第3話
受験お疲れ様。
彼女から送られてきた短文を見た瞬間、やっとあの地獄が終わったのかと実感した。合否はまだだが、もし受かっていたとしたら家を探さないといけないだろうし、もし落ちていたら……そんなこと考えたくもない。
ため息をついて、佐城さんにメールを返信する。受験が終わって、ほんのりと開放感が出てきた。同時に佐城さんに対して、おざなりな対応をしていたことを思い出す。申し訳なさとか、自己嫌悪とか、いろいろ湧き出てそれを肺の中にとどめておく。声にならないように、ぐっと押し込めておく。
受験期だったことも影響して、私からメールを送ることはしなかった。佐城さんからのメールもどんどん減っていって、前までは短くとも毎日していたメールのやりとりも今となっては月に一回あるかどうかだった。
それからしばらくして、私も大学進学が決まった。結局、バイトをやめてから佐城さんと会っていない。
『件名 無題
絵のモデルに興味ない?』
そんな中、彼女から送られてきた短文を見て、私は混乱した。何も考えずに「は?」と、声を漏らすくらいには理解が出来ていなかった。
発光した画面を凝視したまま、私は佐城さんへどう返事をしようか考えた。
絵のモデル。口の中で転がす言葉はヒリヒリとした感覚を与える。辛いというよりか、感覚が麻痺していく感じ。どう口を動かせばいいのかわからない。そういう感覚だった。
十分か、二十分か迷ったあと、私は佐城さんに返信をした。
『件名 Re:無題
ちょっと理解できないんですけど。なんで私なんですか?』
『件名 Re:無題
強いて言うなら、あなたほど芸術作品として完成された人間はいないからかな』
何を言っているんだ、この人は。
芸術に携わっている人間は変人が多いとは思っていたけれど、実際出会ってみるとうまく頭が働かないものなのだなと思った。
それから小一時間くらいメールをやりとりして、結局私が折れた。彼女に対して負い目を感じていたから、という部分もあったのだろう。私は、そういうときには弱いのだ。一人で勝手に落ちぶれるくらいには。
「あ、来た」
閑静な住宅街の一角に存在している真っ白な家。その前に佐城さんが立っていた。彼女は真っ白なシャツに水色のズボンというシンプルな出で立ちで待っていた。
「お久しぶりです」
「うん、久しぶり」
入ろっか。
佐城さんは楽しそうに靴音を立てて家の中に入る。
まだ朝の七時だというのに家には佐城さん以外は居ないのか、玄関に靴は置かれていなかった。
玄関からは廊下が続いており、左にはリビングダイニング、キッチン。右側奥には二階へ続く階段があった。家に置いてある家具は木製の物で統一されているのか、シンプルで温かい印象を受ける。白い壁紙に日光が反射して、その中に置かれている家具たちは神聖なもののように思えた。天国にある部屋のようだと、ふと感じた。
佐城さんの後ろへ付いていって、天国の階段かのようになっている木製の階段を上っていく。靴下越しに伝わる、木独特の温かさがなぜか私を焦らせた。
二階には部屋が三つ。そのうちの一つ、一番奥にある角部屋の扉が開いた。
開いた瞬間、独特な香りが鼻をかすめた。今までに嗅いだことのない匂いだった。孤独と向き合った人間の香り、とでも言えばいいのだろうか。絵の具から香ってくるものではない。部屋全体に染みついた孤独の匂い。
部屋の中心にはイーゼルと木の机が置いてあって、イーゼルには真っ白なキャンパスがかかっている。壁際には大きな本棚があって本がぎっしりと詰まっていた。窓から日光が降り注がれていてまるで別世界のように思えた。
「ほら、早く入ってよ」
佐城さんが部屋の中から手招きをした。その光景を夢の一場面かのように感じながら、私はふらりと部屋の中に入る。香りに包まれて頭がクラクラした。熱に浮かされているみたいな感覚だ。こんな感覚に犯されているのだから、そりゃ絵を描いている人は、文字を綴っている人は、音を創っている人は、自分の世界に入り込んでしまえて、時々気が狂いそうになるのだと、やっとわかった。
佐城さんが壁際から椅子を二つ持ってきた。温かみの感じる、綺麗な木目のある木製の椅子だった。一つをイーゼルのそばに、もう一つは私のそばに置き、彼女はテキパキと準備を始めた。パレットを準備し、名前の知らない道具たちを机の上に出していた。
よし、と彼女が呟いて前髪をヘアピンでとめて透き通った黒瞳をさらし出す。その瞳はじっと私を見つめて、時間をかけて頷いた。
「座って」
私は彼女の指示に従って座る。すると彼女はうーんと唸りながら鉛筆を走らせ始める。リズム良く跳ねる鉛筆の足音は少し迷いながらも楽しそうに軽やかに歩いていた。
時折、鉛筆を私にかざして等身を測ったりして、真剣な双眸を私に向けていた。人にここまで見られるのは初めてだった。
凜とした、温度のあまり感じない瞳は私を舐めるように見ていく。それがとてもくすぐったく感じた。
半日ほど経った頃だっただろうか。椅子に座るのも案外疲れるものなんだなと思い始めた位の時に、佐城さんが席を立った。
「お茶飲む?」
「ほしいです」
間延びした声で「りょーかいー」と言いながら彼女は階段を降りていった。私は彼女の声が消えた時を見計らって体の力を抜いた。いつも使っていない筋肉が変な使われ方をしているせいで悲鳴を上げている。ぐっと伸びをして、筋肉をほぐす。無意識のうちに呻くような声が出た。
「お待たせ」
隣から白い、細い腕が伸びてきた。その手には透明なコップが握られている。中には緑茶が入っていた。
「ありがとうございます」
私は受け取って礼を言う。彼女は不満そうに軽く頬を膨らませスタスタと椅子に座る。下書きは終わったようで、三時間くらい前から絵の具を使い始めていた。鋭いナイフみたいな変な形のした板を使ったり筆を使ったり、私には未知の世界だった。彼女には彼女なりの着地点があるのだろうけど、それが私にわかるようになるまで長い時間がかかるようだった。
ゆっくりとコップを傾ける彼女の姿はやけに映えていて、絵の中から飛び出てきたのではないかと思うくらいには現実離れしていた。
彼女の瞳が日光を含んで煌めいていた。その瞳を私に向けて、ふっと笑う。
「なんて顔」
控えめに笑っている姿はお嬢様みたいで、育ちの良さを感じる。私と生きてきた世界線が違うのではないかと錯覚してしまうくらいに、私の中の彼女の印象を今、目の前に居る彼女から受ける印象は違っていた。
「あの」
思わず、問いかけが口を突いていた。
目の前に居る佐城さんはきょとんとした顔で私を見つめて、言葉の続きを待っている。純粋な表情で、声で「何?」と、続きを急かしてくる。
突発的に放った言葉だったから私にはもちろん紡げる言葉はなくて、彼女を見つめるだけになる。必死に言葉を探していると佐城さんは堪えきれなかったといった風に吹き出した。私は彼女の感情について行けず、ぼんやりとそれを見つめる。
「いや、ごめん。やっぱり硬かったなって思って」
「か、硬かった? え、何が?」
私が言葉を重ねると、佐城さんはまた笑って立ち上がった。皮膚が地面とこすれる音がかすかに聞こえて、それが私の目の前で止まる。
「頑固だよ、篠田ちゃんは」
頑固者、といわれたことは生まれてから一度も無い。どちらかと言えば柔軟な考えしてるね、とか言われた回数の方が多いだろう。でもそれも小学生とか中学生の頃だったように思えるから、もう私はその頃の柔軟さを持ち合わせていないのかもしれない。
私が真剣に悩んでいると佐城さんがやはり笑ったままで言った。
「ほら、今だって変なこと考えてる」
変な事とは心外だ。佐城さんの言ったことについてしっかり考えてたんじゃないかと頭の中で反論してみるけど、彼女にはそれは届かない。そりゃそうだ。だって口に出してないのだから。
「佐城さんだって……」
「希里。それと敬語じゃなくていいんだよ。もう店員さんじゃないんだから」
彼女の有無を言わせぬ言葉の圧に負けて、私はため息をつく。
「――希里だって変なこと考えてる」
彼女は目を見開いて固まっていた。自分もそう思われていることを予想していなかったのだろうか。
「私はまだまともだと思うけどな」
嘘でしょ?
「半日集中して何かに打ち込めてる時点で変でしょうが」
私は苦笑いをしながら彼女に言葉を投げかける。それを乾いた笑い声で希里は打ち返して来た。多分、彼女には打ち込んでいる自覚はないのだろう。息を吸うのと同じ感覚で絵を描いている人間だろうから。
「まあ、慣れちゃったからね。絵を描くことに」
そう言ってコップの中身を空っぽにする。
「みんなが勉強に集中している間、私は絵を描いていた。みんなが友達を作っている間、私は絵を描いていた。人生の全部を絵に捧げるつもり。そうしたら、多分、私にも生きていた意味があったんだって思えるんだ。そうしたら、きっと苦しいこととかあっても乗り越えられると思うんだ」
噛みしめるように希里は言った。彼女の言葉には希望というよりかは願望に似た感情が色濃く乗っていた。
「絵を描いているときは楽しくないの?」
純粋な疑問を彼女にぶつける。彼女はそれを丁寧に受け止めたあと、しっとりとした語り口で私に返事をする。
「わかんない。でも、苦しくはない。かといって楽しいわけじゃない。多分ね、私は絵を描くよりも、絵を描いているときにその物体とか、その人とかのことがわかっていく感覚が好きなの」
例えばさ。
彼女はそう言って、私の手首をなでる。その手が思ったよりも冷たくて驚いた。
「頑張ったんだなーって思うし」
希里は笑って私の頭をかきなでる。
「うっわー、希里ってやっぱ変だよ」
私は震えた声で彼女に笑いかける。だって、赤く熟れた手首の傷のことは彼女に言っていないし、家族にさえ言っていない。いつも腕時計のベルトで隠しているから、見えないはずだった。
「これも私の物を見る力が冴えてる結果ですね」
希里は私の持っていたコップに自分のコップを打ち付ける。彼女の一つの意思表示のように思えたその音色は私の心に染み渡っていった。希里はふっと笑って。
「ねえ、篠田ちゃん」
まるで子供に語りかけるような優しい声色で言葉を紡ぐ。さらさらとした、肌触りのよい声色は私の頬をなでた。
「私と一緒に暮らさない? ルームシェア。篠田ちゃんにだって悪い話じゃない。家賃が安くなるし、場合によっては家賃も私負担でいいし。それに、一人暮らしは怖いでしょ?」
楽しそうに、踊るように言った。確か、昔メールでそんなことが送られてきたっけ。あのときは現実味がなかったけれど、今はやけに現実的だ。彼女が言葉にしてしまえば、それはすぐに現実になってしまう危うさがあった。
「今のところ、いいところしか提示されてないけど……」
希里はうんうんと頷いて「そりゃね。はじめっから悪いところを言う人なんて居るもんですか」と、うれしそうに呟いた。多分、この人は私が断ることなど考えていないのだろう。
「篠田ちゃんは、私のもの。私の芸術作品になるの」
は?
かすかに自分の声が口から漏れたのが聞き取れた。けれど、希里はその声を聞きこぼしたようで楽しそうに笑っている。今にもステップを踏みそうだ。
「ちょ、ちょっと待って、どういうこと?」
希里は私の発言にきょとんとした顔になる。まさかそこを聞いてくるとは思わなかったのだろう。
「そのまんまの意味だけど? ああ、もちろん普通に生活していいよ。大学に通ったり友達と遊んだり、場合によっては彼氏彼女作ってよし。でも、篠田ちゃんの体は私のもの。その綺麗な体はね。自分で傷を付けたり、彼氏彼女とセックスしちゃだめ。もちろん、その条件を飲まないことも出来る。その場合は家賃は半分」
彼女は笑顔でそう締めくくった。私は未だ混乱している頭で必死に考える。
「さて、再開しますか」
希里はそんな私の心境を考えることもなく、絵を描き始めた。
多分、この人のことは一生わからないんだろうなと思った。
日はとっくの前に落ちて、外はぽつぽつと街灯がつき始めていた。
「できた」
彼女はそう言って筆を机に置いた。夜の静とした空気に石を投げるかのごとく行われたその行為は彼女の一つの生きた証のような、そんな独特な空間を生み出した。
私はイーゼルに近づいて、キャンバスをのぞき込む。
そこには白い背景の中に一人佇む少女の姿があった。その少女は椅子に座っていて、淡い表情をしている。衣服は着ていないようで、なんとなく体のラインが描かれていた。肌色のタイツを着ているように見えた。彼女の両手はうっすらと赤く塗られていて、それがやけにきれいに見える。表情ははっきりとは描かれていないからか、ほのかに生気が灯っているように思えた。
綺麗だった。
希里には私はこんなふうに見られているんだ。
そのことを自覚した瞬間、なんとなく気恥ずかしくなった。
「ねえ」
私は希里の顔をじっと見つめる。前髪のない彼女を真っ正面から見つめるのは初めての事だった。
「これからも、こうやって、私を」
そこまで言って、やっぱりやめた。
彼女はきょとんとして私を見つめる。じっと続きを待っていた。
「私を綺麗にしてくれる?」
希里は力強く頷いた。それを見た瞬間、ホッとした。
希里なら、きっと私の綺麗なところも汚いところも、美しくしてくれる。好きなところ、嫌いなところ。そんなものは消える。だって、私は。
私は机の上に置いてあった透明なコップに向かってリンと、爪先で音色を奏でた。金打代わりのそれは夜の静寂に溶けていって、私たちの心にしっかり刻まれた。
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