第2話

 今日もはじめの数時間だけ日紫喜さんとシフトが被っていた。この人の対応は酔っ払った人よりも面倒くさいと思う。

「えーそうなんですか」

 いつもみたいに常連さんに向かって会話を繰り広げている。それが私に向いてこないように、忙しい振りをする。お皿を洗ったり、レジの点検をしたり。けれど、次第に忙しくする振りも難しくなってきて、私は天井を見た。

 緩い光を放っているライトにピントを合わせて、目を細める。しょうもない、どうでもいい行為。

 ちりんとクラシカルな鈴の音が鳴って、客が入ってきた事を知らせる。それにホッとして、私は「いらっしゃいませ―」と声を上げた。自然と入ってきた人を見る。佐城さんだった。

「ども」

 佐城さんは迷わずカウンター席に座った。それに驚きつつ、私は水の入ったコップを渡す。透明なコップにはうっすらと白い色を纏っていて、それが彼女の指に触れると、一瞬広がって透明に戻った。

「珍しいですね、ここに座るの」

 佐城さんに呟くと、彼女ははにかんだ。カウンター席に座る佐城さんを見るのは今日が初めてだった。

 日紫喜さんは佐城さんに関わらないと決めたようで、先ほどから無視を決め込んでいる。それは接客をする人間としてどうなのか、とかそういう物は今更彼女には必要ないので、わざわざ引っ張り出さない。触れぬ神に祟りなしってやつだ。

 佐城さんはいつものようにコーヒーを頼んで、私が薦めたフルーツパフェを頼んだ。

 彼女はきらきらと目を輝かせながらパフェを崩していく。私はその光景を見ながらこれを食べたら夕飯入らなさそうだなとか、そんなことを考える。もしかしたら彼女は甘い物は別腹、みたいな考えの人なんだろうか。なんにせよ、彼女は太らなさそうだと思った。

 店内には佐城さんと常連さんしかいない。埋まっているのはカウンター席だけで、ボックス席は空っぽだ。視線を動かすと端に佐城さんが映り込む。今日は絵を描かないんだろうか、そんなのんきな事を考えていた。

 彼女は楽しそうにパフェの塔を崩している。クリームで出来た外壁をスプーンで崩して、それを一口含む。オレンジの斜塔が今にも落ちそうだった。

「今日は、絵描かないんですか?」

 私の一言に佐城さんは聞かれることがわかっていたようににこりと笑う。

「絵を描くだけでいい時間は終わっちゃいました。今からは推薦を取らなきゃいけないんで、人間性を創ってます」

 ぱくりと甘そうな生クリームを口に投げ入れて彼女は言った。推薦は学力以外を中心に評価されるから、その対策をしているらしい。人間性を創る、なんて彼女らしい言い方だった。

「あー、忙しい時期ですね」

 とは言いつつも、私もバイトをやめたら彼女と同じように好きな物よりも勉強を優先するようになるのだろう。今のところ好きな物なんてないけれど。

「ええ。ですけど、絵を描かない生活というのも新鮮で楽しいです」

 うれしそうに彼女は言った。本心からなのだろう。彼女にとっては絵を描く事が日常で、むしろ描かない事の方が非日常なのだと、当たり前のことに気がついた。

「ですから、この生活に慣れてしまわないか、心配です」

「え?」

 佐城さんはコーヒーの水面を眺め、くしゃりと笑った。前向きな笑みではない、どちらかと言えば哀愁漂う感傷的な笑みだった。

「絵を描いている時の方がよかった、って諸手を挙げてその生活に戻れるのかどうか、不安なんですよ」

 チリンと彼女は白いカップの縁を綺麗な指で爪弾いた。軽やかな音色は木製のカウンター席を転がって地面に染みこんでいく。

「多分、これから忙しくなるでしょうし、ここに来られるのも今日が最後になると思います」

 優雅にカップに口づける。おいしい。そう呟いてソーサーにカップを戻す。その慣れている一連の動作を眺めて、私は少しだけさみしくなる。

 私はあと数週間でここをやめる。やめたら、彼女と会う事は無くなるだろう。メールでのやりとりもきっと減っていって自然消滅すると思う。それが少しだけさみしく思えた。当たり前が思ったより簡単に崩れていくのが怖かった。

「そうですか。さみしくなりますね」

 私がそう返すと同じカウンター席に座っていた常連さんが「しのちゃんが居なくなるのも悲しいよー」と、まるで酔っ払っているみたいな声で言った。私はそれにおざなりな対応を返して、笑った。

「今生の別れって訳じゃないんですから、大丈夫ですよ。それにメールもあります」

 佐城さんは楽しそうに笑って言った。彼女が流れるように言い放った言葉に安心しながら、私は彼女に笑顔を返した。


 彼女から大学に合格というメールをもらったのが十二月の初め。私も受験勉強に慣れて、少しずつ進んだ感覚の無い暗闇の歩き方を学び始めた頃だった。


『件名 やったね!

 受かった! 無事大学生!』


 羨ましいな。

 早く楽になりたい。

 すっかり砕けた文章になった彼女のメールの文面を見て私は思った。けれどすぐにその心の中に湧き出た感情に蓋をする。私は彼女に短文を返信する。何も考えずに彼女におめでとうと言えるほど、今は心に余裕がなかった。


 年明け前に佐城さんを見つけた。文具店で真剣に油絵の具を見ていた。私は彼女に声をかけなかった。

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