白い花に朱を添えて。
宵町いつか
第1話
「ねえ」
バイト中、注文もなくぼんやりと天井を見上げていると同じように暇を持て余していた日紫喜さんがそっと耳打ちしてきた。
「あの女の子ずっと居ない?」
私は軽く頷いて、話に出てきた制服姿の少女が座っている席を見つめる。多分、私と同い年だろう。店の奥側に座っていてここからは見えにくい。ただ、猫背になっていて、制服のしわがのっぺりと伸ばされている。
私の働いている喫茶店は老夫婦が営んでいる小さなところで、カウンター席が八つ、ボックス席が五つしかない。立地が悪いことも相まって、客足もそこまで多くない。常連さんが来ることでどうにか営業を続けられているような状況の昭和感の残った喫茶店だ。あまり給料は高くないが働きやすいし、シフトも融通が利く。老夫婦もいい人たちだし、なにより常連さんも優しい、いい職場だ。
ずっと店の席を独占している少女は常連ではない事は確かだった。常連さんの顔は覚えているし、大抵の常連さんは店のカウンター席に座る。私の知る限り、隅のボックス席に座る常連さんは今までに出会ったことがない。
「ね。まあ、忙しくない時間帯だしいいんじゃないですか?」
「そうだけどさ……なんか不気味だわ」
日紫喜さんはわざとらしく肩を震わせる。今はカウンター席に誰も座っていないからこういう与太話も出来るが、もうそろそろで常連さんである智則さんが訪れる時間になる。早めに切り上げた方が良さそうだ。こういう話はあまり接客業をしている人間としてあまりいい物ではないだろうし。
私は伸びをして、気持ちを切り替える。
そのとき壁に掛かっている時計から五時を知らせるチャイムが鳴った。日紫喜さんがそれを聞いて「あ、退勤時間だ」と呟いて裏に行く。打刻をしにいくのだろう。
あの人は良く言うとマイペースだ。悪く言うと周りに気を使えないタイプ。だから客が居るのに話しかけてきたりするのだ。とはいえ、それに乗ってしまった私も同罪なのかもしれない。
日紫喜さんが居なくなって、少しだけ一人の時間が生まれる。確か五時からはもう二人シフトが入っていた気がする。私と合わせて三人。
最近入ったアルバイトの子が制服を着て、私の隣に並び立つ。新人の子がにへらな笑みを浮かべて私に笑いかけるのとほぼ同時に常連の智則さんが入ってきた。
「しのちゃん、いつものちょうだい」
「はい、コーヒーとホットサンドのセットですね。今なら期間限定でフルーツジャムのトーストセットとかあるんですけど、そっちじゃなくても大丈夫ですか? そっちもおいしいですよ」
「しのちゃんがそう言うならそっちにしてみようかな」
「ありがとうございます」
三人でテキパキと料理を作って、提供する。智則さんはいつものように笑っておいしそうにコーヒーを飲んでいた。新人の子も何度もシフトに入っているうちに慣れたようで教えることはなさそうだった。
「今日、ミチコさんは?」
ミチコさんとはこの喫茶店を経営している奥さんのほうだ。最近、体調が悪いらしい。少し前、店を畳むかもしれないと言っていたが、新人の子を採用するあたりまだまだ粘る気らしい。
「すいません、今日は休んでます」
そうなんか、とさみしそうに呟いた智則さんを新人の子が励まし、智則さんがええ子やな! と元気になるまでの課程が流れるように行われた。私はその間に智則さんにコーヒーを出す。ちらりと奥の席を見ると、絵を描いている少女の手が控えめに上がっているのが見えた。黒い頭が忙しなく動いていて、こちら側を伺っているのがわかる。
「すいません、ちょっと出ますね」
私はそう言ってカウンターから出て、少女の元へ急ぐ。少女は私が来たことがわかるとほっとしたように手を下げた。
「大変お待たせいたしました」
私は注文を取るためにペンを構える。
「あ、えっと、コーヒーおかわりお願いします」
「はい、コーヒーですね。ミルクや砂糖はどうなさいますか?」
「大丈夫です」
凜と透き通った声だなと思った。盗み見るように少女を見る。髪は肩甲骨あたりまで伸びきっており、目は前髪で隠れている。前髪の間から覗く双眸は鋭く、透き通っていた。
少女の手元にはスケッチブックがある。その紙面は鉛筆で黒くなっており、何が書かれているかよくわからない。ただ、絵だという情報だけが私の目に飛び込んできた。
「絵……ですか。綺麗ですね」
常連さんと話しているノリで、なんとなく言ってみると少女は驚いたように声を漏らしてから「ありがとう、ございます」と歯切れ悪そうに言った。言わなかった方が良かっただろうか。
カウンターに戻ってコーヒーを作る。智則さんの雑談に相づちを打ちながら、ぼんやりと彼女のあの絵の事を考えた。
「うーん……」
季節は巡って、私は受験生になった。まだ暑い。今も半袖の制服に袖を通しているというのに汗が止まらない。代謝がいい方ではないから、多分気温が高いのだ。
目の前で唸っているミチコさんに申し訳なさを感じながら、私はもう一度礼をする。
「ごめんなさい」
「あ、いいのよ。篠田さんは悪くないのよ。受験だし、仕方ないわ」
私は夏休み明け、今から大体二ヶ月後にここのバイトをやめようとしていた。理由は受験勉強に本腰を入れたいから。一年生の頃から働いていたし、無駄遣いはしない方だったから一人暮らしが出来るくらいには貯蓄は十分にある。
「篠田さん、ほんとうに長い間ありがとうね。あと少しだけど一緒にお願いします」
ミチコさんのさみしげな言葉がきゅっと私の胸を締め付けた。
その日のアルバイトの時、あの絵描きの少女の姿があった。あれから一ヶ月に一度か二度の周期で少女はここへ来て、鉛筆を走らせていた。一度聞いたけれど、あれは消しゴムを一回も使っていないらしい。もし間違えたら、それを絵の中に取り込んで目立たないように鉛筆で線を重ねるという。なかなかこだわりがあるらしい。ついでに聞いた情報だと彼女も、私と同じ受験生だそうだ。たしかそれを聞いたのはつい最近だったように思える。
「私、再来月でやめるんです、ここ」
いつものようにコーヒーのおかわりを頼んできた彼女に向かって、私は言った。彼女は驚いたように目を丸くして、手に持っていた鉛筆を落とした。幸いなことに、鉛筆は膝の上で止まった。
「そうなんですか。残念」
彼女は目を伏せて、思い出したように顔を上げる。そして鉛筆を取って、スケッチブックの端になにかすらすらと文字を書いて、その部分を千切り私に手渡した。
「あとから見てださい」
そう言って、彼女はスケッチブックに向き直る。より集中したようにぐっと猫背になった彼女を見て、申し訳なくなった。多分、私のせいだろうから。
カウンターに戻ると日紫喜さんがじっと私を見ていた。
「なにもらったの?」
「あーゴミです」
我ながら下手な嘘だと自覚はあった。しかし、日紫喜さんはそれ以上追求することなくぷいっと私から視線を外して常連さんとの会話を再開させた。
バイトをやめることで、この人から離れられることは唯一幸せなことなのかもしれない。ふと、そんなことを思った。
バイトが終わって、家に帰って制服のポケットの中に少女からもらった紙切れを見つけて、その存在を思い出した。何が書かれているのかわからなかったけど、緊張とかドキドキとかそういうものは無かった。日常で息を吸うみたいに、ごく自然に開けた。お母さんが毎日、麦酒を開けるみたいに軽やかに、滑らかに。
中にはメールアドレスと
私はミチコさんしか登録していないメアド帳に少女のメールアドレスを登録して、佐城希里にメールを打つ。今のご時世、メールを送るのは珍しく思えたけど、彼女ならやりかねないなと思った。
『件名 はじめまして
はじめまして、というのも少し可笑しな気がしますが、はじめまして。喫茶店で働いている篠田です。』
私はそれだけ入力して送信した。何を送ればいいのかというのもよくわからなかったし、長文になってしまうと読む側も疲れるだろうと思ったからだった。ぼんやりと送信済みと表示された画面を見つめる。お母さんにご飯で呼ばれるまで、その画面をじっと、助けを求めるように眺めていた。
彼女から返信が来たのは日付が変わるかどうかといった時間帯だった。私はそのときテスト勉強をしていたけれど、通知音が来た瞬間にスマホに飛びついた。どうせ形だけの勉強だったのだ。やってもやらなくてもどちらでも良かった。
『件名 Re:はじめまして
メールしてくださってありがとうございます……! うれしいです。正直、捨てられると思っていたので、安心しました!』
文面だと受ける雰囲気が変わるな、と感じて返信を打つ。既読の文字が付かないからなにも気にせず、じっくりと文面を考えられるのが良かった。自分のプライベートが守られている感じがした。一人の人間として、認められている気がした。
『件名 無題
捨てるなんてしませんよ。人からもらったものですし。』
短く、中身のあるのかないのか釈然としない言葉が応酬される。私が寝るまで二時間ほどメールをやりとりして、少しだけ彼女の事がわかった。隣の市にある高校に通っていること、大学は推薦で決めたこと、県外なので一人暮らしをしようとしていること、将来的には絵で食べていこうとしていることなどなど、彼女は私の質問に対してしっかりと答えてくれた。私が寝る直前に彼女からの質問の長文メールがやってきて、早く返信しなきゃいけないなと思ったのを覚えている。すぐにまどろみに飲まれてしまったけど。
翌日、朝起きてからすぐに彼女からの質問に答えていった。今通っている高校、受験は一般で受けようとしていること。彼女の質問に全て答える頃にはいつも家を出ている時間だった。
『件名 だったら
もし、同じ県の大学受けるんだったらルームシェアとか出来たら面白いですよね』
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