第7話

「お目覚めですか、フィーリウ坊ちゃま」

「…………??」

 明るい光が眩しくて目を開けると、なんだか見覚えがないようで、実は見覚えのある場所に僕は寝ていた。正確に言うとベッドの上なんだけど、この部屋って、もしかして……いや、もしかしなくても、僕の部屋…なんだろうか??


 なんだか別の部屋みたいに感じる。


 元から部屋はむやみに広かったが、窓もカーテンも常に閉めっぱなしの上、何年もの間、片付けや掃除が一切されていなかったから、酷く陰鬱で汚らしい場所でしかなかったのだ。


 もちろん、部屋が汚い理由は、僕自身のせいにされていたけれど。


『坊ちゃまが部屋へ入れて下さらない』

『掃除しても掃除しても散らかしてしまう』

 僕は、僕のいない場所で、乳母を始めとするこの屋敷の使用人らが、兄上や兄上の寄こした本邸の執事に、毎回そう訴えていたことを知っている。逆行以前はそのことに気付くのが遅れ、気付いた時にはもはや何を言っても手遅れな状況だったのだ。

『こんなに綺麗で立派な部屋だったんだな…』

 改めて室内を見渡して感心する。

 何故なら今、僕が見ている『本来の僕の部屋』は、隅々まで掃除されていて綺麗だし、閉め切られていた窓もカーテンも開放されててとっても明るかったからだ。

 なんだか空気までさわやかな気がする。いや、たぶん気のせいじゃないんだろうけど。

「さあさ、お顔を洗ってくださいね」

「えと……あの?」

 見慣れた部屋の変わりように驚いていると、顔を洗うための湯がベッドサイドへ置かれた。顔を洗うのに、お湯??お湯なんて初めてじゃない??と、僕は恐る恐る指を付けて温度を確かめる。

「お熱くありませんか?熱いようならおっしゃってくださいね」

「だ…大丈夫…です」

 さっきから優しい声で接してくれてる人の顔を、僕は改めてそっと観察してみた。年は30~40代??エルロア乳母よりも少し年配に見える。栗色の髪と瞳。きっと若かった頃は美人だったんじゃないかな~??ってわかる、そこそこ整った容貌を持つ女性だ。

「…………あの…」

 僕は『誰だろう?』と見知らぬ顔に内心でびく付きつつ、おどおどと『温度はちょうどいい』と告げた。すると女の人はニコニコと眼尻に皺を寄せ、ホッとする柔らかな笑顔を見せくれる。

「それは、ようございました」

 この屋敷の中では見たことのない顔。でも、確か、本邸で見たことがあるような。

「ああ…わたくしはラトール様の元乳母で、本邸の女中頭をしていましたキアイラと申します」

 僕の問いたげな視線に気付いてくれたのか、女の人──本邸の女中頭(過去形?)キアイラは、僕が顔を洗うと包むようにタオルを頬に当ててくれた。

 濡れた手と顔を拭き上げてくれる手つきは、限りなく優しく丁寧だ。

「上手に洗えましたね」

 拭き終わるとキアイラは、また同じように微笑んで僕を褒めてくれる。

顔を洗ったくらいで褒められるのは初めてだ。というか、そもそも誰かに褒められたのが初めてかも。

「そ……そかな」

「ええ。お上手ですよ」


 変なの。

 なんだか嬉しくなってきてしまった。

 だってキアイラの言葉にも、その表情にも。

 嫌味や皮肉を言う人の、悪意の気配が感じられなかったから。


「さあさ、まず軽く朝食をとって…それから沐浴と、お着替えをいたしましょうね」

 そう言うとキアイラは、ベッドから降りる僕に、当然のように手を貸してくれた。

 豪勢で立派なのは良いけど、子供の体には少し高いんだよね、このベッド。だから僕は毎朝、転ばないように降りるだけで必死だった。しかも油断すると、わざと足をかけて転ばせようとするメイドも居たことだし。

「改めましてフィーリウ坊ちゃま、わたくし、今後、坊ちゃまのお世話をさせていただく乳母となりました、キアイラ・ノートンでございます。どうぞ、よろしくお願いいたしますね」

「乳母……ぼ、僕の?」

「はい!本日この時より誠心誠意、坊ちゃまに仕えざせていただきます」

 床に立った僕の前でキアイラは膝立ちし、僕と真っ直ぐ目線を合わせながらそう言った。

 聞くと僕の乳母や専属メイドのロザリアは、昨夜、兄上の連れてきた男らに連行された時点で解雇。そこで急遽、本邸の女中頭であったキアイラが、僕の世話係兼新しい乳母としてやって来たらしい。

「………そ、なんだ…」


 どうしてだろう。これもまた、逆行以前とは違っていた。

 確かに以前も途中で乳母は居なくなったけど、その後に新しい乳母など来なかったのだ。


 昨夜の突然な兄の登場といい、乳母どころかメイドや執事まで居なくなったことといい、なぜだか逆行以前と異なる状況が連続して起こっていた。

 まあ、当事者である僕に知らされていなかっただけで、乳母の解雇は逆行前にも同じ理由で起きていたのかも知れないけれど。


 軽く朝食(柔らかく煮詰められた野菜のスープとパン。あったかくて美味しかった!!)を食べた後、僕とキアイラは沐浴のために浴室へと向かった。そうしてキアイラの温かな手に引かれて歩きながら、僕は自然と昨夜の騒ぎの顛末を思い出してしまう。



「済まない…フィーリウ」

「あ……兄上…?」

 耳障りな叫びをあげる乳母らが連行され、喧騒に満ちた屋敷が完全に静まり返るのを待ってから、兄上は膝をついて僕にそんな謝罪の言葉を発してきた。

 兄上が僕に謝るなんて事態もそうだけれど、僕と目線を合わせてくれる兄上の姿なんて、たぶん生まれて初めて見る光景だと思う。

「本当はこんな風に乳母を、お前の目の前で断罪する気は無かったんだ…」

 兄上は僕が乳母のことを慕っていると勘違いしていたと言い、乳母を解雇したらきっと、僕が悲しむだろうと思っていたらしい。だから本来なら僕に乳母の罪など知らせることなく、彼女は私的な理由で辞めただけ、ということにしようとしていたみたいだった。

 だからこそ僕が寝たであろう時間を見計らって、乳母に解雇を告げるべく離れ屋敷を訪れたのだ。

「乳母は……なにを…したの」

「あの女は屋敷の管理を任されていたのを良いことに、悪いことをしていたんだ。横領…つまり、物を盗んで売った金を、自分のものにしていたんだよ。わかるか?」

 幼い僕にもわかるよう、兄上は言葉を選んでそう告げる。

 こくんと素直に頷いて見せながら、僕は内心『なるほど』と納得していた。


 週に一度、メイドと共に外出する乳母。

 あれはおそらく、屋敷から盗んだものを換金するため、だったのだ。

 そして、換金した金で贅沢を愉しんでから屋敷へ戻った乳母を、兄上は真新しい証拠を携えて断罪しにやって来たのだろう。


「出来心なら解雇だけで赦そうと思っていた…なのに、あの女は、お前のことをいつもああして虐待していたんだな…?」

 『気付かなくて済まなかった』

 兄上はそう言うと両手を伸ばし、まだ震えていた僕をぎゅっと抱き締めてくれる。


 僕は兄上のそんな話を聞いて、少しだけ事態が呑み込めていた。

 逆行前にはなかったことが起きた原因は、やはり僕が、以前にはやらなかった行動を起こしていたせいなのだ、と。


 一度死んだ僕は子供の体に戻って、生き残るためにと行動を起こした。

 屋敷の中を歩き回って情報を集め、乳母らの定期的な行動を知り、それに会わせて図書室通いを始めた。そしてそんな僕の動きを知った乳母らが、僕を嬲り再び引き籠らせようと、僕の部屋を荒らしたりしていたから。


 だからこそ──


 僕が逆行前にはしなかった行動をしていたからこそ、乳母らもまた、以前はしなかった行動に出ることとなり、その結果、兄上が僕への虐待現場を目の当たりにすることになった、という訳だ。


 けれど、でも、そんな事よりも何よりも今は、初めて抱き締められた温かさが嬉しくて。

 まるで夢みたいに幸せで。

 夢なら覚めないで欲しいと思った瞬間、涙が溢れて止まらなくなった。

「あ…あにうえ……ッッ」

「もう大丈夫だ…今まで気付かなくて本当に済まなかった…フィーリウ」

 みっともなく泣きじゃくり始めた僕を、兄上は身体ごと抱きかかえて宥めてくれる。

 その腕の力強さと優しさが、僕に深い安堵感を覚えさせた。


 どうやらその後、僕は寝てしまったらしい。

 そして今、現在、という訳なのだが。

「え……えっ、フ、フィーリウ坊…ちゃま…ッ!?」

「…………??」

 沐浴をするためにと服を脱がせてくれていたキアイラが、全裸になった僕を見て顔色を変えていた。ん?どうしたんだろ??なにかおかしいのかな?と、自らの体を見下ろすが、見慣れた自分の裸があるだけで、別に何もおかしなところはない。

「これ…もう、痛くない…よ」

 ああ、ひょっとして、あちこちにある青痣のことかな?と思ってそう言ったが、キアイラは『それだけではありません!!』と言いつつ、メチャクチャ動揺した様子を見せていた。

 だが、困惑する僕の顔を見ると彼女は、ハッとして唐突に大きく深呼吸を始めてしまう。いったい、なんなんだろ??

「……フィーリウ様、お風呂に入って着替えたら、おやつをお持ちしますからね」

「うん!」

 その後キアイラは平常心を取り戻し、普通に手際よく僕を風呂へ入れ、着替えをさせてから、初めて食べるおやつを出してくれたりした。

 ついさっきの慌てた様子は幻だったのかな??と思うくらいに、彼女は穏やかな顔で僕に接してくれていた──のに。


「キアイラ様、ラトール様がお帰りに!」

「ラ、ラトール様あああっっ、大変でございますうう!!」


 だというのに兄上が帰ったとの報を聞いた途端、キアイラは思い出したように取り乱した様子で走り出したのである。


 何故だか、ひらひらした女の子のドレスを着せられた僕を、小脇に抱えたまま。

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