた。まずは図書室の本を盗んだこと、それから、3度の食事に我儘を言うこと。

「ええ!ええ!!もちろん、それだけではございませんよ!?」

 さらに僕は嘘つきで手癖も悪く乱暴者で、メイドや使用人らに度々手を上げる、などと、よくもとっさにそんな噓が吐けるものだと、いっそ感心するくらいの饒舌さで乳母は兄上に訴え続けた。

 しかも呆れたことに袖を捲って腕に付いた痣を見せ、これも僕がやったことだと泣き真似までしてみせている。


 当然、僕はそんなこと知らないし、暴力を振るうどころか、逆に振られているような立場だ。

 怪我まではさせられていないものの、青痣が付くほど抓られるのは日常茶飯事で。

 服に隠れている体のあちこちに、今も小さな青痣が残っている。


「あ…兄上、僕、そんなことしてません!」

 ありったけの勇気を絞り出して、乳母の訴えに反論を返すと、乳母はショックを受けた顔をして、大袈裟に顔を伏せて嘆き始めた。

「フィーリウ坊ちゃま、乳母やは本当に悲しゅうございます!」

 赤ん坊の頃から我が子のように愛でて大切に育ててきたのに、息を吐くように嘘を付くとは情けない。いや、これもすべてシュワルツ家次男として、相応しい養育が出来なかった自分が悪いのだと、乳母はまるで悲劇のヒロインみたいに言い募る。

「そんなことありませんわ!!エルロア様は本当に、本当にフィーリウ様をご自分のお子のように、大切にお世話していらっしゃいましたもの!!」

「そうですぞ。エルロア殿!!ラトール様、エルロア殿は乳母として、立派に勤めておられました!」

 まるで示し合わせたかのように、メイドと執事も嘆く乳母に同情してみせた。


 乳母は誠心誠意、僕を育てようと努めていた。

 そんな乳母の心を踏みにじり、僕は我儘な暴君と化した。


 はたから見ていれば、悪者はきっと僕の方なのだろう。


 そういう状況を素早く作り上げてしまう才能は、皮肉抜きにしても凄いものだと思ってしまった。

 身体と同じく5歳児の心のままだったら、どんどん悪化していく状況でパニックに陥り、こんな呑気なこと考えられなくなっていただろうけど。

「……………」

 何を考えているのか、兄上は悲劇に浸る乳母らを、無言のまま見詰めていた。

 背後からそっと覗き見ると、兄上は無表情でこそあったが、その黒い瞳は冷たい氷みたいに冷ややかだった。というか、気のせいか全身から、ヒヤリとした冷気すら感じる。


 ──怖い。

 もしもこの冷気が、自分に対して向けられたら?

 兄上が乳母らの主張を信じ、僕を悪だと断定したら??

 そうしたら、きっと、たぶん。


 僕は今回も、長くは生きられないだろう。


 兄上から漂う気配には、そういう確信をもたらす空気があった。


「本当に申し訳ありません…私がフィーリウ様をお育て損なったばかりに…ッ」

 今、兄上の視線は悲劇を演じる乳母らに向けられているが、もしも兄上が『また』彼女らの主張を信じてしまい、そうして再び、僕に対して冷たいその視線を向けてきたら──!?

 そう考えるだけで僕は、心臓が張り裂けそうだった。


 僕が何を言っても、信じてくれなかったら。

 僕のことを、無能な厄介者と、切り捨ててしまったら。

 僕にはもう、生き続ける価値など無いじゃないか、と。


「あ…兄上……」

 僕は何もしてない。

 ただ僕は、生き続けるために。

 ただ少しでも長く生き続けるために、『前』は出来なかったことをしたかっただけなんだ。

「僕は何も…悪いこと、してない……よ」

 もっと色々言いたかったのに、口から出たのはそれだけで。

「…………ッッ」

 必死な僕の訴えを耳にした乳母が、兄上に見えない角度から睨みつけてきた。

 『余計なことを言うな』と、憎々し気な視線が伝えてきている。

乳母の怒りを感じ取った僕の体が、情けないけど無意識に怯えて震えていた。

「話は良く解ったが……乳母殿は、なにか勘違いをしているようだな」

「え……は?あの…な、何か……?」

 はあと深い息を吐いた兄上が、僕のことを振り向いてから言葉を継いだ。

「忘れているようだが…フィーリウはなんだ?」

「な……なに…って、え、なんのことだか…」

 何を言われているのか解らない、と乳母はロザリアや執事を振り返るが──実を言うと僕も解んないんだけど──彼らもやはり、兄上が何を言いたいのか理解できずにいるようで、さあ?と首を傾げるばかりだった。

「フィーリウはこの離れ屋敷の主だ。そんなことも解らないのか?」

「え…??いえ、そ、それは…??」

 使用人らに普段から見下されている僕が屋敷の主??

 兄上からの指摘に乳母も、ロザリアもセバス執事も、間の抜けた顔できょとんとしていた。当然だけど、僕自身も『え?そうなの??』って、内心で驚いてしまっていて。オロオロしてすぐ隣の兄上を見上げると、兄上は険しい顔のまま優しく僕の頭を撫でて話を続けてくれた。

「その様子では、乳母殿はどうも、フィーリウを主と敬っておらぬように思えるが…?」

「い、いえっ、そんなこと!!も、もちろん、フィーリウ様がお屋敷の主ですとも!!わ、解っておりますよ!?あ、当たり前ではありませんか!」

 兄上の発する怒気を感じ取ったのか、乳母は慌てて兄上の言葉を肯定する。だが、指摘された事実に対して、心から納得し切れていないのは見え見えだった。何故なら乳母の僕を見る目が言葉よりも雄弁に、『こんな役立たずな子供が主だなどと!』と正直な心の声を語っていたからだ。

「ほう…では乳母殿は、それを解っていてフィーリウに罪を問うのか?」

 納得は行かないが、今は適当に話を合わせておけばいい。愚かな子供(僕のことだ)相手なら、あとでどうにでもなる。そんな乳母の考えそうなことが読めてでもいるのか、兄上は容赦ない口調で厳しく追及を続けた。

「罪を問うだなんて、そんなこと?…私は…ただ」

「先程、フィーリウが本を盗んだ、と言ったな」

「そっ、それは……でも、それは…坊ちゃまがッ」

「フィーリウが主と理解しているなら、随分とおかしなことを言うではないか?乳母殿??」

 そもそもこの屋敷にあるものはスプーンから、家具に至るまで何もかもすべて、屋敷の主であるフィーリウの物だ。なのに、雇われ者である乳母ごときが、主を盗人呼ばわりするとは何事か!?と、兄上は乳母エルロアを断罪する。

「……そ、それは………ッッ!!」

「わ、私、そんなつもりでは…!!」

「ラトール様、私も、私も違いますぞ!!」

 ようやく自分の失言に気付いたらしい乳母が、瞬間的に太った顔を青ざめさせて一瞬口籠った。しかし、それでもふてぶてしく言い訳を続けようと乳母は口を開くが、それはメイドのロザリアやセバス執事も同様だった。

 さっきまで空々しく被害者ぶっていた彼らが、一瞬にして立場を逆転されたあげく、目に見えるほど動揺し、罪を逃れようと無様に足搔いている。

「聞くに堪えんな。まあ、もともと乳母殿には他に聞きたい話があったし、ちょうどいい。だが、ここではなんだから、場所を変えさせてもらおう」

「は…話…とは…ラ、ラトール様…!?」

「本日、乳母殿が街で売った指輪のことだ」

 おどおどと乳母が顔色を窺うが、兄上は一言だけ冷淡な声でそう告げた。

 途端に乳母は、青ざめていた顔を、今度は白く染めさせる。


 指輪??もしかして、母上の指輪のこと??

 それを乳母が街で売ったの??え、それ、どういうこと??


 このあまりにも唐突な急展開に僕は、事態に対する理解と状況把握が追い付かず、馬鹿みたいに頭を傾げるばかりだった。

「そそ……それは違います!!わわ、私は…ッッ!!」

「連れていけ」

 これ以上付き合い切れぬとばかりに、兄上は乳母の訴えを無視して指で合図をする。すると、部屋の外に待機していたらしい数人の男が、待っていたとばかりにどかどかと中へ入ってきた。

「…………ッッ!?」

 こんなに大勢の人、いつから外に控えていたんだろ。全然、気付かなかった。

 さらにビックリする僕を置き去りにして、男らは乳母を拘束し部屋から連れ出していった。

「ああ、そのメイドと執事もだ。乳母だけかと思っていたが、どうやら彼らからも面白い話が聞けそうだ」

「ひいっ、わわ…私は何も…!!!!」

 兄上から発せられた追加の指示に、安堵しかけていたロザリアも、セバス執事も情けない悲鳴を上げる。男らはそんな2人も手早く拘束すると、引きずるようにして部屋から連れ出していった。


 乳母も、ロザリアも、セバス執事も、屈強な男らの手で連行されて行く間、なにやらぎゃあぎゃあ叫び続けていたが、男らの足音が聞こえなくなると同時にそれも聞こえなくなった。

 

 いったい、何事が起こったのか、混乱していてホントに理解が追い付かない、


 ただひとつ。

 こんな事件が、逆行以前になかったことだけは断言できた。

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