幸せの青い鳥
ムラサキハルカ
鳥、会えず
「その青一色の鳥にお会いすると、愛する人と永遠に幸せでいられるんですって」
会えるのでしたら会ってみたいですね。高校帰りのデート途中。ベンチに座った市子が、どこから聞いたかわからない噂を喜々として語るのを、
市子は朱火の手を強く握り、そうですよね、と口にする。
「わたくしも朱火さんとずっと一緒にいたいですから。みつけられたらって思うんです」
曇り穢れのない純粋な眼差しを浴びて、偽りを口にしているのが恥ずかしくなり、勢い任せに抱き寄せる。息を呑み、頬を赤く染める恋人に、ほんの少しだけ気を良くして、笑みを作った。
「なにか、勘違いしているんじゃない」
「なにをですか?」
不思議そうに尋ね返してくる市子の長い黒髪に手を添える。
「青い鳥なんかに会わなくても、あたしはずっと市子の傍にいる。それは忘れないで」
「朱火さん」
夕日の下、見つめ合った二人は口づけを交わす。できれば、この穢れ無き少女をずっと自分の腕の中に収めておきたい、と朱火は願った。同時に、何かで繋ぎ留めなければ離れてしまうように思われているのを、心外だと感じてもいる。
/
三年への進級を控えたある日の放課後デートの途中、会える時間が減る、と市子は申し訳なさそうに言った。
「両親の方針で、家庭教師を雇うことになって。どうしても断ることができなくて」
とはいえ、朱火はこれを当然のことだなと考える。
「来年は受験だしね。きっと、あたしの方も忙しくなるよ」
「それは、そうですけど……」
受け入れがたそうに目を逸らす恋人に、大丈夫、と励ますように口にする。
「とりあえず、お互いに頑張ってみよう。受験が終わるまでは長いけど、それまでの辛抱だよ。そうしたら、またいっぱい会えるようになる」
「でも、同じ大学に行けなければ」
「そこは、あたしが頑張るよ」
成績は市子の方がかなり上だったため、ともにいたいと真に願うのであれば、朱火の努力が必須となる。
「信じて、もらえないかな」
「もちろん、信じてます。それでも」
そっと腕を回してくる市子。その目は不安に揺れている。
「さびしい、です」
「あたしも……でも、これも未来のためだよ」
デートはできなくなるけど、学校ではいっぱい会おう。市子の頬に手を添えながら、この試練を乗り越えれば大きな喜びが訪れるはずだと、朱火は自らに言い聞かせた。
/
学年が上がってクラスが分かれた朱火と市子は、休み時間には会えない時間を埋めるようにお互いに顔を合わせ、和やかな会話をかわした。時間や触れ合いの少なさに物足りなさはあったものの、贅沢は言えないと割りきった。
あたしが頑張れば、なんとかなる話なんだ、と朱火は強く思おうとした。
「
昼食中、市子は最近、毎日のように顔を合わせている家庭教師の話をした。有名大学に通っている好青年とのこと。
「わたくしが理解していると思っていたことでも、より解体して本質から叩きこんでくれている言いますか。とても、いい先生に当たれました」
「そう、なんだ。良かったね」
自分が我慢している間に、市子の隣にいられるその大学生が羨ましくてならなかったが、とはいえ受験勉強が順調なのはいいことだ、と前向きに考えようとした。
「休憩時間には、よく冗談を口にされて。わたくし、はしたないんですが、よく噴き出してしまって」
「へぇ……そんなに面白いんだったら、あたしも受けてみたいな」
そもそも、実家が太い市子と同じ家庭教師を自分が受けられる可能性は低いだろう。そう理解しつつも、話を合わせる朱火に、
「いいですね。わたくしも良く今氏さんに朱火さんのお話をさせていただいてますし、今度、ご一緒できないか、頼んでみますね」
朱火の皮肉じみた言葉を素直に受けとり笑う恋人の様子が、ほんの少しだけ憎たらしかった。
/
夏前に市子の髪が薄茶色に染まった。校則が比較的緩い高校だったため、さほど問題にこそならなかったものの、急激な変化に朱火は驚きを隠せなかった。
「気分転換です」
問い質せば、市子は悪びれるでもなくそう応じた。
「前々から興味はあって、怖がっていたんですけど、今氏さんが、新しいことをやってみるのもいいんじゃない、って背中を押してくれて」
だから、思い切ってです。
「そっか……」
市子の黒い髪を綺麗だと思っていた朱火は、内心、おおいに落胆したものの、いいんじゃない、と控えめに応じた。今氏とやらも余計なことを言ったものだ。
「ですよね。朱火さんにそう言ってもらえると、とても嬉しいです」
恋人の満面の笑みを見て、嘘を吐いたことに心が痛んだものの、なんでもない風を装う。
「でも、できればあたしには前もって言ってほしかったな。ちょっと、驚いちゃって」
「驚かせたかったんです。きっと、朱火さんなら喜んでくれると思って」
見当違いの恋人からのサプライズを、苦々しく思いつつも、ありがとう、と口だけの感謝の気持ちを言った。
/
学力向上のため申し込んだ有名塾の夏期講習からの帰り道、へとへとになっていた朱火は、視線の端に見慣れた顔をみつける。市子だった。
黒いキャミソールにショートパンツ姿の恋人は、どことなくうきうきした足どりに見える。
毎日、家庭教師で忙しいんですよ。そんなことをメールで伝えてきた市子。そんな恋人が身軽な様子でどこかへと向かう姿を怪訝に思った朱火は、迷いなく後を追った。
しばらく歩いたのちにたどり着いたのは、以前、よくデートで使っていた公園だった。待ち合わせだったらしく、背の高い青年が手をあげて市子に応える。
あれが今氏か。市子から聞いた話から、朱火はそう察する。だとすれば、このまま家に帰って、受験勉強に勤しむのだろうか。そう思った矢先、
「じゃあ、探そうか」
青年の声に、どこか熱を浮かされた様子の市子が応じる。実際に、熱中症なのではないのかと心配し、物陰から二人の様子を窺う朱火をさておいて、二人はさほど広くない公園の散策をはじめた。
探す、と言っていたが、なにをだろうか? そんな疑問の答えは、一時間程の捜索過程ではみつからなかったらしく、今氏はしょんぼりとする市子を慰め、公園から去っていった。
帰り際の男の気安い態度と、頬を紅潮させ、カイさん、と今氏の名らしきものを口にし受けいれる市子に、朱火は心を掻きむしられたような気分にさせられ、大きく舌打ちをした。
/
新学期。
朱火は久々に市子と顔を合わせて、言葉を失った。
「どう、朱火ちゃん。似合うっしょ」
恋人の髪は金色に染められ、短くなっている。おまけに、肌はほのかに小麦色に焼けていた。
「その髪、どうしたの?」
「朱火ちゃん、そんなことも知らないのぉ? 夏休みデビューだよ、夏休みデビュー。カッチョイイでしょぅ?」
自らの振舞いをまったく疑わない市子。きっと、誉めて欲しいのだろう、というのは察せられた。しかしながら、夏休み前から貯めこまれた朱火の鬱憤は、我慢の限界とともに決壊する。
「ねぇ、市子」
「うんうん。そうだよね。むちゃくちゃカッチョイイよね」
「受験前に、なに考えてるの?」
あからさまに眉を顰める市子。恋人の見たことのない表情に恐怖をおぼえたものの、勇気を振り絞り睨み返す。
「ストレスが溜まって羽目を外したくなるのはわかる。でも、そういうのはせめて、全部終わってからでしょ。今、やることじゃない」
そもそも、大好きだった黒く長い髪が失われてしまった。そのことが、腹立たしい。
「夏休み前から思ってたけど、今の市子は変だよ」
はっきり言った。途端に押し寄せる後悔とともに、怒りに染まった恋人の表情と対峙させられる。
「朱火ちゃんも、わかってくれないんだ。あの糞親父と同じこと言いやがって」
そもそも、朱火の知っている市子はこんな喋り方をしない。なにかが根本的に変わってしまったのだと、嫌でも理解させられる。そして、朱火にははっきりとした心当たりがあり、
「もう駄目だね。別れよ」
何の躊躇いもなく放たれた言葉に、息を呑む。
「待って、市子。話を」
「しても、無駄っしょ。朱火ちゃん、わかってくれないし」
「だから、そういうことについて」
「ああ、もう鬱陶しいな。絶交だよ絶交。バイバイ、じゃあね」
背を向ける恋人。後を追い伸ばした手は、躊躇いなく払われた。
「ついて来んな。顔も見たくない」
嫌悪感をいっぱいにした市子に睨み返される。あまりの衝撃に足が地面に縫い付けられたように止まってしまった朱火を差し置いて、市子は学校を去っていった。
しばらくして我に返った朱火は、市子の後を追うべく、学校を飛び出す。始業式どころではなかった。
とは言え、既に恋人の姿は見えなくなっていて、どこに向かったのかもわからない。一番ありそうなのは自宅だろうが、市子のあの変わりようからすれば、常識的な考えが通用するかは怪しかった。そのため、謝りたい、とメールやラインで語りかけてみたものの、音沙汰はない。
程なくして、市子の家にたどり着く。大仰な門構えの洋館。以前に市子に連れられ訪れた際、教えられた門の脇の茂みの中にひっそりとある道をくぐり、中庭に出た。人の気配はないが、一応警戒しつつ、館の一階にある市子の部屋を目指そうとする。
不意に話し声が聞こえてきた。当たりだったらしいと足を急がせる。また詰られるかもしれなかったが、とにかく今は話をしなくてはならない、と市子の部屋の窓へと近付き、
窓ガラス越しにベッドの上で男にまたがり矯正をあげる市子を目撃した。
朱火の頭に空白が生まれる。なにが起こっているのかわからなかった。
蕩けきった顔をした市子は、
「カイってサイッコウ。あの糞レズとは大違い!」
恋人である自らを引き合いに出して、カイと呼ばれる男を褒めたたえている。直後に不愉快な嘲りの声が響く。
「ギャハハ。糞レズって、お前の恋人なんだろ?」
「ああ、それね……あーしがどうかしてたわ。ほら、そういう雰囲気ってあるっしょ? カイのおかげで目が覚めた」
「本当か? そんなこと言ってまだ、未練があるんじゃないのか?」
「未練。あるわけないじゃん。あんなキッモイ糞レズに」
一連の会話を耳にして、朱火は自らの中でなにかが崩れ去るのを感じた。
「第一、あの糞レズと違って、カイはちゃんと会わせてくれたしね」
「会わせてくれた? ああ……青い鳥か」
青い鳥? なんのことかわからず朱火を尻目に、市子は、そっ、と嬉しそうに頬を弛める。
「ちゃんと一緒に探してくれて、本当に青い鳥に会わせてくれた。あの時のカイ、無茶苦茶カッコよかった」
「今はカッコよくないのか?」
「カッコいいに決まってるじゃん。カイがあーしの王子様だし」
「王子様とか。この年でキッモイは」
「ひっどーい。そういう素直なところも愛してる」
ギャハハハ。男女の実に楽し気な下品な笑いと、それに混じる嬌声。朱火はただただ、窓に耳を寄せて、泣き崩れるほかなかった。
/
あんな関係、続くわけがない。じきに目を覚ましてくれる。そんな朱火の願いはい一月ほど後に、市子が一身上の都合で退学したという一撃によって粉砕された。
「なんか、妊娠したんだって」
隣のクラスにいた知り合いから聞いて、朱火はその時にあった胃の中の内容物をトイレにぶちまけた。それから後も、時折、思い出しては、何度ももどすことになる。
市子と同じ大学に行くという大目標が失われた朱火は、なにもかも身が入らなくなり、大幅にランクを落とした短大になんとか滑りこんだ。行き先をみつけたとて、喜びを真っ先に共有してくれるはずの恋人だった女は、もう既に他の誰かのものになってしまっていた。
/
大学に漫然と通うなにもかもが失われた日々の中、朱火は青い鳥を探していた。二人の情事を覗いた日からいくらか経って、件の噂を思い出した。
『その青一色の鳥にお会いすると、愛する人と永遠に幸せでいられるんですって』
夢見がちだった市子の言葉を思い出して、ことあるごとに、ふらふら街をさまよった。時折、幾度か幸せそうにベビーカーを押す金髪の女とニヤニヤしながら寄り添う男とすれ違い、こちらに気付かない女に心を傷つけられつつも、ただただ、足を動かす。
みつけたところでどうにかなるなんて、朱火は思っていない。それでも、一縷の望みがあるのであれば、探さざるを得なかった。
いまだに鳥とは会えずじまい。会えない方がいいのかもしれないと薄々感じつつ、今日もまた朱火は青一色の鳥を探し続ける。
幸せの青い鳥 ムラサキハルカ @harukamurasaki
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